昨夜は特に夢も見ず。「THE MUSIC DAY」のしやがれのコーナーで、潤君と相葉君の担当のものを見たのですが。6番目の子は、狂おしいほどの思いで好きな人を思っていて、ときどきその思いが目に出てしまうわけで。この人の目に巻き込まれて、巻き込んで、二人で生きて行けたらとても幸せだろうな、と思うわけですが、それはおいておいて、涼ちゃんとかのんちゃんを圧迫されるのは困るんだよ? と思うわけで-;。18禁指定の発言については、7番目の兄さんは「自分もHは上手だよ」と言ってくるわけで。やることは同じ気がするわけですが、7番目の兄さんの文言の方が、あっさりしていて普通な気がするわけですがー;。
で、本日も土台の下をせっせと掘って。シロアリが3匹出てきたわけでー;。タールの詰まった土の層が出てきたので、そこも掘らなければ、と思うわけです。
そして、暇なときに週刊誌を眺めて、ジブリの鈴木さんの連載を読むわけで。この連載の主人公は、タイの貧しい農村地域に住むカンヤダというシングルマザーであって。鈴木さんは、その女性の支援をしている。他の登場人物には、タイが好きでタイに住んでいるイタリア人のコルピさん、タイの事情に詳しい日本人の清水君がいて、鈴木さんの支援を手伝ってくれている。また、カンヤダの直接の支援はタイ人のお母さんと日本人のお父さんを持つ混血のアツシ君が行っている。アツシ君は、(おそらく)都会で生まれ育って、合理的な考え方をする現代人である。一方のカンヤダは貧しい農村の大家族で生まれ育っていて、合理的な生き方はあまりしていない。たくさんのお金を得ることを夢見ているけれども、目的に向かって計画的に生きることは得意そうではない。鈴木さんは、カンヤダとアツシ君が結ばれてくれればいいば、と思っているけれども、お互いを押し付け合いすぎることもなく、緩やかに暖かく二人を見守っている状態なのである。で、今週号の連載を見る限り、カンヤダの読者の評判はあまりよろしくないらしい。特に日本人は、風土病ともいえる感じで「コツコツ頑張る」とかそういうことが大好きであるので、そういうことが得意でない子には厳しいかも-、と思う-;。でも、私は、そもそも何故鈴木さんが、今になって女性週刊誌で連載を始めたのか、その動機がまず気になるわけです。そして、鈴木さんが連載を始めて2,3週間後に、スタジオジブリは宮崎駿監督が再び長編アニメの制作を再開する、と発表しているわけで。今までに何度も引退を表明している宮崎監督であって、前回「引退」してから、ジブリのアニメ制作チームも解散してしまっているらしいので、アニメーターとかのスタッフも、また1から募集中であるらしいです。でも、こういう一連の動きもけして偶然ではないと思うわけで。ジブリのアニメは、今まで多くのことを伝えてきてくれていた。その内の「ハウルの動く城」だけは家に入れることを許されて、家にあります。でも、宮崎監督は常々、アニメとは「子供の見るもの」で、しかも「よろしくないもの」と言い続けてきた。だから、私にはジブリの3賢人がこう言っているように思えるわけです。「もうあなたはアニメを見て、いろいろと勉強するような子供ではない。女性週刊誌を読む、大人の女性なのだから、言いたいこと、伝えたいことは女性週刊誌を通して伝えます。」と。だから、その代償として彼らは、再び新たにアニメを制作しなければならなくなったし、制作されるものはきっと「呪いのもの」であるのではないか、と思うのです。そして今はカンヤダと共に人生の旅をしているわけで。
今週号では、鈴木さんはカンヤダの人となりを伝えるために、タイの貧しい農村地帯の一女性のことを書いています。タイの貧しい農村地帯というのは封建的でもあって、離婚した女性は、いわば「傷モノ」とされて、その後の結婚生活とかで幸せになる見込みはないらしいです。だから、勇気を持って離婚に踏み切る人は少ないらしいのですが。その中で、しょうもない夫を持ったので、離婚したマリという女性がいて、その人は村にはいられないので、バンコクに働きに出て、そこでドイツ人の男性と知り合い、結婚してドイツに渡ったということで。でも、その夫は不誠実な男であって、妻に飽きると彼女を奴隷のように、別の男に売り飛ばして。慣れぬ異国で、彼女はそういう男達に従って生きるしかなかったけれども、最後の夫が親切な人で、結局夫の支援で生まれ故郷の村に戻って、今度は家族みんなで仲良く暮らせた、という話なわけで、実話であるらしいのですが。なんというか、それを読んで思ったこと。まずは、タイというのは仏教国であるのだけれども、そういう貧しい農村地帯の人々の貧しさを救うのに「宗教」ってあんまり役に立たないんだな-、と思って。仏教というのは来世のために宗教なので、確かに貧しい人々に「お金儲けのやり方」を教える、とかそういうのは違うと思うわけですが、具体的な現実を動かす力には乏しいんだな、と思って。それから思ったことは、このマリという女性もまた、カンヤダとは違っても、アツシ君とは対象的な生き方をする人だな、と思って。ドイツに行くなら行くで、ドイツ語や英語をせっせと勉強する、とかドイツ社会の中で、自分が不利にならないようにドイツの法律や行政の仕組みを調べる、とかそういうことはほとんどなくて。彼女の動向は、結局は「夫」次第であって、良い人に巡り会えたから幸せになれたけれども、巡り会えなかったらのたれ死んでいたかもしれないし、なんというか、ものすごく受動的であって。一方のアツシ君は、現代人であって、目的意識をもって、目的に沿って社会にどう働きかけるのかを知っている人であって。お店を開くとなれば、法律的にどういう手続きが必要なのか、短期と長期で目的を分けて、どちらでも有利になるようにいろいろと考える人であって。
それで、なんとなく思ったことですが、鈴木さんがマリを通して理解して貰いたい「カンヤダ」の像とは、貧しい農村地帯で生まれ育った女性、親は貧しいにもかかわらず避妊も計画もせずに子供を作るので、それも貧しさから抜け出せない一因になっているし、やはり親自身も「裕福になるためにどうしたら良いか」ということはあまり具体的に考えられないのだと思う。だから、そういうところで生まれ育った子供は、どんな境遇でも、一日一日をたくましく生きていくことは得意なのだと思う。でも、親の世代と同様、「貧しい境遇から抜け出すにはどうしたら良いのか」という具体的なビジョンを持つことは難しくて、それこそ夢のように漠然とお金持ちになること、お金持ちの結婚相手を見つけて援助して貰うこと、などを夢見てる。だから、人はあまり貧しい境遇に育つと、長期的な人生のビジョンというものを持てなくなって、日々生きることしか頭になくなるのだろうか、と思った。昔の日本、貧しかった頃の日本には、やはりそういう人達、そういう女性もたくさんいたのだろうか、と思うのです。