昨日、大雨が降ったので、たいした作業はできず、水路を整備したり、お手紙を出しに行ったりして。
で、空いている時間には、トリイ大先生が降臨してきて、カウンセリングをしてくれるわけですが、ともかく彼女はアメリカ人であるので、ものすごく「現金主義」な人であることが発覚した気がするわけで。トリイは、小児精神科の専門家だから、親子間の問題をカウンセリングする時には、子供が小児の場合は、「今後、どうやって育てていくのか」ということを中心に考える人です。でも、当事者の双方がもう成人している場合には、大人社会のルールに合わせて、「トラブルは、すべからく金銭で解決すれば良い」と考える人です。もうお互いに大人同士なんだから、トラブルは金銭で解決して、お互いに後腐れ無いように、納得すればいい、と思っているらしい。そして、カウンセリングした患者の例をいちいち分析して、患者に対しては、良きカウンセラー、良き医者であろうとするけれども、心の中では症例をせせら笑って楽しむのが趣味らしくて。そうでもなきゃ、「精神科医なんかやってられない」と思っているらしいのですが-;。なんか、すげえ師匠だ、と思うことが多いわけですが。でも、言っていることはいちち的確な気がする。
というわけで、以下、本日のトリイ先生のご講義なわけですが。
人は何故自殺するのか。経過の長い物事は、時間の古い順に整理すると、良いこともあるかと思います。
太陽女神のお母さんの親戚には、自殺した人が何人かいます。特にお母さんの叔母さんの例を上げます。お母さんの叔母さんは、お母さんのお母さんの姉ですが、妹が貧農に嫁いだのとは対象的に、よりお金持ちの家に嫁ぎました。後妻であったので、「格上」の家に入ることができたのです。2回の出戻りで、貧農に嫁いだ妹とは対象的です。この叔母さんは、財産があったので長男を医者にすることにしました。それで東京の私立の医大に進学させたのです。しかし、弟の次男は、通り一遍の田舎の教育を受けさせて貰っただけで、実家で農業をやることを母親に求められました。子供は「親の言うことを聞くのが当たり前」の時代でしたので、弟は表面上は逆らいませんでした。叔母さんは、長男の教育費を捻出するために、田畑を売り払います。農業をやらされていた弟は、自殺してしまいました。お母さんは、この件を「田畑を全て売ってしまわないで、弟の生活のために、弟にも財産を少し残してやっていたら、弟は自殺しなかったかもしれないけれども、そうではなかったので、将来を悲観して次男は自殺してしまったのではないか。」と述べました。これは確かにそうかもしれません。
まず、これを「精神科的」に検討してみましょう。この事件は人が自殺する「1例」であって、具体的なものですので、医学的には「各論」ということになります。では、「人は何故自殺するのか」を、総論的に述べるとどうなるのでしょうか。それは、こうなります。「人は生きる意欲を無くすと、自殺するのです。」
お母さんの従兄のケースを見てみましょう。叔母さんは、長男にだけ、高度な教育を受けさせました。将来的に、大きな収入に結びつきうる教育です。そして、そのために家の財産をつぎ込みましたから、次男の方には、お母さんが考えたとおり、不満に思う気持ちがありました。でも、その不満は表に出すことを許されませんでした。何故でしょう?
それは「親の言うことを聞くのが当たり前」だからです。感情を表に出すことが許されなくて、心の奥底に閉じ込めなければなりませんでした。そのため、感情を司る精神活動が停滞して、感情が次第に鈍麻してきます。感情活動が停滞すると、「生きる意欲」が失われます。「生きたい」と思うことは、感情だからです。「生きる意欲」を失った次男は、「生きたい」と思わなくなって、「生きること」が苦痛になりました。だから、苦痛から逃れるために、自殺したのです。
もし、この人が、当時の農村の習慣であった「親の言うことを聞くのが当たり前」を蹴散らしてでも、「生きたい」と思う意欲を持つ人であったらどうなったでしょうか? 自分にもそこそこの教育を授けて欲しい、でなければ生きられるだけの田畑が欲しい、とそういうことが可能になるまで母親に食い下がったかもしれません。でなければ、親も財産も捨てて、身一つで家出したかもしれません。そうしたら、その人は生きることができたかもしれないのですが、彼はそうできなかったのです。
このように、なにがしかのストレスで、精神的な感情活動が停滞して、「生きる意欲」が少なくなること、を「うつ病」といいます。要するに、医学的には、お母さんの従兄は、親が過度のストレスを与えたので、うつ病を発症して自殺した、とこうなります。
人が、ストレスを受けて、感情活動が停滞すると、大きく分けて2つの症状が起きえます。1つは、上記のような、典型的な「うつ病」です。もう一つは、「失感情症(アレキシサイミア)」といいます。
「失感情症」とは、やはり感情を表に出すことが許されなかった場合に、感情を抑圧しすぎて、自らの感情を認識できなくなる状態です。このような状態になると、ストレスがかかって不満を持っても、当人は自分が不満を持っている、と認識できなくなります。このような場合も感情活動は、停滞します。そのため、知識的活動の意欲が低下したりして、例えば学校の成績が下がったりします。勉強する意欲が失われるからです。要するに「頭が悪くなった」ように見えます。そして、「失感情症」に陥った人は、自らの感情を認識できなくなるので、他者の感情も認識できなくなります。要するに、「自分が他人からどう見られるのか」、ということに無頓着になります。そんなことは「どうでもいいこと」になります。そのため、対人的なコミュニケーションをうまくとることができなくなり、人と接触するのを避けるようになります。現代的には「ひきこもり」の一因ともいえます。このような人達は、「生きる意欲」がなくなって、自殺するほどではありませんが、外に出る意欲、人と接触する意欲が持てないのです。でも、自分で「何が嫌だと思ったのか」が分からないので、ストレスの原因が自分でも分かりません。お母さんの従姉妹の場合は、「母親の仕打ちがストレスの原因」であった、と周囲にも分かりやすいし、おそらく当人もそう思っていたと思います。でも、失感情症の人間は、職場での何が自分のストレスの原因なのかが分かりません。だから、「就職したら、特に問題はなかったけれども、なんとなく仕事をする気がなくなっちゃった。」となります。仕事をする意欲がなくなるような問題があったはずなのに、それが自分でも分からないのです。
教科書的には、「感情を抑圧するようなストレス」を人がかけられると、この2つのような病的状態に陥り得る、となります。そして、ごく稀に、「失感情症」の症状の特例として、該当者が「非常に分析的になる」という現象が起きます。自分の感情も、他人の感情も、認識できないので、その代償的行為として、全ての物事を理論的、理性的に分析して理解し、対応しよう、とするようになります。例えば、「人と挨拶するのは、それが礼儀だから」と考えるのです。逆に「好きな人には挨拶する、嫌いな人には挨拶しない」とは、考えなくなります。そして、挨拶する相手が「好きなのか嫌いなのか」と問われると、「分からない」となります。当人に、人として「好き」とか「嫌い」という感情はあるはずなのですが、自分でもその感情が「分からない」のです。このような人は、対人的なコミュニケーションを、分析能力で乗り切ろうとするので、相手の気持ちを考える、というよりは、「ここではこういう対応をすべきだから」とか、「分析の結果、相手の立場は、こうだから、それに相応しい対応をする」というやり方で行動します。感情を伴う人間的、というよりは、マニュアル的、計算的な対応です。そして、分析能力の精度を上げたいと願うので、感情活動は低下しているのに、知的活動は増します。だから、勉強の意欲も落ちないため、成績も落ちません。そのため、該当者が子供の場合には、心の中に「病的状態」があるにもかかわらず、一見すると成績の良い、好奇心にあふれた、ちょっと風変わりな子供、と見えるようになります。そして、こうなるケースは非常に稀なため、「失感情症」の一形態であるにもかかわらず、病院へ行っても「失感情症」とは診断されません。なぜなら、「失感情症」の診断基準に当てはまらないように、意図的に基準が作られているからです。
お母さんにとっての、叔母さんの影響力はいかなるものだったのでしょうか。お母さんにとっては、叔母さんは「姉御肌の優しい叔母さん」でした。叔母さんが、自分の次男に行ったことを、一応分析して、客観的に非難する気持ちもありましが、全体としては「好きな叔母さん」でした。そのため、叔母さんの生き方そのものに、お母さんは好意的です。それは、お母さんのお姉さんにも当てはまります。すぐ上のお姉さんは、自分の子供達には、必ずしも「良い母親」とはいえない点がいくつかありました。しかし、お母さんには「優しいお姉さん」でありました。だから、お姉さんの生き方にも、お母さんは好意的です。こういうことが積み重なると、どうなるのでしょう。お母さんの深層心理には、「子供に冷たく当たる母親は、非難すべき対象ではない」ということが少しずつすり込まれていくことになります。すなわち、「母親が子供に冷たく当たること」を、次第に、無意識の内に肯定的に見るようになります。
また、もう一つ。お母さんの性質として、お母さんのお母さんとの共依存関係から抜け出せず、まるで母親の気持ちを代理で示すような思考を示しがちです。小説を書こうと思ったときに、建礼門院徳子を母親、後白河院を祖父母、平宗盛を叔父さん(母親の長兄)に見立てようとしました。結論からいえば、これは書かない方が良かったのです。なぜなら、書いた文章をどこかに送れば、敵がその文章を読んで、お母さんのこのような人となりを、必ず分析して、それが自分たちにとって、どのように利用すれば好都合なのかを、考えるからです。叔母さんのことを、お母さんのお母さんはどう思っていたのでしょうか。裕福な姉のことはうらやましい、と思っていたと思います。お母さんが、母親の気持ちを代理で追体験した場合には、「子供を医者にしてうらやましい」と思うようになります。お母さんの叔母さんは、いくらお金持ちでも、単なる田舎の金持ちにしては、無理をして分不相応な私立の医大に子供を進学させて、医者にしました。それは何故でしょうか? それは、お母さんに、叔母さんのことを「子供を医者にしてうらやましい」と思わせるため、そして、「母親が子供に冷たく当たること」を肯定させるために、「やれ」と言われてやったのです。その結果、お母さんは「子供を医者にしてうらやましい」と思うようになりました。だから、今、お母さんが「精神分析」されて、いろいろ言われなければならなくなった、一番の古い、具体的な原因は、叔母さんが「長男だけを医学部に入れて、次男を自殺に追い込んだ」ということにあるのです。さあ、そこから起きたのは、悲劇でしょうか? それとも喜劇でしょうか? しかし、長い話ですので、今日はここまでにしましょう。
ということで、本日の、トリイ大師匠の述べたお話は、ここまで、ということで。昨日、自分の性的なトラウマのことを日記に書いたら、「「PTSD」を発症して、感情が抑圧されている結果、理論と理性でしか物事を考えない、理論と理性の化け物になってますよ。」と言われたわけでー;。「喜劇」でしめることないでしょうがーー、トリイーーー、と思ったわけですが。「PTSD」って、そんな大仰に言うのですか、私は戦場からの帰還兵ですか? 「理論的で理性的で何が悪いのですか?」と思ったわけで。そうしたら、「理論と理性でしか物事を考えない人間がカウンセリングを試みた場合、患者さんの感情が理解できなくて、患者さんの気持ちによりそうことができなくなります。だから、患者さんの気持ちに沿ったカウンセリングができにくくなる。具体的には、理論的、理性的に物事を話して、お母さんがなかなかそれを受け入れられなくても、『理論的、理性的に考えていない』といって非難する気持ちを控えるようにしなければなりません。」と言われました。もう早く精神科医はクビになりたいわけですがー;。「失感情症(アレキシサイミア)」なんて、生まれて初めて聞いたよ。頭も成績も良くて、友達とのコミュニケーションを取るのが苦手な子供で、図書館で本ばっかり読んでて悪かったですねえ? レアなケースって、どのくらいレアなのですかねえ? とおたずねしたら、「それは味方の中では、あなたと6番目の子と二人だけです。」と言われました。二人だけかい! ということで-;。
そして、もう一つの問題。私自身が、深層心理で、「セックスすることとは、レイプされること」と認識している問題。朝、起きて、車を運転したら、カーステレオでNEWSの曲がかかっていて。加藤君が、この事実に激しい衝撃を受けているのが伝わってきて。私の中の誰かが、「そんなに衝撃を受けることないじゃないですか。あなた自身が、誰かをボロボロになるまでレイプして、放り出したわけではないのだし。」と呟いていた。すなわち、医学部時代の、私と2番目の子との関係は、そういうものであったと、みんな思ってるんだ? と、ふとそう気がつくわけで。そりゃー、蛇の兄さんが怒るわけだ、ってそれしか思わない。確かに、私の「感情」はどこにあるのだろう? と思う。だって、そういうものは、持つだけ「無駄」なものなのじゃないですかね? 物事を、客観的に的確に認識するにはね、とそう思うわけです。あれま。
ということで、ついでにふと思い出したのですが、「ニノさん」にインスタグラムに写真を投稿して、「いいね!」を貰うためだけに生きているような、若い女性がいたな、とふいに思い出して。彼女のお部屋は非常に汚かった。母親は、「あれはやらせだ」と言いました。でも、結局気が付いた。「あれも、失感情症の特例だ。」ということに。あの女性は、いったん就職したけれども、仕事は辞めてしまい、その後は実家がお金持ちで生活に困らないので、趣味のような感じで、モデルのバイトをして、生活の大部分は、「いいね!」を貰うことに費やされている。そのためには、彼氏がいるように装ったり、友達がいるように装ったり、有名な名所に出かけて行ったりして写真を撮っている。要するに、「いいね!」を貰うためにどうしたら良いのか、ということはものすごく分析していて、いもしない彼氏とか、いもしない友達をお金を使って集めたりとか、「目的」と定めたことには余念がない。そして、目的のためには、とても活動的になっている。でも、その一方、将来的にも自分はどうやって経済的に自立していくのか、とか本物の彼氏を作って結婚はしないのか、とか、本当に真に友達といえる人をどうやって見つけるか、ということにはてんで無頓着で、そういうことは彼女にとっても「どうでもいいこと」なわけです。だから、「いいね!」を貰いたい、という「意欲」は突出して高いけれども、普通に人が意欲を燃やして心がけるような感情活動は、全体としては低下してる。しかも、お掃除をする意欲が持てないので、お掃除もしない。それで思い出したのですが、「うつ病」の人も、感情活動が低下して、「意欲」が低下すると、身の周りのことが「どうでもいいこと」になって、お掃除ができなくなります。要するに「失感情症の特例」の中には「特定の意欲」にだけ集中して「やる気」を見せるけれども、それ以外のことは全て「どうでもよいこと」になって、全体としての感情活動は低下している人、というものがあるんだー、と思って。でも、こういう人を「失感情症」と診断する「基準」がないのです。医学の世界は、なんでも「診断基準」だから。だから、たまたま「やる気」の出た「意欲」が、生きていくために有用なものなら、それはその人が生きていくことに、けっこう役立ちますが、「意欲の対象」が、それこそ「生きていくためにどうでもいいこと」だと、「生活の全てが(客観的に見て)どうでもいいことばかりをしている奇人変人」になっちゃうわけだー;。