そういえば

私の父親の理想の女性像が「自分よりも頭が悪くて、暴力的な女性」、だとすると、家の中には、「父親の理想の女性」はいません。でも、それは、世間一般の見方から言えば、むしろ幸せだ、と思えることだと思います。だって、妻や娘が、自分よりもお馬鹿さんで、かつ自分に暴力を振るうようでは、その方が辛いでしょ? と思う。でも、そういう一般的な物の見方を父親は、客観的に見ることができません。解離性障害を起こしているから。だから、逆に、家の中に「理想の女性」がいないことが、ストレスになって、どんどん知識活動を行う意欲が低下し、どんどん父親自身がお馬鹿さんになっていくということでー;。精神科の専門医であるトリイからみれば、カウンセリングに来る人達というのは、こういう歪んだ価値観からくる障害に悩む人が多いのだと思う。

でも、自分の妻子の出来がよければ良いほど、不満がたまって不幸になるなんて、まるっきり笑い話でしょ? とトリイに言われる気がする。トリイが、精神疾患なんてまるで「喜劇」だ、と言うのが分かる気がする-;。でも、人の心って言うのは、そうなっているんだな、と思ったのでした。

だから、世間の人は私も、心の奥底では歪んでいると思ってる。何故なら、私の中の真の理想の「父親像」は、実の父親のような人で、要するにそれに一番近いのは「石井竜也」だから。でも、私は、夫として愛し、人として尊敬できるのは、「世間一般的には」兄さん達のことだって頭では分かってる。でも、心は頭と別物だから、きっと心の方はそれについていかないだろう。だけど、あなたは客観的なものの見方ができるから、「自分が心から愛していない人と結婚しても、幸せになれるよ。」と、ジブリの鈴木さんに言われる。蛇の兄さんは、兄さんでタフだから、「生まれながらの婚約者同士が結婚して愛し合うのは当然なの!」と言って、ぷすぷす怒る。人の心というものは、たいへんなものなのだな、と思うのです。

本日の日誌

昨夜も雨が降ったので、水をくみ出したり、様子を見ながら穴に潜ったり、寝たりして。帰る時に、親といろいろ話をしたわけですが、トリイ大先生のカウンセリングのことを述べると「現実感がわかない」と述べるわけで。だいたい、私にそんな高度な精神科の知識があるわけではないので、いろんなことが言えるはずがないのは、「客観的」にわかりきっているわけですが、親は「現実感がわかない」と言う。でも、解離障害の人が述べる「現実感がわかない」とは、要するに、その人が「現実のものとして認めたくない事項」を指すものであるので。親にはただ、何故、自分がトリイのことを「現実の物として認めたくない」のかを考えて貰うしか無いわけで。母親の問題点の一つは、「現実感がわかない」と述べたことについて、すぐに「それは嘘だ」と決めつけてしまうことにあるのです。例えば、インスタ中毒のお嬢さんのことなんか、「やらせ」だ、と決めつけてしまうわけで。だから、母親が認めたくないことを言った人のことは、本当のことを言っていても、すぐに「嘘つき」と決めてしまう傾向があるわけで。トリイの言ったことを認めたくなければ、トリイの言ったことを「嘘」だと決めつけるだろうし、トリイの言ったことを書いている私のことを「嘘つき」だと言うかもしれない、と思う。そこに、母親の病の深さと問題点があるわけです。でも、母親は、蛙の王家の話しかしなかった。その人たちはその人たちで、問題がありまくるわけで、加藤君は「もう王家のために働くのがいやになっちゃった」って言って愚痴ってくるし、4番目の子は「身の置き所がない」って言ってくるわけですがー;。自分の問題点をきちんと見据えて、私と話をするつもりはないんだなー、と思っただけです。でも、それは母親の中では、私のことを「嘘つき」だって決めつけてることと同じなんだ-、その病気が治らない限りは、ってそうなるのです-;。

でもって、本日のトリイ大先生のご講義の内容です。

さて、時間の軸に沿って話を進めるために、今度は太陽女神のお父さんの話をしましょう。お父さんを精神医学的に語る上で、一番分かりやすいキーワードは、「気にしない。気にしない。」です。こういう言葉は、お父さんが、「現実に起きていることを現実だと認めたくない場合」にしょっちゅう発せられます。家の畑に誰かが侵入して、除草剤をまいて、木や作物をどんどん枯らせてしまう。それが目に見えて明らかなのに、お母さんがいくら具体例を突きつけて説明しても、お父さんは「認識した、認識した。でも、気にしない、気にしない。」と述べて、現実に対応する意欲を見せません。現実には、まるでなかったことのようにふるまいます。これは、「現実に起きていることを目の当たりにして動揺した際に、動揺を無理矢理押さえ込もうとすると、現実に起きていることに現実感が持てなくなって、現実でないものを見ているような気分になること」、と説明されます。だから、結果的には、現実なのに「現実ではなかったこと」にされてしまいます。すなわち、お父さんの心の中では、「除草剤はまかれていない」ということになり、その説明のために、「雨が足りなかったから」とか、そういう理由が作られることになります。でも、それは事実ではないから、「妄想」です。現実の真実を認めたくないために、新たな妄想を作り上げてしまい、現実に起きたことには「現実感」が持てないのです。こういう状態を「現実感の喪失」といいます。お父さんには、他人が家の敷地内で除草剤をまいている、という事実に対して、どうしても現実感が持てないのです。お母さんが、インスタグラム中毒の若い娘さんの例に、どうしても現実感が持てなくて「やらせだ」と言ってしまうのと同じ心理なのです。そして、このように現実に起きていることと、当人が認識していることの間に「解離」がみられることを「解離性障害」といいます。こういう人は、現実を客観的に見ることができません。その前提としての「何が現実なのか」を、理解できていないからです。

お父さんも、お母さんも、全体としては社会生活に適応して生きてきた普通の人です。現実のものとして、客観的な見方をできるものもたくさんあります。でも、「自分が現実のものとして認めたくないもの」だけ、客観的に見れなくなるのです。

太陽女神が、お父さんに対して「不思議」だと思っていたことがいくつかあります。それは、お父さんの知的活動について、です。お父さんは、学校の先生をしていたわけですから、本来の知能はそれなりにあるはずです。しかも、「門前の小僧」の通り、自分が知らないことでも、繰り返し他人に教えていれば、自然に覚えてしまったこともいくらでもあるだろうに、それにしては持っている知識が乏しすぎる。小学校の歴史で出てくる、女王・卑弥呼のことも知らないし、となります。これは、精神医学的には「知的活動が低下している」となります。知的活動が低下しているので、実際の知能よりお馬鹿さんに見えます。その一方で、お父さんは、かつては陶芸、今は畑仕事、というように、特定の分野だけには、非常に強い意欲を傾けます。でも、知的活動が低下しているので、「種をまく時期がいつなのか」をお勉強する意欲が持てなくて、お勉強できません。お母さんは「10年も畑仕事をしておいて何故?」と思いますが、知能の割に、お勉強する意欲が持てなさすぎるのです。そして、お母さんが嘆くように、お父さんは水回りのこととか、家の敷地の整備にも全く意欲を見せません。そういう「力仕事」は、本来家庭の中で男性の役目なのに、お母さんはそれを一人でやってこなければなりませんでした。要するに、お父さんもやはり、失感情症に陥っているのです。特定の意欲は突出していますが、それ以外のことには意欲を持てません。そして、「知的活動に意欲を持てない」という典型的な「失感情症」ですので、そもそも、自分が執着していること以外には、どんなお勉強でも、する気がないのです。だから、お父さんは、「現実感の喪失」という解離性障害と、弱冠の失感情症を発症している人、となります。

こういう現象は、幼少期の親との関わりが原因で生じることが多いのですが、太陽女神もお母さんも、お父さんが幼少の頃、親とどんな風にかかわって、親をどう思っていたかということは知りません。でも、今、どう思っているかは知っている。お父さんのお母さん、すなわちお母さんにとってのお姑さんは、お母さんの実の父親からは「ろくでなし」と見えるような人でした。子供達が小さい頃は、よく叩いた人だそうです。でも、今お父さんは「いい親だった」と思っています。だって、自分でそう言うのですもの。お母さんは、「親が生きているときには、たいして好きな親でもなかったくせに。」と言ってあきれます。お父さんは、母親が「ろくでなしの暴力親だった」という現実を認めたくないのです。だから、真実の親の姿は記憶から消してしまって、「子供のために苦労した、いい親だった。」と思うことにして、そう言っているのです。今では、自分でもそう思っているのです。こうやって、「自分が現実だと認めたくない過去の事実」をどんどん事実でない「妄想」に置き換えてしまっていくことを、「解離性健忘」といいます。これも解離性障害の一種です。要するに、「現実感の喪失」と「解離性健忘」が駆使される結果、お父さんは「現実のものとして認めたくないもの」を、どんどん「妄想」に書き換えているのです。こういう作業が、日々、お父さんの心の中で行われています。

お父さんの対人関係について、お母さんはこう述べています。「自分よりも学歴の低い、頭の悪い人達と付き合うのを好む。そして、そういう人達を、自分では利用しているつもりで、逆に利用されている。」と。これは太陽女神から見ても、その通りであって、お父さんは付き合っている人達の、悪意ある本性を見抜くことができません。「安くやってやる」という言葉に踊らされて、敷地の整備をやってもらうはずの人に、敷地内に大量のゴミを埋め込まれても、そのことにすら気がつかないのです。しかも、自分が信頼していた人が、悪意ある人だと現実に認めたくないので、事実を知っても、「従業員がやったことで、当人は知らないこと」とかって言って、現実の事実を認めようとしません。どうしても、お父さんは、その点に現実感を持てないのです。だから、言い訳の妄想だけを考えつくようになっています。そして、その妄想の方を自分でも信じています。

それにしても、お父さんは、何故「自分よりも学歴の低い、頭の悪い人達を利用することを好む」のでしょうか。お父さんは、彼らの人柄を理解していて、その人柄を信用していたり、尊敬しているから付き合っているわけではありません。あくまでも、「自分の目的のために利用する」ために付き合っているのです。では、幼い頃の、お父さんにとって、「自分よりも頭が悪くて、利用できる人」とは誰だったのでしょうか。お父さんのお父さんは、学歴はともかくとして、頭は良く、裁判の書類も自分で作成することができる人でした。子供達の学業の進路を決めたのも、ほぼこのお祖父さんでした。お父さんの生きた時代も「子供は親のいうことをきくもの」という価値観がまかりとおっていましたから、子供達は男親のいうことを聞いて、どこに進学するのか、とかそういうことを決めていたのです。でも、お父さんの身近に頭の悪い人もいました。それは、お父さんのお母さんです。要するに、太陽女神の父方のお婆さんは、お父さんにとって、「うまく目的に沿って利用する親」だったのですし、これが真実のお父さんと、そのお母さんとの「親子関係」だったのです。そういう母親との人間関係が、大人になってからのお父さんの「対人関係」に持ち込まれているのです。お父さんは、実の母親を無意識下で信頼していたように、母親に似ているところのある「他人」を信頼しているのです。ということは、お父さんは、お父さんのお母さんのことをけっこう好きだったのです。でも、失感情症の傾向が強いので、彼らが自分のことをどう思うのかは、あまり頓着せず、多少分析的になっています。でも、暴力的な母親を「良い母親」だと思うくらいだから、客観性を伴った分析としては不充分です。

そもそも、子供はどうやって、「客観的なものの見方」とか「現実感」を手に入れるのでしょうか。赤ん坊が最初に接触する存在は母親です。赤ん坊には、本能的に心の中に理想的な「母親像」があって、それに沿って実の母親との接触をはかり、コミュニケーションを取ろうとするのです。本能的に理想とする母親とは、優しくて、お乳をくれて、自分の面倒を見てくれる存在です。その母親に甘え、頼ることで、子供自身も人間として成長しようとするのです。でも、現実の母親は100%理想的とは限りません。母親として欠点のある人もいます。でも、大抵の場合は、子供がそこそこに育つように面倒を見てくれますから、子供は現実の親と接触して、理想の親と現実の親を比較して、そこに差をみつけたり、一致点を見つけたりします。そうやって、「母親」というものを、自らの精神活動で分析して、初めて「自分の親は、○○のような親だ」と認識できるようになります。そこで、最初に持っていた「理想の母親像」と「現実の母親像」が統合されて、一つの具体的な人間性と個性を持った「母親」の真の姿を理解できるのです。これが、最初の「現実への客観的なものの見方」になります。その後は、例えばおもちゃを見たら、まずそれがどういうものなのか想像してみる、実際に触って遊んでみる。そこに、想像との差や一致点を見いだす。要するに、最初に母親との接触で行ったような、分析と認識行動がことあるごとに繰り返されて、子供は自分以外の「外」のものを現実的かつ客観的に認識できるようになるし、そうやって知識や経験は増えていきます。物事を客観的に見れるようになると、更に理想を追求するために、物事を改良すべき点とか、新たな物品や概念を生み出す、というような、更に発展した思考が可能になります。

だから、最初に自分の中の「具体的な母親像」を客観的に作り上げることができないと、物事を分析して、客観的に見る方法が自己の中でうまく確立できず、現実にあるものと自分の心の中にあるものを一つに纏めて、分析して、イメージを統合していくとういう作業が苦手になって、現実にあるものと心の中で認識しているものとの間に「解離」が生じる「解離性障害」に陥って、「現実感の喪失」等の症状が生じてきます。それは特に、「その人が現実のものとして認めたくないもの」に顕著になります。例えば、お父さんの場合は「余所の人が家の敷地内で除草剤をまく」ということで起きます。信じたくないから、ろくに調べもせずに「ありえない」と言ってしまう。

赤ん坊が、「理想の母親像」と「現実の母親像」を一致させて統合させることができない場合とは、どんな場合でしょうか? それは、両方の落差が激しすぎて、いくら分析しても一つに纏めることができない場合に生じ得ます。現実の母親が、面倒を見てくれなかったり、子度が恐怖を感じるような行動をとり続けると、「面倒を見てくれる優しい母親」と「現実の母親」の差があっまりにも大きいので、認識に解離が生じる。そうすると、子供はつじつまの合わない、歪んだ母親像を生み出すのです。お父さんの場合ですが、お父さんのお母さんは、子供に対しては、暴力的な人でした。「優しくて面倒を見てくれる母親」像とは、あまりにもかけ離れた人であったので、お父さんは理想と現実が統合された「客観的な母親像」というものを作り上げることができず、お父さんの中の「母親像」は時間の流れと共に変化しているのです。そして、お父さん自身では、無意識のうちに、「自分よりも頭が悪くて、暴力的な、利用するだけの母親」が、「理想の母親」だと思っているのです。しかも母親を「客観的」に見ることができないから、自分の無意識下の「母親像」が歪んでいて、変だということにも気がつけません。

お母さんは若い頃から、お父さんが家のことを、いつもお父さんの家族(お姉さん)に相談してしまうことが不満でした。また、お母さんは自分のお父さんを理想の男性と思う傾向が強いのですが、夫はそういう人ではありませんでした。だから、いつもお母さんはお父さんが不満でした。一方、お父さんの方も、お母さんに不満を抱いていました。それは、お母さんがお父さんの「理想の女性」ではなかったからです。お父さんの理想は「自分よりも頭が悪くて、暴力的な女性」でした。周囲から見れば、お母さんはそういう妙な「理想像?」に比べれば、よほど良い妻であり、母であったわけですが、お母さんが一般的な良き妻、良き母になればなるほど、お父さんの不満は募るのです。だから、お父さんは、お姉さんが生きている間は、お姉さんが「理想の母親像」の代理でした。お姉さんが亡くなった後は、「自分よりも頭が悪い知人」がその代替となりました。お母さんに対する妙な理由の「不満」は解消されることがありません。このように、自分が赤ん坊の頃に、母親との間の正常な「統合と分離」を経験して、「客観的なものの見方」を形成することができない人は、他者には理解不能な歪んだ価値観を持つことがあって、それがその人の人間関係全体、特に夫婦関係に大きな影響を与えうることとなるのです。お母さんの方も、「心の中の理想の母親像」と「現実の母親像」を統合することができず、「母親像」に関しては「子供に冷たい母親像が良い人」というイメージが多少ありました。そして、お母さんにも特定の事柄に対し「現実感の喪失」が起きています。要するに、お母さんとお父さんは、夫婦揃って、解離性の人格障害を抱えており、「現実を客観的に見るという能力」が弱まっていました。お父さんの方は、それに加えて失感情症からきていると思われる知識活動の低下が生じているように思います。物事を勉強して知識を得よう、という気持ちが乏しくなるので、当然物事を見る視野も狭くなるのです。

親と子供の関係は、「子供の進学」とか「進路」に関して重要です。経済的にも重要ですが、精神的にも重要なのです。お父さんの場合、お祖父さんは子供達に「できうる限りの教育を授けよう」としていたように見えます。お父さんの一番上のお姉さんは、女学校に行かせて貰ったことを、とても自慢していました。頭が良ければ、もしかしたら、長野高等女学校(今の西校)に行かせてもらっていたかもしれないし、もしそうなっていたら女子大学にだって行かせてもらっていたかもしれません。でも、子供の頭脳の方が、そこまで望めそうもなかったのです。お父さんの、場合、お祖父さんは最初、長野中学(今の長野高校)に行かせようとしていました。でも、合格しなかったので、1年の浪人の後、師範学校(今の教育学部の前身)に進学させました。それは戦中の話でしたので、戦後、お父さんは新制度の教育学部に移行して、そこを卒業しました。お父さんのお父さんの教育方針は、「子供達に、可能な限りの教育を授ける」というものでした。最初、長野中学に入れるつもりだったのだから、「先生にするために師範学校に入れた」わけではないのです。そこしか受からなかったから、そこに入れたのです。要するに、お祖父さんは職業訓練の前提として、「○○の仕事につけるために進学させる」ということはしない人でした。あくまでも、進学の目的は「子供に教育を受けさせる」ことだったのです。その結果、お父さんは先生になりました。長野中学に進学していたら、もっと上の大学に進学して、他の職業についていたかもしれません。

ところが、お父さんの場合はそうではありませんでした。音楽の先生であったお父さんは、子供達に、小さい頃からピアノを無理矢理習わせていました。お母さんは「あまり無理強いすることはないのに。」と考えて、そう述べました。そうしたら、お父さんはこう答えました。「ピアノが弾けなければ先生にはなれない。」お父さんの心の中では、子供が将来就く職業まで、親が決めることにされていました。お祖父さんの教育方針を見ると、必ずしもそうではなかった形跡がいくらでもみられます。お父さんは何故お祖父さんの教育方針を受け継がなかったのでしょうか? どのような心の動きがそこにあったのでしょう? それは語られることがなかったので分かりません。お父さんの心の中の記憶は、いつの間にか、「子供の職業は親が決めるもの」と、父親の行ったこととは別のものにすりかえられてしまっていたのかもしれません。それは分かりません。でも、太陽女神のお父さんとは、このような人であるのです。

本日の日誌

昨日、大雨が降ったので、たいした作業はできず、水路を整備したり、お手紙を出しに行ったりして。

で、空いている時間には、トリイ大先生が降臨してきて、カウンセリングをしてくれるわけですが、ともかく彼女はアメリカ人であるので、ものすごく「現金主義」な人であることが発覚した気がするわけで。トリイは、小児精神科の専門家だから、親子間の問題をカウンセリングする時には、子供が小児の場合は、「今後、どうやって育てていくのか」ということを中心に考える人です。でも、当事者の双方がもう成人している場合には、大人社会のルールに合わせて、「トラブルは、すべからく金銭で解決すれば良い」と考える人です。もうお互いに大人同士なんだから、トラブルは金銭で解決して、お互いに後腐れ無いように、納得すればいい、と思っているらしい。そして、カウンセリングした患者の例をいちいち分析して、患者に対しては、良きカウンセラー、良き医者であろうとするけれども、心の中では症例をせせら笑って楽しむのが趣味らしくて。そうでもなきゃ、「精神科医なんかやってられない」と思っているらしいのですが-;。なんか、すげえ師匠だ、と思うことが多いわけですが。でも、言っていることはいちち的確な気がする。

というわけで、以下、本日のトリイ先生のご講義なわけですが。

人は何故自殺するのか。経過の長い物事は、時間の古い順に整理すると、良いこともあるかと思います。

太陽女神のお母さんの親戚には、自殺した人が何人かいます。特にお母さんの叔母さんの例を上げます。お母さんの叔母さんは、お母さんのお母さんの姉ですが、妹が貧農に嫁いだのとは対象的に、よりお金持ちの家に嫁ぎました。後妻であったので、「格上」の家に入ることができたのです。2回の出戻りで、貧農に嫁いだ妹とは対象的です。この叔母さんは、財産があったので長男を医者にすることにしました。それで東京の私立の医大に進学させたのです。しかし、弟の次男は、通り一遍の田舎の教育を受けさせて貰っただけで、実家で農業をやることを母親に求められました。子供は「親の言うことを聞くのが当たり前」の時代でしたので、弟は表面上は逆らいませんでした。叔母さんは、長男の教育費を捻出するために、田畑を売り払います。農業をやらされていた弟は、自殺してしまいました。お母さんは、この件を「田畑を全て売ってしまわないで、弟の生活のために、弟にも財産を少し残してやっていたら、弟は自殺しなかったかもしれないけれども、そうではなかったので、将来を悲観して次男は自殺してしまったのではないか。」と述べました。これは確かにそうかもしれません。

まず、これを「精神科的」に検討してみましょう。この事件は人が自殺する「1例」であって、具体的なものですので、医学的には「各論」ということになります。では、「人は何故自殺するのか」を、総論的に述べるとどうなるのでしょうか。それは、こうなります。「人は生きる意欲を無くすと、自殺するのです。」

お母さんの従兄のケースを見てみましょう。叔母さんは、長男にだけ、高度な教育を受けさせました。将来的に、大きな収入に結びつきうる教育です。そして、そのために家の財産をつぎ込みましたから、次男の方には、お母さんが考えたとおり、不満に思う気持ちがありました。でも、その不満は表に出すことを許されませんでした。何故でしょう?
それは「親の言うことを聞くのが当たり前」だからです。感情を表に出すことが許されなくて、心の奥底に閉じ込めなければなりませんでした。そのため、感情を司る精神活動が停滞して、感情が次第に鈍麻してきます。感情活動が停滞すると、「生きる意欲」が失われます。「生きたい」と思うことは、感情だからです。「生きる意欲」を失った次男は、「生きたい」と思わなくなって、「生きること」が苦痛になりました。だから、苦痛から逃れるために、自殺したのです。

もし、この人が、当時の農村の習慣であった「親の言うことを聞くのが当たり前」を蹴散らしてでも、「生きたい」と思う意欲を持つ人であったらどうなったでしょうか? 自分にもそこそこの教育を授けて欲しい、でなければ生きられるだけの田畑が欲しい、とそういうことが可能になるまで母親に食い下がったかもしれません。でなければ、親も財産も捨てて、身一つで家出したかもしれません。そうしたら、その人は生きることができたかもしれないのですが、彼はそうできなかったのです。

このように、なにがしかのストレスで、精神的な感情活動が停滞して、「生きる意欲」が少なくなること、を「うつ病」といいます。要するに、医学的には、お母さんの従兄は、親が過度のストレスを与えたので、うつ病を発症して自殺した、とこうなります。

人が、ストレスを受けて、感情活動が停滞すると、大きく分けて2つの症状が起きえます。1つは、上記のような、典型的な「うつ病」です。もう一つは、「失感情症(アレキシサイミア)」といいます。

「失感情症」とは、やはり感情を表に出すことが許されなかった場合に、感情を抑圧しすぎて、自らの感情を認識できなくなる状態です。このような状態になると、ストレスがかかって不満を持っても、当人は自分が不満を持っている、と認識できなくなります。このような場合も感情活動は、停滞します。そのため、知識的活動の意欲が低下したりして、例えば学校の成績が下がったりします。勉強する意欲が失われるからです。要するに「頭が悪くなった」ように見えます。そして、「失感情症」に陥った人は、自らの感情を認識できなくなるので、他者の感情も認識できなくなります。要するに、「自分が他人からどう見られるのか」、ということに無頓着になります。そんなことは「どうでもいいこと」になります。そのため、対人的なコミュニケーションをうまくとることができなくなり、人と接触するのを避けるようになります。現代的には「ひきこもり」の一因ともいえます。このような人達は、「生きる意欲」がなくなって、自殺するほどではありませんが、外に出る意欲、人と接触する意欲が持てないのです。でも、自分で「何が嫌だと思ったのか」が分からないので、ストレスの原因が自分でも分かりません。お母さんの従姉妹の場合は、「母親の仕打ちがストレスの原因」であった、と周囲にも分かりやすいし、おそらく当人もそう思っていたと思います。でも、失感情症の人間は、職場での何が自分のストレスの原因なのかが分かりません。だから、「就職したら、特に問題はなかったけれども、なんとなく仕事をする気がなくなっちゃった。」となります。仕事をする意欲がなくなるような問題があったはずなのに、それが自分でも分からないのです。

教科書的には、「感情を抑圧するようなストレス」を人がかけられると、この2つのような病的状態に陥り得る、となります。そして、ごく稀に、「失感情症」の症状の特例として、該当者が「非常に分析的になる」という現象が起きます。自分の感情も、他人の感情も、認識できないので、その代償的行為として、全ての物事を理論的、理性的に分析して理解し、対応しよう、とするようになります。例えば、「人と挨拶するのは、それが礼儀だから」と考えるのです。逆に「好きな人には挨拶する、嫌いな人には挨拶しない」とは、考えなくなります。そして、挨拶する相手が「好きなのか嫌いなのか」と問われると、「分からない」となります。当人に、人として「好き」とか「嫌い」という感情はあるはずなのですが、自分でもその感情が「分からない」のです。このような人は、対人的なコミュニケーションを、分析能力で乗り切ろうとするので、相手の気持ちを考える、というよりは、「ここではこういう対応をすべきだから」とか、「分析の結果、相手の立場は、こうだから、それに相応しい対応をする」というやり方で行動します。感情を伴う人間的、というよりは、マニュアル的、計算的な対応です。そして、分析能力の精度を上げたいと願うので、感情活動は低下しているのに、知的活動は増します。だから、勉強の意欲も落ちないため、成績も落ちません。そのため、該当者が子供の場合には、心の中に「病的状態」があるにもかかわらず、一見すると成績の良い、好奇心にあふれた、ちょっと風変わりな子供、と見えるようになります。そして、こうなるケースは非常に稀なため、「失感情症」の一形態であるにもかかわらず、病院へ行っても「失感情症」とは診断されません。なぜなら、「失感情症」の診断基準に当てはまらないように、意図的に基準が作られているからです。

お母さんにとっての、叔母さんの影響力はいかなるものだったのでしょうか。お母さんにとっては、叔母さんは「姉御肌の優しい叔母さん」でした。叔母さんが、自分の次男に行ったことを、一応分析して、客観的に非難する気持ちもありましが、全体としては「好きな叔母さん」でした。そのため、叔母さんの生き方そのものに、お母さんは好意的です。それは、お母さんのお姉さんにも当てはまります。すぐ上のお姉さんは、自分の子供達には、必ずしも「良い母親」とはいえない点がいくつかありました。しかし、お母さんには「優しいお姉さん」でありました。だから、お姉さんの生き方にも、お母さんは好意的です。こういうことが積み重なると、どうなるのでしょう。お母さんの深層心理には、「子供に冷たく当たる母親は、非難すべき対象ではない」ということが少しずつすり込まれていくことになります。すなわち、「母親が子供に冷たく当たること」を、次第に、無意識の内に肯定的に見るようになります。

また、もう一つ。お母さんの性質として、お母さんのお母さんとの共依存関係から抜け出せず、まるで母親の気持ちを代理で示すような思考を示しがちです。小説を書こうと思ったときに、建礼門院徳子を母親、後白河院を祖父母、平宗盛を叔父さん(母親の長兄)に見立てようとしました。結論からいえば、これは書かない方が良かったのです。なぜなら、書いた文章をどこかに送れば、敵がその文章を読んで、お母さんのこのような人となりを、必ず分析して、それが自分たちにとって、どのように利用すれば好都合なのかを、考えるからです。叔母さんのことを、お母さんのお母さんはどう思っていたのでしょうか。裕福な姉のことはうらやましい、と思っていたと思います。お母さんが、母親の気持ちを代理で追体験した場合には、「子供を医者にしてうらやましい」と思うようになります。お母さんの叔母さんは、いくらお金持ちでも、単なる田舎の金持ちにしては、無理をして分不相応な私立の医大に子供を進学させて、医者にしました。それは何故でしょうか? それは、お母さんに、叔母さんのことを「子供を医者にしてうらやましい」と思わせるため、そして、「母親が子供に冷たく当たること」を肯定させるために、「やれ」と言われてやったのです。その結果、お母さんは「子供を医者にしてうらやましい」と思うようになりました。だから、今、お母さんが「精神分析」されて、いろいろ言われなければならなくなった、一番の古い、具体的な原因は、叔母さんが「長男だけを医学部に入れて、次男を自殺に追い込んだ」ということにあるのです。さあ、そこから起きたのは、悲劇でしょうか? それとも喜劇でしょうか? しかし、長い話ですので、今日はここまでにしましょう。

ということで、本日の、トリイ大師匠の述べたお話は、ここまで、ということで。昨日、自分の性的なトラウマのことを日記に書いたら、「「PTSD」を発症して、感情が抑圧されている結果、理論と理性でしか物事を考えない、理論と理性の化け物になってますよ。」と言われたわけでー;。「喜劇」でしめることないでしょうがーー、トリイーーー、と思ったわけですが。「PTSD」って、そんな大仰に言うのですか、私は戦場からの帰還兵ですか? 「理論的で理性的で何が悪いのですか?」と思ったわけで。そうしたら、「理論と理性でしか物事を考えない人間がカウンセリングを試みた場合、患者さんの感情が理解できなくて、患者さんの気持ちによりそうことができなくなります。だから、患者さんの気持ちに沿ったカウンセリングができにくくなる。具体的には、理論的、理性的に物事を話して、お母さんがなかなかそれを受け入れられなくても、『理論的、理性的に考えていない』といって非難する気持ちを控えるようにしなければなりません。」と言われました。もう早く精神科医はクビになりたいわけですがー;。「失感情症(アレキシサイミア)」なんて、生まれて初めて聞いたよ。頭も成績も良くて、友達とのコミュニケーションを取るのが苦手な子供で、図書館で本ばっかり読んでて悪かったですねえ? レアなケースって、どのくらいレアなのですかねえ? とおたずねしたら、「それは味方の中では、あなたと6番目の子と二人だけです。」と言われました。二人だけかい! ということで-;。

そして、もう一つの問題。私自身が、深層心理で、「セックスすることとは、レイプされること」と認識している問題。朝、起きて、車を運転したら、カーステレオでNEWSの曲がかかっていて。加藤君が、この事実に激しい衝撃を受けているのが伝わってきて。私の中の誰かが、「そんなに衝撃を受けることないじゃないですか。あなた自身が、誰かをボロボロになるまでレイプして、放り出したわけではないのだし。」と呟いていた。すなわち、医学部時代の、私と2番目の子との関係は、そういうものであったと、みんな思ってるんだ? と、ふとそう気がつくわけで。そりゃー、蛇の兄さんが怒るわけだ、ってそれしか思わない。確かに、私の「感情」はどこにあるのだろう? と思う。だって、そういうものは、持つだけ「無駄」なものなのじゃないですかね? 物事を、客観的に的確に認識するにはね、とそう思うわけです。あれま。

ということで、ついでにふと思い出したのですが、「ニノさん」にインスタグラムに写真を投稿して、「いいね!」を貰うためだけに生きているような、若い女性がいたな、とふいに思い出して。彼女のお部屋は非常に汚かった。母親は、「あれはやらせだ」と言いました。でも、結局気が付いた。「あれも、失感情症の特例だ。」ということに。あの女性は、いったん就職したけれども、仕事は辞めてしまい、その後は実家がお金持ちで生活に困らないので、趣味のような感じで、モデルのバイトをして、生活の大部分は、「いいね!」を貰うことに費やされている。そのためには、彼氏がいるように装ったり、友達がいるように装ったり、有名な名所に出かけて行ったりして写真を撮っている。要するに、「いいね!」を貰うためにどうしたら良いのか、ということはものすごく分析していて、いもしない彼氏とか、いもしない友達をお金を使って集めたりとか、「目的」と定めたことには余念がない。そして、目的のためには、とても活動的になっている。でも、その一方、将来的にも自分はどうやって経済的に自立していくのか、とか本物の彼氏を作って結婚はしないのか、とか、本当に真に友達といえる人をどうやって見つけるか、ということにはてんで無頓着で、そういうことは彼女にとっても「どうでもいいこと」なわけです。だから、「いいね!」を貰いたい、という「意欲」は突出して高いけれども、普通に人が意欲を燃やして心がけるような感情活動は、全体としては低下してる。しかも、お掃除をする意欲が持てないので、お掃除もしない。それで思い出したのですが、「うつ病」の人も、感情活動が低下して、「意欲」が低下すると、身の周りのことが「どうでもいいこと」になって、お掃除ができなくなります。要するに「失感情症の特例」の中には「特定の意欲」にだけ集中して「やる気」を見せるけれども、それ以外のことは全て「どうでもよいこと」になって、全体としての感情活動は低下している人、というものがあるんだー、と思って。でも、こういう人を「失感情症」と診断する「基準」がないのです。医学の世界は、なんでも「診断基準」だから。だから、たまたま「やる気」の出た「意欲」が、生きていくために有用なものなら、それはその人が生きていくことに、けっこう役立ちますが、「意欲の対象」が、それこそ「生きていくためにどうでもいいこと」だと、「生活の全てが(客観的に見て)どうでもいいことばかりをしている奇人変人」になっちゃうわけだー;。

本日の日誌

昨日は、昼間日記を書いた後、ジブリの映画のことを思い出して。宮崎監督の映画の冒頭には、必ず「小さな女の子」が出て来ます。トトロのメイちゃん。お母さんが病気で入院中であったので、お姉ちゃんの五月ちゃんと二人で、お父さんに守られながら、支え合って生きていた。元気で、末っ子らしくちょっと甘えん坊で、お母さんが帰ってきたら一緒に寝ることを楽しみにしている無邪気な子供だった。その子が、健やかに、無事に育ちますように、と、ジブリの映画には、すべからくその願いが込められてきた。その小さな女の子は、無事に成長したのだろうか? そして、お母さんの病気は治って、お母さんは無事に娘達の元に戻ってきたのだろうか? と思う。兄さん達は、「さあ、思ってた以上に図太く育ったんじゃないのかねえ?」と言うわけですが-;。

で、家に帰って、音楽家の兄さんのTwitterを見に行った。兄さんは今、映画の宣伝のために、世界各地で開催されているアニメフェスに出かけてる。(それは山田さんちの涼ちゃんも同様で、こちらも映画の宣伝に飛び回っているはず。)兄さんのTwitterには、「トトロに会った」ってあって、大きなトトロのぬいぐるみと、それと向かい合っている兄さんの写真が掲載されていた。兄さんは後ろ姿だった。だから、小さなメイちゃんのことを私に送ってきたのは兄さんだと悟った。後ろ姿なのは、兄さんが「背の君」だからです。そして、「ジブリの人達の見識を疑わないように」と、それだけ言われた。兄さん、カンヤダが鈴木さんの支援なくして、とても生きてこれなかったように、私も兄さん達の支援なくして、とてもここまでは生きては来れなかった。「生きろ」というあの3文字の言葉なくして、今の私はないのです。それは誰よりも自分自身が良く分かってる。そして、そのために音楽家の兄さんの頸椎の椎間板は年齢に相当する以上にボロボロになってる。それなのに、兄さんは自分の好きな人と結婚することもできないのです。そんな兄さんにただただ感謝する以外に何ができるのでしょうか? 私は家の中のルールと、外のルールの区別くらいつくつもりですけれども? ということでー;。

でもって、本日、親は、建礼門院徳子と、祖母との関連性について、否定するのにやっきになっていて。詳しい話を聞いた結果、母親の中では、徳子=祖母、後白河院=曾祖父母と置き換えられていることが判明していて。深層心理下での母親の「祖母像」は悪い人ではないわけです。悪者は曾祖父母の方。それは、祖母の気持ちを投影して、「共依存」しているのです。そして、その「依存」を自分では自覚できないほどに重症でもあり、その点では精神的に幼い。でも、現実の祖母像は我が儘勝手な人と、表面上は認識しているわけです。表面上と深層心理で、認識に解離がみられ、それが母親の人格の解離障害の大きな原因になっていることは明白なわけですが、ともかく、時間も考えずに拒否しまくられる状態であって。「カウンセリングとは格闘だーー」と実感したのですがー;。

兄さん達からは、「自分でも似たような経験はあるよね?」と言われる。はっはっは、それはですねえ、2番目の子との別れがあまりにも酷くて、しかもどう見ても自分は悪くないので、当然相手を悪者にすることにしたわけです。表面上ではね。でも、心の奥底では、彼のことをずっと好きだったわけです。だから、受けた傷は大きく、精神的なダメージは酷く、精神の安定を保つためには、逃げ道が必要だった。そこで、どういうところに逃げ込んだかというと、ともかく「確たる結婚の約束をしてもいないのに、セックスしたことが悪かった。セックスをすると、その相手とは駄目になるはず。」という思考回路に逃げ込んだ。こういうことは生体の防御反応で、どんなに酷い相手でも、その相手を責めたく無いときに、別のところに原因を持って行く。その結果、深層心理での認識と、現実での認識の間に解離が生じる。別にセックス恐怖症に逃げ込んでもいいじゃん? 彼氏と別れたばっかりで、すぐに他の男の人とセックスする機会もなかったし、何故か今までそういう機会もなかったんで、と思う。でも、その結果、蛇の兄さんは「自分の妻に何をしてくれたのさ?」ということで、大激怒してる。7番目の兄さんには「ずいぶん小ずるく、要領のいいところに逃げ込んだよね?」って言われる-;。でも、ソフィーと同様、私自身、自分で自分にかけた呪いを、知ってはいるんだけれども、解けなくってですねえ?-; で、なんで知っているのかといえば、「解離」を起こす必要があったのが大人になってからで、しかも自分が医者である程度の知識があるから知っているわけで(苦笑)。だから、私のことを心配して、余計なストレスをかけないように、7番目の兄さんは、最近では「寸止め」の夢しか送ってこないじゃないですか? 私はだいたい、夢の中で「いい雰囲気なのに、そこでやめちゃうの?」と思って、目が覚めて兄さんの気遣いを感じるわけですが-;。

ということで、次は「蛍」なのだと思う。それは、蛇の兄さんが、心を病んだ妻をどう思っているのかが、表現された歌だからです。雷は、今でもやっぱり嫌いなのです(苦笑)。

本日の日誌

昨日は、昼間日記を書いた後、ジブリの映画のことを思い出して。宮崎監督の映画の冒頭には、必ず「小さな女の子」が出て来ます。トトロのメイちゃん。お母さんが病気で入院中であったので、お姉ちゃんの五月ちゃんと二人で、お父さんに守られながら、支え合って生きていた。元気で、末っ子らしくちょっと甘えん坊で、お母さんが帰ってきたら一緒に寝ることを楽しみにしている無邪気な子供だった。その子が、健やかに、無事に育ちますように、と、ジブリの映画には、すべからくその願いが込められてきた。その小さな女の子は、無事に成長したのだろうか? そして、お母さんの病気は治って、お母さんは無事に娘達の元に戻ってきたのだろうか? と思う。兄さん達は、「さあ、思ってた以上に図太く育ったんじゃないのかねえ?」と言うわけですが-;。

で、家に帰って、音楽家の兄さんのTwitterを見に行った。兄さんは今、映画の宣伝のために、世界各地で開催されているアニメフェスに出かけてる。(それは山田さんちの涼ちゃんも同様で、こちらも映画の宣伝に飛び回っているはず。)兄さんのTwitterには、「トトロに会った」ってあって、大きなトトロのぬいぐるみと、それと向かい合っている兄さんの写真が掲載されていた。兄さんは後ろ姿だった。だから、小さなメイちゃんのことを私に送ってきたのは兄さんだと悟った。後ろ姿なのは、兄さんが「背の君」だからです。そして、「ジブリの人達の見識を疑わないように」と、それだけ言われた。兄さん、カンヤダが鈴木さんの支援なくして、とても生きてこれなかったように、私も兄さん達の支援なくして、とてもここまでは生きては来れなかった。「生きろ」というあの3文字の言葉なくして、今の私はないのです。それは誰よりも自分自身が良く分かってる。そして、そのために音楽家の兄さんの頸椎の椎間板は年齢に相当する以上にボロボロになってる。それなのに、兄さんは自分の好きな人と結婚することもできないのです。そんな兄さんにただただ感謝する以外に何ができるのでしょうか? 私は家の中のルールと、外のルールの区別くらいつくつもりですけれども? ということでー;。

でもって、本日、親は、建礼門院徳子と、祖母との関連性について、否定するのにやっきになっていて。詳しい話を聞いた結果、母親の中では、徳子=祖母、後白河院=曾祖父母と置き換えられていることが判明していて。深層心理下での母親の「祖母像」は悪い人ではないわけです。悪者は曾祖父母の方。それは、祖母の気持ちを投影して、「共依存」しているのです。そして、その「依存」を自分では自覚できないほどに重症でもあり、その点では精神的に幼い。でも、現実の祖母像は我が儘勝手な人と、表面上は認識しているわけです。表面上と深層心理で、認識に解離がみられ、それが母親の人格の解離障害の大きな原因になっていることは明白なわけですが、ともかく、時間も考えずに拒否しまくられる状態であって。「カウンセリングとは格闘だーー」と実感したのですがー;。

兄さん達からは、「自分でも似たような経験はあるよね?」と言われる。はっはっは、それはですねえ、2番目の子との別れがあまりにも酷くて、しかもどう見ても自分は悪くないので、当然相手を悪者にすることにしたわけです。表面上ではね。でも、心の奥底では、彼のことをずっと好きだったわけです。だから、受けた傷は大きく、精神的なダメージは酷く、精神の安定を保つためには、逃げ道が必要だった。そこで、どういうところに逃げ込んだかというと、ともかく「確たる結婚の約束をしてもいないのに、セックスしたことが悪かった。セックスをすると、その相手とは駄目になるはず。」という思考回路に逃げ込んだ。こういうことは生体の防御反応で、どんなに酷い相手でも、その相手を責めたく無いときに、別のところに原因を持って行く。その結果、深層心理での認識と、現実での認識の間に解離が生じる。別にセックス恐怖症に逃げ込んでもいいじゃん? 彼氏と別れたばっかりで、すぐに他の男の人とセックスする機会もなかったし、何故か今までそういう機会もなかったんで、と思う。でも、その結果、蛇の兄さんは「自分の妻に何をしてくれたのさ?」ということで、大激怒してる。7番目の兄さんには「ずいぶん小ずるく、要領のいいところに逃げ込んだよね?」って言われる-;。でも、ソフィーと同様、私自身、自分で自分にかけた呪いを、知ってはいるんだけれども、解けなくってですねえ?-; で、なんで知っているのかといえば、「解離」を起こす必要があったのが大人になってからで、しかも自分が医者である程度の知識があるから知っているわけで(苦笑)。だから、私のことを心配して、余計なストレスをかけないように、7番目の兄さんは、最近では「寸止め」の夢しか送ってこないじゃないですか? 私はだいたい、夢の中で「いい雰囲気なのに、そこでやめちゃうの?」と思って、目が覚めて兄さんの気遣いを感じるわけですが-;。

ということで、次は「蛍」なのだと思う。それは、蛇の兄さんが、心を病んだ妻をどう思っているのかが、表現された歌だからです。雷は、今でもやっぱり嫌いなのです(苦笑)。