本日の日誌

昨夜は特に夢も見ず。朝方に雨が降ったけれども、晴れの天気予報であったので、晴れたら穴掘りに専念することにして。

午前中、土の始末をしていたら、ふっと7番目の兄さんが降臨してきて。「テレビを見ていて、日記に書かれた言葉なんかを言われると、「現実感を感じる」のなら、『テレビで人がおいしい、と言っているのを見ると、嘘でしょ、と思っちゃうタイプ』という発言は?」と聞くわけで。「テレビを見ると、『あれは嘘』、『これはやらせ』ってすぐ言う人がいるでしょ?」と言われて。どうりで、ちょっと意味ありげな発言だと思った、というか、それはうちの母親のこと、と思うわけで。そういうことも気がつけば、「現実感」を感じる物事のうちに入ります。昔、宮崎監督が「子供にはテレビを1日に30分しか見せない」と言っていたけど、それもうちの親のことなので。その発言も「あなたたちのことを知っている」ということだったんだな、と思います。で、兄さんから「(あなたの)判断力はまだまだちゃんとしてるから、カウンセリングをもう少し頑張って」と言われて。兄さんも、剛君がお休み中で大変だと思うのに、健康に気をつけて、と思うわけで。

でも、おとといの「しやがれ」は、「目の力」の強い光一君がいるので、どちらかといえば、みんな調子が狂って変調を来していたと思うわけで。だいたいそういうときは、松本君は極力、逃げられない時以外は、光一君の隣にいない気がするわけで。二宮君も、できるだけ目を合わせないようにしている気がするのですがー;。でも、普段やりたい放題の二人に直接「目の力」をふるえるので、光一君は楽しいだろうな、と思う(苦笑)。別に止めるつもりはないですし。そして、4番目の子からは「どこへ行っても蹴飛ばされる気がする」と嘆かれるわけで-;。

おととい、親に「学生時代に精神科で何を習ったのか。」を尋ねた時に、授業の内容ではなくて、先生のことをいろいろと言われて、目的のものを聞き出すのに、たいへん苦労したわけで。当時の精神科の3大疾患は、「うつ病」「躁うつ病」「分裂病(現在の統合失調症)」で、症状はこの順で重くなる、とされていました。お母さんは、2つまでは覚えていましたが、病気の内容に混乱がみられました。そして、「仕事ができなくなると、それが原因で精神科に来る人が多い。」「同じ仕事をしていても、うつ病になる人とならない人がいるのだから、ストレスがかかると誰でも精神病になるわけではない。」と述べて太陽女神を困惑させました。

人が「仕事をしなくなる」という現象は、精神疾患が基礎にあることもありますが、ただ単にさぼっているだけのことも多いし、そういう人も世の中にたくさんいます。ジブリの鈴木さんのエッセイにも、健康なのに働きもせず奥さんに頼りっきりの男の人が何人も出てきます。でも、そういう人達は、「健康」であって、「精神病」ではないので、「仕事をしない」ことと、「精神疾患を発症している」ということは必ずしも結びつけられるものではありません。ただ、お母さんの中では「肉体を使った労働をすべき」という価値観が強すぎて、そうしない人は「おかしい人(精神疾患の人)」と思い込みすぎているのです。そして、人には個性というものがあるから、同じ仕事をしていても、「好きな仕事」だと思ってやっている人は、ストレスを感じませんが、「嫌な仕事」だと思ってやっている人はストレスを感じまくりです。だから、「嫌な仕事」だと思っている人の方が、うつ病は発症しやすくなる。それに、まず最初に「仕事をしなくなる」という症状が出たとしても、原因は家庭にあって、家族の誰かが亡くなった、とか、離婚した、とかそういうことがきっかけで発症する人もいる。原因は人それぞれだから、仕事の環境だけで、「発症する人は特におかしい人」「発症しない人はおかしくない人」とは言えないのです。そこの認識が、お母さんはやはり偏っていました。

そして、後で土の始末をしている時に、お母さんと話していて、こちらが質問していることに相手がきちんと答えてくれない、ということに学生時代、とても困っていたことを思い出しました。お母さんは、自分の言いたいことは言う。お母さんの関心事の大部分は、お姉さんの仕事の状況が異様で、ちゃんと務まるかどうか、とても心配していました。後は、夫に対する不満、家に居候している夫の姉さん達への不満、何かにつけておかしな態度を取ってくる夫の親族達への不満等々でした。家に居候している夫の姉さんは、どう見ても赤ん坊の頃の太陽女神の顔に紙を乗せたりしていたようにしか見えないので、家族全体に対しては敵意しかない人でしたが、お父さんに対する影響力は大きくて、お父さんはかなりの割合でお姉さんの牛耳られていました。お母さんが面白いはずがありません。お父さんの親戚達は、そういう叔母さんを平気で、太陽女神の家に押しつけて面倒を見させていましたから、お母さんが親戚一同をひっくるめて、義理のお姉さんのことを面白く思うはずもないのです。で、そういうお姉さんとお母さんの対人関係の問題ごとは、「愚痴」という形で太陽女神の元に持ち込まれたので、太陽女神は一つ一つ、親身になってできるだけの相談に乗っていました。だいたい365日、そんな状態でした。肉体的には面倒を見て貰っていましたが、精神的には疲弊していた。でも、自分の問題、特に進路の問題に困って相談しようとすると、お母さんは「お前の好きにすればいい」とか、そんなことを言って親身に相談に乗ってくれません。そもそも「医者になれ」と言ったのはお母さんなので、お母さんの中には「こういう医者になればいい」というようなイメージがあるはずなのですが、そこに到達するためにどうしたら良いのか聞こうとしても教えてくれない。「好きにすればいい」と言われても、医者として「好きにやりたい」ことなど何も無いから困るのです。なんでも、好きにして良いのであれば、最初から医学部には行きませんでした。他にやりたいことはあったのだから。それなのに、相談すると、お母さんは「お前の好きなようにすればいい。」と言って、問題を放り出して、ほっておくとどんどん違う話を始める。そして、娘がまるで困っていないかのように振る舞うのです。太陽女神の方は、母親が目の前にいる自分とは、誰か違う人と話をしているようで、とても寂しく感じていました。母親が、自分の問題からだけ、逃げたくて話をそらしているのだと感じていました。でも、自分が母親の持ち込んでくる問題に、誠実に応じていれば、いつかは、自分の問題にも母親は向き合ってくれると考えていました。だって、お姉さんの問題にはきちんと取り組んでいるわけですから、自分だけ取り組んで貰えないとは思っていなかった。でも、結果的には、まともに取り組んでもらったことは一度もありませんでした。後にお母さんに、この時のことを言ったら、「お前が真面目に医者をやる気がないから、私もちゃんと相談に乗らなかった。」と言いました。だって、「医者をやりたい」と思うから相談するのでしょ、思わなかったらそもそもそんな相談しないでしょ、と太陽女神は思いましたが、もう返事をするのも嫌なので返事をしませんでした。お母さんは、自分が悪いのに、娘に謝ることもせず、そればかりか娘を悪者にしている、と感じていました。そして、それもこれも、わざとやっている、いつまで立っても自分のやったことを反省する気がない、と考えていました。でも、そうではなくて、それがお母さんの「病気」だったのです。

でも、ともかく学生時代はそんなだったので、こと自分自身に関しては、親は目の前にいるのに、いないような感じであって。寂しくて、寂しくてたまらなかった。丁度、その日、家に帰る車の中で、お母さんは「父親が亡くなった時には、寂しくて寂しくてたまらなかった」と言いました。それは抑うつ反応ですが、お母さんも同じように寂しかったんだ、と思った。お母さんはお父さんを失ったので寂しかったのですが、太陽女神はお母さんが目の前にいるのに、全く違う方向を見ていたので寂しかった。そして、お祖父さんが亡くなったのは、太陽女神が生まれて数ヶ月後です。その後3年くらい、母親が抑うつ状態であったのなら、赤ん坊の物理面はともかく、情動面の世話はどうなっていたんだろう? と思いました。母親がそんな状態であれば、行き届いていなさそうだった、と容易に想像できるからです

家に帰ってから、太陽女神は「人格障害」について、調べるように、7番目の兄さんから求められました。でも、どうもその辺りに良いイメージがない、というか、学生時代のうろ覚えの知識では、それは「統合失調症(分裂病)」の手前の手前くらいなイメージがあったからです。でも、お母さんがたびたびやるように、「尋ねたことに答えない」「その場にそぐわないことを言う」ということは、精神科的にどういう状態なのか知りたい、という思いもありました。そしてたどり着いたのが「自己愛性パーソナリティ障害」です。

パーソナリティ障害は、心身症と重度の精神病の中間の病態であって、トリイは「統合失調症っぽい性格の人のこと」と述べます。統合失調症(分裂病)は完全な病気ですので、病気が信仰すれば症状が悪化しますが、パーソナリティ障害は病気というよりも「個性」の問題であって、統合失調症っぽい性格を表出しますが、それ以上症状が悪化する、ということはありません。そして、大人になって社会に出ていろんな経験を積んで、知識や客観性が増えて、当人がいろいろと学習したりすると、障害はむしろ軽減したりします。でもたまには、そこから統合失調症に移行する例もあります。

その一形態である「自己愛性パーソナリティ障害」は、「自分は特別な才能がある」と思い込むことによる「誇大な言動」、「他者の反応を気にしない」かあるいはその逆に「他者からの評価を気にする」、「他者への共感性の薄さ」からその場にそぐわない言動をする、という特徴があります。求められている質問に適切に答えないのは、「その場にそぐわない言動をしていることになります。」そして、お母さんは割と若い頃には、「自分がエリートだから漫画なんか読まない」とか、割と頭の良いことを特別なことととらえて、誇りに思っていたように見えます。同じように進学校に進学した太陽女神は、自分は頭が良いから特別、だなんて思わずに、むしろせっせと漫画を良く読むような子供でした。実のところ、漫画は雑学の宝庫のような面があって、良いものか悪いものかは別として、読めばそれなりの知識が得られるものです。学校で教わらないようなことは、漫画を読んで吸収したこともずいぶんあったのでした。そして、お母さんは、「自分が子供にどう思われるのか」ということには無頓着だったように思います。でも、その一方で、外部の人の評価は気にしていました。例えば、太陽女神が中学生のときに、隣の家の悪ガキがドラムばかり叩いて勉強ができなくて困ってお母さんに訴えたときに、お母さんは「自分にはいいリズムに聞こえる」とか「隣近所の人に文句なんか言えない」と言って対応してくれませんでした。太陽女神は、お母さんにとってドラムがどんな風に聞こえるか知りたかったのではなく、「自分がどんなに困っているのか」を訴えたかったのです。そのことはお母さんは少しも考えてくれませんでした。その一方で、苦情を言ったら近所の人に「どう思われるか」ということは気にしていた。子供の評価は全く気にしませんが、近所の評価はものすごく気にしていたのです。トリイは、太陽女神に尋ねました。「今だったらどうしますか?」と。「今だったら自分で文句を言いに行きます」と太陽女神は答えました。全くその通りで、もう中学生だったんだから、親を気にせず、自分で文句を言いに行けば良かったのです。でも、そうしたらそこで、子供を無視して人の目ばっかり気にするお母さんと大衝突することになったでしょうが、女神自身はもう少し普通の子に育ったかもしれません。

でも、これで太陽女神が悟ったことがあります。お母さんは、おそらく幼少期との親との関わりで、解離性障害を持っており、解離性健忘で、現実のものだと思いたくないことはどんどん忘れてしまいます。その穴埋めは、自己愛性パーソナリティ障害の気質で行っている。自分は特別な人間だ、と思う気持ちが強いので、「子供が思い通りにならないのはお父さんからの遺伝のせい」でなければ「父方の叔父さんや叔母さんの遺伝のせい」と、どんどん自分の嫌いな人のせいにしてしまうのです。それが、客観的な事実であるかどうかは二の次なのです。だから、太陽女神が子供の頃、隣家に悩まされていたことについても、未だに「自分が悪かった」とは思っていないと思います。隣家から良く思われたい、というお母さんの気持ちを尊重できない太陽女神が悪者なのです。おそらく、「自分が迷惑を被っていないのだから、太陽女神が迷惑している、ということもあり得ない。子供が嘘をついて、自分を隣近所から悪く思わせようとしている。」とでも、心の奥底では考えていたのではないでしょうか。こうやって、他者の気持ちに共感できず、逆に相手に対して攻撃的になる性格、それを「自己愛性パーソナリティ障害」というのです。

本日の日誌

昨夜、「パーソナリティー障害というものを調べて見るように。」と言われて調べてみました。

昼間母親を話をしていた時に、母親が看護学生時代に、学校で「精神科」で何を習ったのか聞いてみました。それというのも、太陽女神の記憶にあった母親の姿では、ともかく「精神疾患」とは、父方の専売特許の病気、みたいに言いつのる姿がものすごく強かった記憶があるのです。父方の一番年長の叔父さんは、割と若い頃に「ごく軽い統合失調症」と診断され、その後症状はそれ以上ひどくはなりませんでしたが、社会復帰もしませんでした。また、お父さんの家系には、精神病院で亡くなった人もいましたが、お母さんの家系に精神病と診断されたり、精神病院に入院した人はいませんでしたので、お母さんには「自分の家系に精神病の人はいない。「頭のおかしい」のは夫の家系の特徴だし、それが遺伝して、子供達が発症し、将来的に仕事ができなくなると困るな。」と思われたのです。だから、夫が、たとえば食事療法が必要なのに、お母さんに黙ってたくさん食べていたりすると、「頭がおかしい。それは夫の家系の特徴。」みたいに思っていましたし、子供達が言うことを聞かないと、「お前は父親に似て、頭がおかしい。」と言ってしかったりしていました。しかも、その際にはかなり感情的になって、怒ったり怒鳴ったりしていました。お姉さんは、お母さんから見て、「素直に言うことを聞く子供ではなかった」ので、しかられる機会が多かったのですが、その際には、「お前は父親にそっくりだ」とか「父方の叔母さんそっくりだ」とか「頭がおかしい」とか平気で言っていたのだと思います。幼い太陽女神は、叱られるお姉さんを見て、「自分が同じように叱られないようにするには、どうしたら良いのか」ということばかり考えるようになりました。普通、子供は親が兄弟を叱ったりすると、自分も怖くて泣き出してしまう、とかそういう反応をします。子供の精神が未熟だと、子供の経験と知識では、起きている現実にどう対応して良いのか分からなくなるからです。でも、太陽女神は、幼い頃から、このように分析的な子供でしたから、まず「母親の言うことを聞いていれば怒られない」とすぐに気がつきました。そこで、「言うことを聞く子」になりました。

そして、お母さんの方は、子育て時にあまり精神的に余裕がなくて、子供がお母さんに甘える、子供らしい「感情の発露」について、割と「わがままだ」と厳しく接するお母さんだったのだと思います。その「わがままだ」の次には、更に怒りが続けば「お前は父方の誰それにそっくりで、頭がおかしい。」と続きます。太陽女神が、小学校2年生くらいの時です。当時、ご飯のおかずがカレーの時には、お母さんが子供のカレーをご飯の上にかけたり、ご飯の上にかけたカレーをご飯を混ぜてあげたりしていました。ある時、太陽女神は、カレーとご飯を混ぜて欲しかったので、そうして貰いました。次の日の朝、今度はカレーがかけてあるだけのご飯を食べたかったのに、お母さんは太陽女神に何も言わずに、カレーとご飯を混ぜてしまいました。女神は「カレーとご飯を混ぜないで欲しかったのに。」と言いました。お母さんは腹を立てて、「そういうわがままを言うのなら、今度からカレーの始末は自分でしなさい。」と言って、その後はカレーの始末をしてくれませんでした。太陽女神は、内心「カレーをそのままにしておくのか、混ぜるのか、やる前に自分に聞いて欲しかっただけなのに、ひどい。」と思いました。でも、そう考えたことはお母さんには言いませんでした。更にお母さんに「わがままだ」と怒られるのがいやだったからです。

小さな子供が成長するにつれて、食事が一人でできるようになるのは、当然ですので、いつまでも親が手をかけてやって、甘やかしていれば良い、というものではありません。でも、一人でできるようにさせたかったのであれば、もっと穏やかに、別の機会に「もう大きくなったのだから、一人でできるでしょう。やってみよう。その方が、かっこいいよ。」とか、もっと前向きに誘導することができたはずです。そうすると、子供は、前向きに自分が一つ成長できた、という自信を持つことができます。子供が、親に、「カレーとご飯を混ぜないで欲しかったのに。」と言ったのなら、それは「自分の気持ち」を述べたことになります。それが親に叱られたので、太陽女神は「自分の気持ちを親に言うと、叱られる」と思うようになりました。お姉さんも、そうやって「自分がやりたいこと」をお母さんにアプローチすると、怒られることが多いように、それは自分の観察でも感じていました。そうすると、今度は希望があっても、叱られることが怖くて、親に言えなくなる。あるいは、「どうやったら希望を叶えて貰えるのか」という、「方法」ばかりを考えるようになりました。表向き、「ご飯が一人で食べられるようになること」は、子供が成長していることのように見えますが、太陽女神からすれば、子供らしいわがままのスキンシップを親に求めた結果、拒否されて、しかも一生拒否され続けなければならない、ちょっと甘えたかっただけなのに、と思えます。しかも、混ぜる前に自分の希望を聞いてくれても良かったはずなのに、それをしてくれませんでした。昨夜はそうしてくれたのに、今朝はしてくれなかったのです。だけど、そこで不満に思ったことは、もう口には出せませんでした。こうして、どんどん感情が抑うつされ、自分の思ったことを親に上手に伝えられない子供になっていったのです。

そして、今朝、車の中で、お母さんは、父親のお姉さん達をいかに恐ろしく思っていたのかを太陽女神に話しました。太陽女神は、初めて聞く話でしたので、「記憶の書き換えでしょ」と述べました。そうしたらお母さんは以下のような話をしました。

まだ太陽女神が赤ん坊の頃、離れを作るために大工さんが来ていたので、お母さんは赤ん坊を寝かせといて、お茶を出したりしなければなりませんでした。そうしたら、大工さんに「赤ちゃんが泣いているよ」と言われたので、様子を見に行きました。そうしたら、子供の顔に、枕元に置いてあったはずの紙がかけられていて、赤ん坊はそれで嫌がって泣いていたのです。赤ん坊は自分ではまだ動けなくて、紙を自分で顔に載せられるはずがありません。隣の部屋には、子供にとって父方の祖母と叔母がいて、彼らは赤ん坊が泣いていたことを知っていて当然なのに、「気がつかなかった」と言いました。お母さんは「子供をかわいがる気のない恐ろしい人達だ」と思いました。

その話を聞いて、太陽女神は苦笑いして、言いました。「その人達が私の顔に紙を乗せたんでしょ。呼吸する能力の弱い赤ん坊だったから、うまくいけば窒息すれば良い、と思って。私を殺そうとしたのはその人達でしょ。」と。お母さんはびっくりしていました。でも、推理小説のようですが、状況的にはそれが疑わしいと思うのです。言っている太陽女神の方は、もう今までに何度も殺されるような目にあってきていますから、平然としていました。赤ん坊の頃から、そうやって自分の命が狙われていた、としても「さもありなん」くらいにしか思えなかったからです。「そうやって平然としていられる鋼のような神経の持ち主だからこそ欲しい」と言って、兄さん達には笑われるわけです。だから、太陽女神からすれば、「子供を殺すような恐ろしい人達」となります。お母さんもいつも、その人達は「弟(太陽女神の父親)を殺して、自分の子供だけ生かそうとしている人達だ」と考えていましたから、その感想とも一致します。だから、これは太陽女神の主観ですが、お母さんは、状況から物事を判断する能力がやや「ずれている」ように感じるのです。恐ろしいのは、「子供をかわいがらない」ところではなく、「子供を殺そうとしている」ところなのです。そして、お母さんにとっては、かなり異様な経験であったので、今まで恐ろしくて誰にも言えない経験だったようです。太陽女神からすれば、そういう重大なことこそ大騒ぎしても良かったんじゃないの? とも思えます。でも、非常に「異様な経験」としてお母さんは感じていたんだな、と思いました。

そして、お母さんは子供達が小さい頃、「頭がおかしくなって働けなくなったら困る」と考えていました。彼らの叔父さんが、そのように見えたからです。でも、「頭がおかしくなって働けなくなった」としても、本当は困らないのです。なぜなら、障害者年金が来ます。面倒を見る人がいないのであれば、程度に応じて受け入れてくれる施設もあります。むしろ困るのは「頭がおかしくないのに、働く意欲を持てなくなる」ことなわけです。これには、お父さんの弟の方が該当していました。こちらは働かずにパチンコとがギャンブルにうつつをぬかしたりしていました。でも、こちらは「頭がおかしい」わけではなくて、少なくとも表面的には「働く気がない」のです。病的なものだったとしても、それは前面に出ていませんでした。だけど、お母さんの中には「働かない人=頭のおかしい人」というイメージがあって、「働かないことそのものが、頭のおかしい証拠」のように考えていたのだと思います。それは、お母さんにとって母方の祖母や母親が、「労働することが全て」という価値観の持ち主だったからです。だから、病気で働けない人と、正当な理由もなく働かない人の区別がつかなくなって、その二つをまとめて「頭がおかしくなって働けなくなったら困る」となってしまうのです。「正当な理由もなく働かない人」はただ単にサボっている人であって、「頭はおかしくない」のですが、お母さんのイメージの中では「正当な理由もなく働かない人は、それ自体がおかしい人」なのです。お母さんは無意識のうちに、精神科疾患ではない人まで「おかしい人」と決めつけています。それは、世間一般からみれば、「医者から診断されたわけでもないのに、決めつけすぎる。」行為となります。世間とお母さんの価値観がここでずれてしまうのですが、お母さんはその点も自分を客観的に見ることができませんでした。今になって検討してみると、お母さんの家系の中にも、精神的疾患を患って、自殺に至ったのではないのか、と思える人達が何人かいます。そういう人達は、医者に行かなかったから診断名がつかず、正式に「頭のおかしい人」とはされていませんが、医者にかかっても、かからなくても、病気であった事実に変わりはありません。そして、お母さんの母方には、二代続けての「従兄婚」があり、精神科的障害が発現しやすい状態であったと思われます。だから、お母さんが「頭がおかしいのは父方の専売特許」のように考えていたこともまた、事実ではなかったのです。

そして、太陽女神は、最近もまたお母さんから「お姉さんに荷物を運んで貰っていることに、少しは感謝すべき」と言われたことを思い出しました。だいたいいつもそうですが、「何故、自分だけが感謝することを求められるのか」、それが不思議だし、「ちょっと不満」なのです。でも、自分では「ちょっと不満」なだけだと思っているから、流してしまうことがほとんです。お姉さんに感謝していないとは言いませんが、荷物を運んで貰って「ありがとう」とはいつも口で言っていますし、それ以上に何を求められているのかも良く分かりません。でも、トリイに言われました。「あなたが自分で「ちょっと不満」と感じていることは、本当は自分では「ものすごく不満」だ、と感じていることなのです。それを「ちょっと不満」にしか思えないところがあなたの病気なのです。だから、お母さんと衝突したりすると、その「ものすごい不満」が爆発してしまったりする。そうではなくて、自分でも何がどう不満なのかをしっかり考えて、それをお母さんに伝えられるようにならなければなりません。それが「感情を正しく表出する」ということです。もうお母さんに怒られるのが怖くて縮こまっている赤ん坊じゃないんだから、きちんと考えて努力しなさい。」

ということで、考えてみました。お姉さんがやってくれたことは直接的なことで、それはお母さんにも「目に見えること」ということで分かっています。でも、私のやっていることだって、家の中のことを分析して、誰がどのような問題点があるのかを探って、家庭がどうやったら円滑に回っていくのかを、考えてアドバイスしている、ということだから、ちゃんと精神科的手法にのっとってやっていることで、「仕事」として行えばちゃんと対価を貰えることです。ただしゃっべっているだけではなくて、専門的な知識に則っていることですし、とても気の張る作業です。でも、それで家庭が平和になって家族関係が円滑になれば、お姉さんだって恩恵を受けて、家の中でより楽な気分で過ごせるようになるはずです。だから、私が家族のため、と思ってやっていることも立派な「労働」なのです。家族だし、お互いにできることをやって助け合うのが当然、だと思うから、私の方は、家族のために医者としての知識を生かして労働しても、報酬も求めないし、感謝の気持ちを持ってくれ、とも言ったことはありません。だけど、私に対してだけ感謝を求めてくるから、不公平だと思って不満が募るのです。お母さんは、曾お婆さん、お婆さんから「体を使って労働することが正しい労働」みたいに言われていて、そう思っているから、「知的な労働」が「労働ではない」みたいに思えるのではないでしょうか。でも、「知的な労働」だって、とても疲れる仕事だし、だいたいそういう「知的な労働」をする職業に就け、と言ったのはお母さんなんだから、「自分がやれ」と言ったことを「労働ではない」みたいに扱うのはおかしいと思うのです。だったら、お母さんが「やれ」と言ったことをやればやるほど「働いていない人」になってしまいます。しかも、お姉さんだって日頃から、私に余計なことを頼んで、後で恩着せがましくされることをすごく嫌がります。別に何かを頼まれれば、私だって、できることはやって、恩着せがましくするつもりはありませんが、家族の間でもそうやってお互いに恩着せがましくし合うのは嫌なことだと思う。だから、私にだけ「感謝の気持ちを持て」と言うのはやめて欲しいのです。

そして、本当に感謝すべきは、「外」で無報酬で私たちのために働いてくれている人達なのです。彼らだって、なにがしかの報酬は得ているのかもしれないけれども、例えば体を壊してまで尽くしてくれる人には、健康はそれこそお金に換えられないものだから、本当に感謝の気持ちを持つ以外に、何もできることがありません。そういう人達の存在を「自分が信じられない」というだけで無視していいのですか? そういう人達がもし存在したら、当然感謝の気持ちくらい持つべきだとすら考えてみることはできないのでしょうか。

そして、兄さん達からは、自分では今起きていることが、どうして「現実」だと思うのか、と尋ねられる。だって、兄さん達はテレビとかで発現するときに、ちょこちょこと私が日記に書いている「言葉」なんかを差し挟んで、私に対して、現実感が持てるように、いつも工夫してくれている。それに、「しやがれ」を見て、精神科疾患の系統的なディスカッションが理路整然とできるなんて、それこそ「妄想」ではあり得ないことだから、「妄想ではない」と判断するだけです。それに、こういうことの繰り返しを何年も続けてきて、兄さん達との信頼関係を続けてきてるから、ということなのです。

ため息が出るなあ

お昼頃に、昼寝をしようとしたら、7番目の兄さんが、竹の木を持って降臨してきて、「七夕だから願い事を書いて」って言われて、私の分身の蛙の子が、「オンラインゲームをもう一度やりたい」と書いたら、「やっぱそれか」と笑われて。

家に帰ってきて、光ちゃんがゲストであるので、「しやがれ」がどうしても見たくなって、光ちゃんがゲストの分だけ見て、お風呂に入って。上がったら、7番目の兄さんに「境界性障害」を調べるようにって言われて。例えば、統合失調症(昔の分裂病)、躁うつ病なんかは、今では脳内ホルモンの分泌異常、と分かっている「明らかな病気」なわけです。で、解離性障害とかは、そうなりやすい性格傾向もあるかもしれないけれども、反応的なもので、子供の成育時の親との関係にずいぶん関係あるわけで、環境が悪ければ誰でもなり得るもので。うつ病も反応性の病気で、誰もなり得るもので。

で、お勉強をあんまりしていない私には、「境界性障害」というと、本物の精神病と、反応性の病気の中間にあるようなもので、例えば、統合失調症(昔の分裂病)が、妄想だらけで、生活にも支障を来すし、あげくに廃人になってしまうものだとすると、境界性障害はその半分くらいまともであって、妄想と言うよりは、特定の物事に固執するような傾向があって、何かに固執しすぎると、人は客観的な、バランスのとれたものの見方ができなくなりますし、固執から新たな妄想が生じるので、統合失調よりはいくぶんましで、半分妄想、半分はなんとか普通にやっていけるから、全体としてはまあ普通、みたいなそういうイメージがあるのですけれども? と思って。

で、調べてみたら、家族性のものが何か一つ出てくる。そういったものは、ストレスのかかり具合によって、他の疾患とも併発するし。結局、それで悟ることもあるわけで。我が家の家系は、みんな「普通」じゃない。田舎に住んでいて、おそらく両親のどちらも家系の中に近親婚が濃く入っているわけだから、どちらも精神疾患を発症すると、その遺伝子が子孫に強く残ってしまいがちになるし。全員、なにがしかの妄想を抱えているし、人格的にも問題を抱えている。問題のないのは、鋼の神経を持ってる私だけで、私が何者にも惑わされないのは、かつては兄さん達が言ったこと、ニュースで読んだ言葉の端はしとか、「実際にはっきりと目に見えるモノ」しか、信用しないように、自分を鍛えてきたから、としか言いようがない。それに加えて今は、だいぶ兄さん達の声が聞こえるようになってきてるから。自分でも「確信」を持つ瞬間はいくらでもある。でも、家族は違う。どうにもこうにも「病的」すぎて、隙がありすぎて、敵からも蛙の王家からも振り回される。兄さん達からは、「富の王家の方へ来てくれれば、いずれ家族全員、きちんと保護していくから」と言われるわけで。本当にいいの? と思う、というか、そうなったら本気で蛙の王家と縁切りだーー、と思うわけで。

で、7番目の兄さんからは、「自己愛性パーソナリティ障害」の診断基準を満たす人物に心当たりがあるはず。あなたは、そういう人物を、おおらかに受け止めて愛せる人か? と聞かれるわけで。それはきっと2番目の子のことだと思うわけですが。それは無理だ、そういう人は結局は視野の狭い人だから、と思う。そうすると「では、私たちのところへ来なさい。その人を押しつけてくる蛙の王家から守って上げる。」と言われるわけで。それどころではないですよー、と思う。というか、今日辺りから相葉君を見てると、すごい怒ってる気がするわけで、ううむ、と思うわけで-;。7番目の兄さんは、トリイ大先生関連では、私にとって兄弟子に当たるわけですが。さすがに見立ては確かだ-、私が気が付かないところ、理解できていないところをどんどんフォローしてくれてるし、と思う。だいたい、「しやがれ」を見て、精神科の専門的な話ができる時代が来るとは思わなかったわけですが。

まあ、でも、ともかく頑張った結果、母親に、「父親がてんで当てにならない人物なんだから、子供達にとっては、どんな母親でも母親しか頼る人がいない。」ということに気が付けて貰えて良かったかな、と思って。でなきゃ、「自分がしっかりして、ものの見方をきちんとできるようになって、家と家族を守らなければ」という気持ちをいつまでも持ってもらえないで、その代わりにわけのわからない夫に頼る気分が抜けないわけで。そんな無駄な妄想をいつまでも持って貰っているのが、子供としては困るのです-;。

本日の日誌

さて、本日の問題点が一つあります。お母さんは、出かける時に、お姉さんがいんげんを採っていたら、「お前のやることは父親にそっくりだ。」と言って非難しました。ものすごく基本的なことですが、子供に親の悪口を言ってはいけません。子供は両親の双方から成っているものですし、親を選んで生まれて来ることはできません。片方の親の悪口を言われるということは、自分の半分を否定されたのと同じことです。その言葉を受け入れてしまうと、子供は自分の半分の存在を自分で責めるようになりますし、その点を「他人から責められるべき点」と考えるようになります。なんで、何も悪いことをしていない人が、他人から責められなければならないのでしょうか? そうすると、常に悪いこともしていないのに、自分が悪者のような気持ちになってしまって、精神的に不安定になります。精神的に不安定な人は、社会に出た時に、それこそ外は「ストレス社会」ですから、ストレスに非常に弱くなります。そうすると、お仕事を続けよう、とか頑張ろう、という意欲が持ちにくくなります。仕事こそが、現代人にとって、最大のストレスであることが多いからです。だから、子供がちゃんとお金を稼ぐ子になって欲しかったら、片方の親が、もう片方の悪口を子供に言ってはいけないのです。お母さんは、こう述べると、「自分は片親の悪口を聞かされて育った(母親が父親の悪口を言った、あるいはその逆)けれども、ちゃんとお金は稼いでいた。」と言うかもしれません。でも、幼少期の環境が悪くて、解離性健忘の気味がありますし、結婚してからは、軽い失感情症状態に陥っていて、知識活動が低下していましたから、仕事はちゃんとやっていたとしても、しわ寄せは全て家庭と子育てに来ています。仕事は家庭と子育てを犠牲にしながら、なんとか続けられていたに過ぎないのです。

昨夜の家族の会話からも明らかですが、太陽女神のお姉さんは、妹が「家族ではなくて、誰か他人の言うことを聞いて家を建てているようにみえる」と述べていました。お母さんは、それを信じたくないので、太陽女神が「一人で家を建てている」ようにふるまいます。彼女が一人でそんなことをやったりできそうもないことは、客観的に明らかなのに、もかかわらず、です。そして、お父さんはといえば、何を言っても無駄そうなので、何も言って貰えないまま、事情を理解することもありません。「娘のわがままで家を建てている」と、心の中で思っているのは、そんなことなのかもしれません。だから、家族の中で誰が一番「客観的」に物事を見て判断できているのか、というと、それは明らかに、太陽女神のお姉さんだ、ということになります。彼女は彼女なりに、太陽女神の行動を客観的に的確に分析できています。

お姉さんは、お母さんから見れば、「小さい頃に直接面倒を見てあげられなかったから、自分の手元に戻ってきたときには、どうにもならなかった」子供でした。「どうにもならない」というのは、お母さんの言うことを素直に聞かない、就職をさせようとしても、お母さんの選んだ仕事を「いやだ」と言う、とそういうことなのだと思います。その代わりに、仕事がいやで、辞めたければ、結婚すればいい、と考えてお母さんにせっつき、結婚相談所に登録しました。子供の頃は、お小遣いが少ないと、お母さんのお財布からお金を抜き取って、お小遣いを値上げしてもらいました。こういうことからも分かるように、お姉さんは、「いや」なことは「いや」と言える子でしたし、自分の感情を表に出すことで、自分の気持ちをお母さんに分かって貰うことが「できる子」でした。要するに、感情の表出がちゃんとできて、必要に応じて、他人ともコミュニケーションが取れる子だったのです。感情の表出がちゃんとできて、かつ物事を客観的に見ることができる子は、要するに「普通の子」です。太陽女神は、そもそも非常に幼い頃から、失感情症を発症していて、ものすごい分析屋でしたが、感情を表に出してお母さんと上手にコミュニケーションを取ることは苦手でした。子供の頃の太陽女神は、「お母さんは私の気持ちを分かってくれない」と思うことが多かったのです。それは「分かってくれない」のではなくて、自分自身が気持ちをうまく伝えられない子供だったのです。だから、普通の子に育ったお姉さんと、普通の子ではなかった太陽女神の「成長の差」を見るには、「お姉さんの養育にだけ関わった人々」を知らなければならないのです。その人達が、お姉さんを、「思うことがある点については、ちゃんと意思表示できる子」に育ててくれたのです。だから、「まとも」に育ったのは、実は太陽女神ではなくて、お姉さんの方だったのです。でも、お母さんの方は、「ちゃんと意思表示ができる子」ではなくて、「言うことを聞く子」が「いい子」だと思ってるので、「言うことを聞く太陽女神」の方が、「いい子」であるように錯覚していただけなのです。お姉さんの方が普通の子でしたが、家庭環境が悪かったので、情緒不安定なところがあっただけなのです。それから、「意思表示の仕方」にも、社会的に見て適切でない点がありましたが、お姉さんの方の「普通でない点」は、そのくらいでした。お姉さんの養育に関わったのは、父方の祖母、母方の祖父、義理の叔母さん、叔父さん(お父さんの弟)、学校の仕事で出会ったUさんくらいでした。父方の祖母と叔父さんは、子育てに宛てになるような人達ではなかったと思います。Uさんも、預かった子供に怪我をさせるくらいですから、ちゃんと面倒を見てくれていたのかは疑問です。でも、母方の祖父は、子供の扱いが上手で、特に女の子に優しい人でした。義理の叔母さんは、彼女の甥とお姉さんを良く遊ばせていたそうですし、お姉さんもそのお友達のことを今でも覚えていますから、その頃のことはお姉さんにとって、「よい思い出」に満ちていたと思われます。要するに、母方の祖父と義理の叔母さんが、「親に遊んで欲しい乳幼児」であったお姉さんの思いをある程度、お母さんの代わりに受け止めてくれたので、お姉さんは彼らをお母さんの代理として、「客観的な母親像」を形成し、その結果客観的なものの見方ができるようになったのです。そして、自分の感情を抑圧することもなかったので、感情を表出することも、ある程度普通の子供のようにできるようになりました。叔父さんも子供がある程度育てば、一緒に遊んだりできる存在になり得たかもしれません。でも、こういう人達は、太陽女神の養育には関わりませんでした。なぜなら、女神が生まれる前後に、どういうわけか全員がほぼ突然に亡くなっているからです。お姉さんを「普通の子」に育ててくれた人達だけが亡くなっているのです。

一方、太陽女神は、自分でも記憶にないくらいから、自分の感情を抑圧することを覚えていました。その最初の兆候も、自分が覚えていないくらい幼い頃にあります。自分の子供の頃の話として、お母さんは「お前は一緒に買い物に行くと、その時にはお菓子を買って、と言わない。そして、後になってから「買ってくれなかった」と文句を言う変な子だった。」と言いました。要するに、お菓子を買って欲しい時に、「買って欲しい」と言えないのです。お菓子をものすごく買って欲しいと、心の中で思っているのに、自分でそう思っていることに気がつけないから、言えないのです。そして、その思いは、時間がたってから、ようやく意識の表面に出てくるのです。それではじめて、「お菓子を買って欲しい」と言えるようになるわけですが、その時はもうお店にはいませんから、「私が買って欲しい時に買ってくれなかった」となるのです。失感情症のせいで、感情の表出が適切な時間にできないのです。お母さんは、おそらく娘のそういうところを「わがまま」だと思っていたのではないでしょうか。彼女は単に病気だったのです。その一方で、お母さんは、感情を上手に表すことができない子のことを「思い通りになるいい子」だと感じる部分もありました。それも単に病気だったのです。「思い通りになる」のは、自分が何をしたいと思っているのかを自分で理解する力が弱いから、そして、お母さんの言うとおりに動くことが、いろんな面から「自分にとって有利である」と頭で判断していたからです。そして、親に依存している幼い子にあるように、「親と同じ価値観を持とう」ともしていました。そういう知能だけは、非常に「一を聞いて、十を悟る」ような、優れた子供であったのです。

本日の日誌

さて、本日、トリイ大先生から宿題を授かったわけです。それは、姉と私の育ちからの差についてです。「お姉さんと、あなたが育つ過程で、お姉さんの養育に関わって、あなたの養育に関わらなかった人がいます。それが、お姉さんとあなたの差です。」そう言われた。で、それで親に聞いてみたら、そういった人達は何人かいて、全員私が生まれる前後に「突然に」死んでいることを発見した。彼らはなんで死んだのですか? 本当に自然死なの、それ? と思う。世の中って、こういうところなんだなー、と突きつけられて。それで、始めて、蛙の王家が何故、トリイのカウンセリングを受けることに大反対なのかに気づかされて。家に帰ったら、兄さん達から「相葉君のことは、敵と心得るように。好意を持つなどもってのほか。」と言われるわけで。蛙の人たちと、蛇の目の人達は、深く混血習合しているから、ここまで事態が明らかになって、太陽女神が富の王家の方に来れば、蛙の目の人達の中からも、富の王家の方に引き抜くことができる人は出てくるでしょう、と言われる。まっすーなんかは、すでに引き抜かれている人。でも、相葉君は引き抜けない人ってことのようなのですが。

でもって、武井咲ちゃんは、蛙の人たちの王族の出なわけですが。彼女は、「女の子は愛に生きるべき」って考える人なので、私の味方なわけです。で、彼女に言われた。「あなたにもまだ甘いところがある。義理の叔母さんが病気になったとき、叔父さんは叔母さんにとても優しくしてたってあったでしょ。叔父さんにとって、叔母さんはものすごく恩義のある大切な奥さんだったのです。あなたはお母さんの気持ちを考えて、息子が妻と協力して、実の父親を殺したのだろう、とは言わなかった。妻がそういうことに協力してくれたから、その妻は夫にとって「ものすごく恩義のある大切な妻」だったのです。そして、息子は今度は、敵の側についた娘と組んで、父親が得た財産を全て敵の手に渡そうとしている。お母さんは、父親の財産を敵の手に渡したくないと思ったら実家に戻らなければならなかった、お母さんが父親の財産を敵の手に渡したいと思ったのなら実家に戻らないままでよかった。その結果、お母さん自身が、父親の財産を敵の手に渡すと選んだ。世の人々は、お母さんはそういう選択をする人だ、と考える。世の中とは、そういうところなのだ、とただそれを知って欲しいのです。なぜなら、どうせ今から選択し直す必要はないからです。太陽女神自身の財産は、もう溜まっているところには、ある、と、それだけのことだからです。ただ、『世の中とはそういうものだ』と知って欲しいのです。」要するに、自分が今やっていることが、先の先までどう影響を与えるかを読んで、世の中を渡っていかなければいけないし、それができて当然、特に「王族」なら、ってそういうことを言いたいのだと思うのですが。甘いどころじゃないですよ。私の方も、もうヘトヘトだ、と思うわけですが。でも、上に立つ人は、そうやって先の先まで読めなければ、大勢の部下の命を守っていくことができないし、結果としてどんどん部下を、味方を殺すだけですよ、って言われる。「王族」のお姫様からの忠言なわけです<(_ _)>。要するに、好意を持つべきでない相手には、絶対に好意を持ってはいけない、まずはそれを心がけなければならない、とそういうことなのではないでしょうか。

で、本日のトリイ大先生のご講義について。朝からいろんなことがあって。

まず、出かけている時に、車の中で自律神経発作を起こしました。症状は、めまい、はきけ、腸の蠕動運動の更新(幸い下痢にまでは発展せず)。暖かくして、まずは休んで、その後カイロとタオルを買って暖めたら症状は改善して、お昼ご飯はおいしく食べられました。

車中で親と話したこと。お姉さんが、次の日の天気予報をお母さんに伝える時に、メモをして伝えている、と。そのメモの内容が不充分で、雨が降る際に前線の雨なのか、雷雨なのかが分からない。しかも、天気図を眺めて天気を予想するのが好きなのに、それもできない、とのこと。最初に言ったことは、「天気予報を伝えるのに、メモするなんて。私だったら、メモをしなくても、ちゃんと覚えていられるのに。」ということでした。これが、まず問題点その1とその2になります。

その3。その後、雨対策のお買い物に出かけて、太陽女神は赤ん坊の発達についての話をお母さんにしてみました。お母さんは、「生まれて1年くらいは、母親がつきっきりで面倒をみなくてはならない。」と述べました。女神は、生後1ヶ月の赤ん坊でも、ただ泣いて生活の欲求を満たすだけでなく、遊んで欲しい時には、親に対してそういうアプローチができる、という話をしました。それは、彼女が小児科のポリクリに行ったときに、検診で甲状腺機能低下症が疑われる、生後1ヶ月の赤ん坊を見たことがあったからです。甲状腺機能低下症になると、人は活発さを失いますが、赤ん坊はとても活発な感じの乳児であったので、病気ではないことは一目で分かりましす。でも、お母さんは、子供がかわいいから、先生の話を一生懸命聞こうとします。でも、赤ちゃんの方は、そんなことお構いなしに、お母さんに遊んで貰おうとして、手を伸ばしたり、何か言ったりするので、お母さんは落ち着いて先生の話を聞くことができません。それを見ていた太陽女神は、自分が赤ん坊の扱いにたけていれば、お母さんが話を聞いている間、赤ちゃんを抱き上げてあやしてあげるのに、と思いました。でも、そういうことはやったことがないので、怖くてできませんでした。なにせ、他人の子供のことでうから。だから、人間の赤ん坊とは生後1ヶ月でも、「どうやったらお母さんと遊んで貰えるのか」ということを自分で考えているし、そのために行動もしてるし、そうやってお母さんを動かすにはどうしたら良いか知ろうとしている。そういう知的な活動ができることが「人間」なんだ、と思ったのです。だから、自分に対するお母さんは、どうだったのだろうか? と思ったので、そのことを女神はお母さんに聞いてみました。そうしたら、お母さんは「あまりそう思ったことはない」と述べました。これが3つめの問題点です。

お父さんは、解離性障害による「現実感の喪失」と「解離性健忘」を持っている人です。しかも、失感情症で、知識活動も低下がみられます。でも、お父さんには嘘をつく性質もあります。たとえば、病院の先生に、煙草をすっているのに、「すっていない」といいます。お母さんは「そんなことで嘘をついても仕方がないのに。」と思ってあきれますが、お父さんは失感情症で、「他人が自分をどう思うのか」ということに無頓着なので、その場だけしのげればよい、とそれしか考えません。だから、そう行動します。人の感情というものは、不可解なもので、「都合の悪い現実」を目の当たりにすると、それを完全に「妄想」に置き換えて忘れてしまうこともありますし、自分で嘘だと知っていても嘘を並べて逃れようとすることもある。その2つは完全に区別されていなくて、「2割は嘘だけれども、8割は妄想」とか、その逆に「8割は妄想だけれども、2割は嘘」と思っていることもあるのです。だから、その人がつく「嘘」と「妄想」の間には連続性があるのです。人をだます詐欺師なんかは、他人に嘘をつき続けていると、しまいには自分が本当のことを言っている気分になる、と述べる人がいます。嘘と妄想の境界が、当人にとっても曖昧なのです。そういう点で、お父さんは現実を客観的に認識できない場合には「嘘と妄想」の世界に生きています。そして、「除草剤をまかれるはずがない」といったん思い込むと、「除草剤がまかれている」と述べたお母さんの発言まで忘れてしまいます。だから、お母さんに対して「お前は、俺に対して嘘を言う女だ」と言って、攻撃する、ということはほとんどありません。それは娘達に対しても同様です。

お母さんの性格の中にも、やや「失感情症」の傾向は見られます。例えば、天気予報については、詳細な日本周辺の天気図まで見て、自分で予想してみる、という知的な活動を好みます。普通の人は、そこまでしないで、「明日の天気は晴れときどき曇りで、ところにより雷雨」という程度で満足してしまいます。だから、普通の「天気予報」は、そこまでしか述べないものがとても多い。天気予報に関しては、お母さんの方が知識活動も、意欲もものすごく盛んなのです。でも、それができにくい場合に、どうするのか、ということになると、「お金がかかるならやる必要はない」となります。強力な「失感情症」の意欲の突出は、インスタ中毒のお嬢さんのように、「やりたいことのためなら、いくらお金を使っても構わない」となりますので、そこまではお母さんの「天気予報に対する意欲」は強くないのです。だから、「失感情症」というよりは、やや、その傾向が見られる、ということになります。しかし、お母さんの全体の知識活動は、実は低下しているのです。「天気予報」というものに対して、太陽女神ですら持っていないほどの意欲と知識を持てるお母さんですから、本来は他の分野に対しても、太陽女神に負けないくらいの知性をもってのぞめるはずなのです。でも、お母さんはこう言います。「子供を産んでから、もの覚えが悪くなって、勉強がやりにくくなった。」要するに、それまでなら、どんな本の内容でも、水を飲むように吸収できて困ったことのなかったお母さんであったのに、それ以後はそういうことが難しくなりました。「本を読む」ということは、文字を読んで、その内容を理解する、という高度な知識活動ですので、そういう活動全体の意欲が低下しているのです。「子供を生んでから」と述べていますので、おそらく子育てがストレスになって、多少の感情の抑圧がきて、やや「失感情症」の傾向が出、それで知識活動全体が低下しているのです。本来のお母さんの姿は、天気予報に対する鋭い洞察力と分析力の中に残されています。

お母さんが、お姉さんに対する愚痴を述べたので、「それは違うでしょ。お母さんは天気予報を覚えていられるけれども、お姉さんは覚えていられないからメモを取る。それは、「天気予報を伝える」というお姉さんなりの方法であるのだし、お母さんとお姉さんは別の人間なのだから、同じようにしないからといって、攻められるはずのことではないでしょう。」と述べました。これが、問題点その1です。「お母さんとお姉さんは別の人間なのだから、同じように行動する必要はない」、これは大人の世界のルールです。でも、子供が赤ん坊で、まず「生き方」というものを示さなければならない場合には、子供は親の行動を模倣しますし、子供が小さい内は母子はそうやって同じ価値観を持って、一体化して行動します。要するに、お母さんの頭の中は、子供に対して「自分と同じ価値観を持って、一体化すべし。」という考えが、相手はもう50を過ぎた人であるのに、まだそういう考えで満ちているのです。だから、お姉さんのことを一人の人間としてみておらず、「自分と同じよう」であることを要求する。それが「母子の分離ができていない」ということなのです。太陽女神が、今取り組んでいる問題がこれなのです。

太陽女神が、「結婚して東京に行く。自分の面倒は見てくれる人がいる。」と日記に書いて、数ヶ月後に急にお母さんは「何故須坂ではダメなのか? 今度は自分は面倒を見に行ってやらないから。」と怒り出しました。何故、日記に書いた当時にそう言わなかったのか、と尋ねると「そうは思わなかったから。」と述べました。そして、「6番目の子にだまされているのではないのか。」とも言った。でも、太陽女神は、開口一番の「何故須坂ではダメなのか?」が全てだと考えていました。娘が遠くへ行ってしまうことが、「母子の分離ができていない」母親の一番の不満だと、考えている、というよりも知っているのです。なぜなら、それで非常に苦労をしてきているからです。

その件はいったん収束しましたが、その次には、今度は食事の量を急速に、無断で、減らされる羽目になった。その時は、「分離不安による成熟拒否」だと思いました。子供が子供のままなら、いつまでも親元を離れていかないからです。

それが収束すると、今度は「感謝しろ」コールです。子供が親のしてくれたことに「感謝する」のは、親子の間に特別な関係があることを強調することです。

で、それも終わったと思ったら、今度は「お姉さんが自分と同じでようでない」という不満を聞かされました。表面上は穏やかだったかもしれませんが、これが太陽女神にとって大打撃であって、今までそのようなことを母親に要求され続けてきて、どんなに大変だったかが一度に思い出されたのです。で、雑誌を買いにコンビニに寄ったら、フラフラして、めまいがする。「遂に、耐えきれなくて、心身症的反応が来た。」と太陽女神は思いました。指導医のトリイ・ヘイデンは、「そうやって、親に分離を拒否されて、どんなに苦しいと思うか。あなたは常日頃、自分の感情の表出をあまりしないけれども、そうやって「苦しい」と思うことも感情の表出です。自分では、どうにもならなくて、病院にやって来ざるを得ない精神疾患の患者さんの苦しみがどんなものなのか、自分の体験を通して学びなさい。」と言いました。そうしたら、太陽女神は「鬼!」と言いました。そうやって、言い返せることも、人とコミュニケーションを取るには、大切なことなのですよ、とトリイは太陽女神に言ったのです。で、現場についたら、吐き気と便意が生じましたので、結局、過去の体験のフラッシュバックと、緊張感の高揚と、冷えたせいで自律神経失調発作を起こした、と太陽女神にも分かったので、彼女はその治療を試みました。自分で自分の治療が行えるんだから、指導医が気を遣う必要なんかない、とトリイは述べます。でも、お母さんには、もっと娘は娘、自分は自分、という気持ちを常日頃から、日常生活のあらゆる場面で、持って貰う必要はあると思います。

そして、問題点その2。「やってもらったことには感謝した方がいいのではないですか。」と、太陽女神は述べました。そうしたらお母さんは、「雷雨と前線の雨の区別もつかない」と言いました。お母さんは、お姉さんが中途半端に助けてくれても感謝の気持ちを持てません。かつて、太陽女神は、お姉さんが中途半端に荷物をつけてくれたことに対して、「やるならやるでしっかりやって欲しい」と述べました。そうしたら、お母さんは「気をつけていないお前が悪い。中途半端ではあっても、やってもらったことに対する感謝の気持ちがない。」と述べました。親は子供の鏡といいますので、自分がやらないこと、すなわち自分では感謝する気がないようなことを、子供にだけ「感謝すべきである」と、要求すべきではないと思います。それこそ、子供の方に不公平感が生じて、親子の信頼関係が壊れるからです。親が一方で、子供との分離を拒否していながら、一方で信頼関係を壊すような真似をするから、子供は困ってしまうのです。

そして、問題点その3。トリイ・ヘイデンは太陽女神にたずねました。「お母さんは、子供の面倒はきちんとみてくれた、というかミルクを飲ませる。湯浴みをさせる。下の世話をする。そういうことはきちんとしてくれました。でも、子育てをストレスに感じる女性は大勢います。おそらく、赤ん坊の方からの「遊んで欲しい」「構って欲しい」というサインは、ほぼ見落としがちだったのだと思います。お母さん自身にも、赤ん坊の頃に母親と遊んで貰ったという経験は乏しかったのでしょう。普通の子供は、母親がそういう態度を取ると、自分が親となったときに、赤ん坊と一緒に遊んであげない、親と同じような人間に育ちます。でも、あなたは「赤ん坊と遊んであげたい」と思う人です。それが何故なのかを考えてみて下さい。」と。その答えは一つです。太陽女神は、ごく小さな赤ん坊の頃に、お母さんに甘えて遊んで欲しい、とサインを送っても、見落とされがちでした。それで、ものすごく寂しかったのですが、その気持ちは「無駄なこと」だと思うようになると、寂しいと思う気持ちも、次第に心の奥底に閉じ込めてしまって、表面上では、寂しいと思うことすらしなくなりました。その代わりに、母親の行動を客観的に分析して、「自分が母親だったら、赤ん坊と遊んであげるのに」と思うようになりました。生後1ヶ月の赤ん坊に対して、そう思うということは、太陽女神自身、かなり赤ん坊の頃に、すでにそう思うようになっていたのです。非常に知的で、分析的な「人間」の赤ん坊です。そういう子供は、その点については、成長しても親と同じ行動はとらなくなって、親とは異なる行動を取るようになるのです。でも、そういう「分析屋」な性質は「失感情症」の症状でもあります。すなわち、太陽女神は、すでに幼い頃から、「失感情症」を発症していたのです。

そして、話は最初に戻りますが、太陽女神のお父さんは、誰かが信じたくないことを言ってきた場合には、言われたことすら忘れてしまう人でした。だから、信じて貰えなくても、その後の実害はあまりありません。それに、子供の方が主導で好き勝手やっても、それもわりとすんなり諦めてくれる人です。一方、お母さんの方は、相手の言うことを「嘘だ」と思って、いつまでも言った内容は覚えています。そして、解離性健忘で、ときどき「妄想」を真実だと思う人なので、誰かが「言った内容と自分の妄想」を組み合わせて「言われた内容」だと思っていることもあります。で、そういうことを覚えていますので、何かあると相手のことを「お前は嘘つきだ」とか「お前はおかしい」と言って責めます。何もかも忘れてしまう人は、ほっておけば実害がありません。ほっておくと、いつまでたっても人の言ったこと、あるいは言わないことを取り上げては「うそつきだ」とか「頭のおかしい」と言い続ける人と、全部忘れてしまってくれる人。いったい、どちらの方が、親としては子供にとって「やっかいな人」なのだとお母さんは思いますか? それはお母さん自身で考えて見て下さい。でも、一回言って、信じて貰えなくても、その後実害がないと分かっているから、「別に説得する必要はない。そんなこと無駄なこと。」と、太陽女神はお父さんに対して述べるのです。説得は試みても、説得されたことすら相手は忘れてしまいますが、ほっとけば、こちらが好き勝手やっても、ほぼ実害なしの相手だと、それは子供の方が、ちゃんと知っているのです。