本日の日誌

昨夜、「パーソナリティー障害というものを調べて見るように。」と言われて調べてみました。

昼間母親を話をしていた時に、母親が看護学生時代に、学校で「精神科」で何を習ったのか聞いてみました。それというのも、太陽女神の記憶にあった母親の姿では、ともかく「精神疾患」とは、父方の専売特許の病気、みたいに言いつのる姿がものすごく強かった記憶があるのです。父方の一番年長の叔父さんは、割と若い頃に「ごく軽い統合失調症」と診断され、その後症状はそれ以上ひどくはなりませんでしたが、社会復帰もしませんでした。また、お父さんの家系には、精神病院で亡くなった人もいましたが、お母さんの家系に精神病と診断されたり、精神病院に入院した人はいませんでしたので、お母さんには「自分の家系に精神病の人はいない。「頭のおかしい」のは夫の家系の特徴だし、それが遺伝して、子供達が発症し、将来的に仕事ができなくなると困るな。」と思われたのです。だから、夫が、たとえば食事療法が必要なのに、お母さんに黙ってたくさん食べていたりすると、「頭がおかしい。それは夫の家系の特徴。」みたいに思っていましたし、子供達が言うことを聞かないと、「お前は父親に似て、頭がおかしい。」と言ってしかったりしていました。しかも、その際にはかなり感情的になって、怒ったり怒鳴ったりしていました。お姉さんは、お母さんから見て、「素直に言うことを聞く子供ではなかった」ので、しかられる機会が多かったのですが、その際には、「お前は父親にそっくりだ」とか「父方の叔母さんそっくりだ」とか「頭がおかしい」とか平気で言っていたのだと思います。幼い太陽女神は、叱られるお姉さんを見て、「自分が同じように叱られないようにするには、どうしたら良いのか」ということばかり考えるようになりました。普通、子供は親が兄弟を叱ったりすると、自分も怖くて泣き出してしまう、とかそういう反応をします。子供の精神が未熟だと、子供の経験と知識では、起きている現実にどう対応して良いのか分からなくなるからです。でも、太陽女神は、幼い頃から、このように分析的な子供でしたから、まず「母親の言うことを聞いていれば怒られない」とすぐに気がつきました。そこで、「言うことを聞く子」になりました。

そして、お母さんの方は、子育て時にあまり精神的に余裕がなくて、子供がお母さんに甘える、子供らしい「感情の発露」について、割と「わがままだ」と厳しく接するお母さんだったのだと思います。その「わがままだ」の次には、更に怒りが続けば「お前は父方の誰それにそっくりで、頭がおかしい。」と続きます。太陽女神が、小学校2年生くらいの時です。当時、ご飯のおかずがカレーの時には、お母さんが子供のカレーをご飯の上にかけたり、ご飯の上にかけたカレーをご飯を混ぜてあげたりしていました。ある時、太陽女神は、カレーとご飯を混ぜて欲しかったので、そうして貰いました。次の日の朝、今度はカレーがかけてあるだけのご飯を食べたかったのに、お母さんは太陽女神に何も言わずに、カレーとご飯を混ぜてしまいました。女神は「カレーとご飯を混ぜないで欲しかったのに。」と言いました。お母さんは腹を立てて、「そういうわがままを言うのなら、今度からカレーの始末は自分でしなさい。」と言って、その後はカレーの始末をしてくれませんでした。太陽女神は、内心「カレーをそのままにしておくのか、混ぜるのか、やる前に自分に聞いて欲しかっただけなのに、ひどい。」と思いました。でも、そう考えたことはお母さんには言いませんでした。更にお母さんに「わがままだ」と怒られるのがいやだったからです。

小さな子供が成長するにつれて、食事が一人でできるようになるのは、当然ですので、いつまでも親が手をかけてやって、甘やかしていれば良い、というものではありません。でも、一人でできるようにさせたかったのであれば、もっと穏やかに、別の機会に「もう大きくなったのだから、一人でできるでしょう。やってみよう。その方が、かっこいいよ。」とか、もっと前向きに誘導することができたはずです。そうすると、子供は、前向きに自分が一つ成長できた、という自信を持つことができます。子供が、親に、「カレーとご飯を混ぜないで欲しかったのに。」と言ったのなら、それは「自分の気持ち」を述べたことになります。それが親に叱られたので、太陽女神は「自分の気持ちを親に言うと、叱られる」と思うようになりました。お姉さんも、そうやって「自分がやりたいこと」をお母さんにアプローチすると、怒られることが多いように、それは自分の観察でも感じていました。そうすると、今度は希望があっても、叱られることが怖くて、親に言えなくなる。あるいは、「どうやったら希望を叶えて貰えるのか」という、「方法」ばかりを考えるようになりました。表向き、「ご飯が一人で食べられるようになること」は、子供が成長していることのように見えますが、太陽女神からすれば、子供らしいわがままのスキンシップを親に求めた結果、拒否されて、しかも一生拒否され続けなければならない、ちょっと甘えたかっただけなのに、と思えます。しかも、混ぜる前に自分の希望を聞いてくれても良かったはずなのに、それをしてくれませんでした。昨夜はそうしてくれたのに、今朝はしてくれなかったのです。だけど、そこで不満に思ったことは、もう口には出せませんでした。こうして、どんどん感情が抑うつされ、自分の思ったことを親に上手に伝えられない子供になっていったのです。

そして、今朝、車の中で、お母さんは、父親のお姉さん達をいかに恐ろしく思っていたのかを太陽女神に話しました。太陽女神は、初めて聞く話でしたので、「記憶の書き換えでしょ」と述べました。そうしたらお母さんは以下のような話をしました。

まだ太陽女神が赤ん坊の頃、離れを作るために大工さんが来ていたので、お母さんは赤ん坊を寝かせといて、お茶を出したりしなければなりませんでした。そうしたら、大工さんに「赤ちゃんが泣いているよ」と言われたので、様子を見に行きました。そうしたら、子供の顔に、枕元に置いてあったはずの紙がかけられていて、赤ん坊はそれで嫌がって泣いていたのです。赤ん坊は自分ではまだ動けなくて、紙を自分で顔に載せられるはずがありません。隣の部屋には、子供にとって父方の祖母と叔母がいて、彼らは赤ん坊が泣いていたことを知っていて当然なのに、「気がつかなかった」と言いました。お母さんは「子供をかわいがる気のない恐ろしい人達だ」と思いました。

その話を聞いて、太陽女神は苦笑いして、言いました。「その人達が私の顔に紙を乗せたんでしょ。呼吸する能力の弱い赤ん坊だったから、うまくいけば窒息すれば良い、と思って。私を殺そうとしたのはその人達でしょ。」と。お母さんはびっくりしていました。でも、推理小説のようですが、状況的にはそれが疑わしいと思うのです。言っている太陽女神の方は、もう今までに何度も殺されるような目にあってきていますから、平然としていました。赤ん坊の頃から、そうやって自分の命が狙われていた、としても「さもありなん」くらいにしか思えなかったからです。「そうやって平然としていられる鋼のような神経の持ち主だからこそ欲しい」と言って、兄さん達には笑われるわけです。だから、太陽女神からすれば、「子供を殺すような恐ろしい人達」となります。お母さんもいつも、その人達は「弟(太陽女神の父親)を殺して、自分の子供だけ生かそうとしている人達だ」と考えていましたから、その感想とも一致します。だから、これは太陽女神の主観ですが、お母さんは、状況から物事を判断する能力がやや「ずれている」ように感じるのです。恐ろしいのは、「子供をかわいがらない」ところではなく、「子供を殺そうとしている」ところなのです。そして、お母さんにとっては、かなり異様な経験であったので、今まで恐ろしくて誰にも言えない経験だったようです。太陽女神からすれば、そういう重大なことこそ大騒ぎしても良かったんじゃないの? とも思えます。でも、非常に「異様な経験」としてお母さんは感じていたんだな、と思いました。

そして、お母さんは子供達が小さい頃、「頭がおかしくなって働けなくなったら困る」と考えていました。彼らの叔父さんが、そのように見えたからです。でも、「頭がおかしくなって働けなくなった」としても、本当は困らないのです。なぜなら、障害者年金が来ます。面倒を見る人がいないのであれば、程度に応じて受け入れてくれる施設もあります。むしろ困るのは「頭がおかしくないのに、働く意欲を持てなくなる」ことなわけです。これには、お父さんの弟の方が該当していました。こちらは働かずにパチンコとがギャンブルにうつつをぬかしたりしていました。でも、こちらは「頭がおかしい」わけではなくて、少なくとも表面的には「働く気がない」のです。病的なものだったとしても、それは前面に出ていませんでした。だけど、お母さんの中には「働かない人=頭のおかしい人」というイメージがあって、「働かないことそのものが、頭のおかしい証拠」のように考えていたのだと思います。それは、お母さんにとって母方の祖母や母親が、「労働することが全て」という価値観の持ち主だったからです。だから、病気で働けない人と、正当な理由もなく働かない人の区別がつかなくなって、その二つをまとめて「頭がおかしくなって働けなくなったら困る」となってしまうのです。「正当な理由もなく働かない人」はただ単にサボっている人であって、「頭はおかしくない」のですが、お母さんのイメージの中では「正当な理由もなく働かない人は、それ自体がおかしい人」なのです。お母さんは無意識のうちに、精神科疾患ではない人まで「おかしい人」と決めつけています。それは、世間一般からみれば、「医者から診断されたわけでもないのに、決めつけすぎる。」行為となります。世間とお母さんの価値観がここでずれてしまうのですが、お母さんはその点も自分を客観的に見ることができませんでした。今になって検討してみると、お母さんの家系の中にも、精神的疾患を患って、自殺に至ったのではないのか、と思える人達が何人かいます。そういう人達は、医者に行かなかったから診断名がつかず、正式に「頭のおかしい人」とはされていませんが、医者にかかっても、かからなくても、病気であった事実に変わりはありません。そして、お母さんの母方には、二代続けての「従兄婚」があり、精神科的障害が発現しやすい状態であったと思われます。だから、お母さんが「頭がおかしいのは父方の専売特許」のように考えていたこともまた、事実ではなかったのです。

そして、太陽女神は、最近もまたお母さんから「お姉さんに荷物を運んで貰っていることに、少しは感謝すべき」と言われたことを思い出しました。だいたいいつもそうですが、「何故、自分だけが感謝することを求められるのか」、それが不思議だし、「ちょっと不満」なのです。でも、自分では「ちょっと不満」なだけだと思っているから、流してしまうことがほとんです。お姉さんに感謝していないとは言いませんが、荷物を運んで貰って「ありがとう」とはいつも口で言っていますし、それ以上に何を求められているのかも良く分かりません。でも、トリイに言われました。「あなたが自分で「ちょっと不満」と感じていることは、本当は自分では「ものすごく不満」だ、と感じていることなのです。それを「ちょっと不満」にしか思えないところがあなたの病気なのです。だから、お母さんと衝突したりすると、その「ものすごい不満」が爆発してしまったりする。そうではなくて、自分でも何がどう不満なのかをしっかり考えて、それをお母さんに伝えられるようにならなければなりません。それが「感情を正しく表出する」ということです。もうお母さんに怒られるのが怖くて縮こまっている赤ん坊じゃないんだから、きちんと考えて努力しなさい。」

ということで、考えてみました。お姉さんがやってくれたことは直接的なことで、それはお母さんにも「目に見えること」ということで分かっています。でも、私のやっていることだって、家の中のことを分析して、誰がどのような問題点があるのかを探って、家庭がどうやったら円滑に回っていくのかを、考えてアドバイスしている、ということだから、ちゃんと精神科的手法にのっとってやっていることで、「仕事」として行えばちゃんと対価を貰えることです。ただしゃっべっているだけではなくて、専門的な知識に則っていることですし、とても気の張る作業です。でも、それで家庭が平和になって家族関係が円滑になれば、お姉さんだって恩恵を受けて、家の中でより楽な気分で過ごせるようになるはずです。だから、私が家族のため、と思ってやっていることも立派な「労働」なのです。家族だし、お互いにできることをやって助け合うのが当然、だと思うから、私の方は、家族のために医者としての知識を生かして労働しても、報酬も求めないし、感謝の気持ちを持ってくれ、とも言ったことはありません。だけど、私に対してだけ感謝を求めてくるから、不公平だと思って不満が募るのです。お母さんは、曾お婆さん、お婆さんから「体を使って労働することが正しい労働」みたいに言われていて、そう思っているから、「知的な労働」が「労働ではない」みたいに思えるのではないでしょうか。でも、「知的な労働」だって、とても疲れる仕事だし、だいたいそういう「知的な労働」をする職業に就け、と言ったのはお母さんなんだから、「自分がやれ」と言ったことを「労働ではない」みたいに扱うのはおかしいと思うのです。だったら、お母さんが「やれ」と言ったことをやればやるほど「働いていない人」になってしまいます。しかも、お姉さんだって日頃から、私に余計なことを頼んで、後で恩着せがましくされることをすごく嫌がります。別に何かを頼まれれば、私だって、できることはやって、恩着せがましくするつもりはありませんが、家族の間でもそうやってお互いに恩着せがましくし合うのは嫌なことだと思う。だから、私にだけ「感謝の気持ちを持て」と言うのはやめて欲しいのです。

そして、本当に感謝すべきは、「外」で無報酬で私たちのために働いてくれている人達なのです。彼らだって、なにがしかの報酬は得ているのかもしれないけれども、例えば体を壊してまで尽くしてくれる人には、健康はそれこそお金に換えられないものだから、本当に感謝の気持ちを持つ以外に、何もできることがありません。そういう人達の存在を「自分が信じられない」というだけで無視していいのですか? そういう人達がもし存在したら、当然感謝の気持ちくらい持つべきだとすら考えてみることはできないのでしょうか。

そして、兄さん達からは、自分では今起きていることが、どうして「現実」だと思うのか、と尋ねられる。だって、兄さん達はテレビとかで発現するときに、ちょこちょこと私が日記に書いている「言葉」なんかを差し挟んで、私に対して、現実感が持てるように、いつも工夫してくれている。それに、「しやがれ」を見て、精神科疾患の系統的なディスカッションが理路整然とできるなんて、それこそ「妄想」ではあり得ないことだから、「妄想ではない」と判断するだけです。それに、こういうことの繰り返しを何年も続けてきて、兄さん達との信頼関係を続けてきてるから、ということなのです。