本日の日誌

昨夜は特に夢も見ず。梅雨前線が南下したので、何とか晴れ間が見えた一日だったので、早速土台の下へ潜って穴掘りを再開する。そうしたら、2カ所で土が崩落していて、だいたい自然に崩落した土の中には石やゴミが詰まっているわけで。で、親には玄関先の東側を掘って貰うことにして。蛇の兄さんは、割とそれぞれが互いの目の届くところで穴を掘っていると安心するらしくて。万が一、炮烙事故とかがあっても、その方が早く対応できる、ということで。で、奥の方の土の中から、またシロアリが一匹でてきて。普通、こういうものは、巣があって、ある程度集団で出てくるもののような気がするわけですが、ある箇所の土の中から、ときどき1匹づつばらけて出てくるわけで、何故なのだろう? と不思議に思うわけで。

で、お昼を食べていた時に、親から私がおやつに食べているパンは「自分が食べているロールパンよりも甘い。それを「甘くない」と言うのは、(お前の)味覚がおかしいし、それは砂糖を袋で抱えて食べていながら、砂糖を「全然甘くない」と言っていた義理の姉と同じで、異常だ。」というとうなことを言い出して。そのパンは、ブランロールというロールパンの変形のようなパンであって、菓子パンのように甘いものではないし、当然砂糖の塊でもないし、私が際限なく食べているものでもないわけだから、要するに「またか」と思うような「中傷」の部類であって。精神医学の分野からいえば、それは親が子供の自立を嫌って、自分が優位に立ちたいために行っている行為、であって最近の俗っぽい流行の言葉で言えば「マウンティング」というやつなわけで。で、普段なら「不愉快だけどほっとく」という程度のものなわけですが、親の言動が解離性健忘から来る妄想の応用版、すなわち「現実をしっかり客観的に認識できない妄想から来る言動」によるものだと分かれば、医者として何の対応もしないわけにもいかず。でも、こういうことの「療法」は、「消された記憶を再度認識させて新たな記憶を植え付ける」っていうそれだけなわけで-;。要は、相手が正しい記憶を認識するまで、「いたちごっこ」を繰り返せ、とそういうことなわけですが-;。で、この場合は、ブランロールがロールパンよりも本当に甘いのか、特に健康被害をもたらすほどに甘いのか、ということになる。で、味覚なんていう「主観」でものを言っても始まらないので、成分表を見て調べて見たわけですが、ブランロールの方には、甘み付けに蜂蜜とか砂糖を添加しているので、確かに甘みは感じるようである。でも、含まれている炭水化物はロールパンの方が多く、カロリーはほぼ同じである。要するにブランロールの方は、ふすまが入っているので、そのままだとパサパサし過ぎて食感が悪いので、蜂蜜みたいにしっとりするものが多めに入っているのだと思う。でも、炭水化物はブランロールの方が少ないし、食物繊維が多く含まれている分、健康的であると思う。だいたい、朝ご飯に食べているスティックパンの方がよほど「甘い」ので、ブランロールを私が「甘くない」と言っても、それが「病的な状態」だと決めつける理由には全くならない。

でもって、やはり「単糖類」が足りないと思うので、おやつに「ゆずピール」を食べてみたわけですが、こちらはドライフルーツみたいなものかと思っていたら、本物の「砂糖の塊」であって(苦笑)。一度に小指の先の一欠片以上食べたら危険なシロモノだと思うので、それ以上食べられないわけですがー;。でも、健康被害がどうのと言おうが、脳細胞は「単糖類」以外のエネルギー源では働かないので、仕事が終わった後に一欠片食べると、ほっと元気が出て「疲れてたんだな」と思うのも事実であって。「砂糖の危険は、食欲中枢を必要以上に刺激して、ほっとくと必要以上に食べ過ぎてしまうことなので、気をつけるように。」と7番目の兄さんに言われるわけですが、でも、脳細胞の件があるので「一欠片くらいは食べた方がいいですよ」って言われもするわけで。まあ、気をつけて少しだけ食べることにします、と思うわけですが。でもまた買いたい気分になるかどうかは微妙だ-、本気で砂糖の塊だし、と思う。

でも、この年になって、精神科的カウンセリングだなんて、それこそポリクリの時以来、というか、担当教官が「こういう患者さんは病歴も長いし、年もとってるし、頭がいいからその場しのぎでなんでも言い逃れで誤魔化すことに慣れてるし、完治の見込みはないけれどねえ。でも、症状はさほど大きな影響を与えるほどのものではないから、気長にコツコツとやってみるしかないねえ。」って、それこそ精神科の医者特有の無情な目で総評してくれるのが目に見えるような気がするわけで-;。こういうことは、ポリクリでやって以来、2度とやるまいと思っていたのに、無報酬で精神科医なんて、これこそ誰か私に正当な診療報酬を支払って欲しい、と思ったわけですがー;。だいたい、私自身が医者としては生きている人が嫌で、死体大好きな病理屋なのにーー、と思うわけで。でも、7番目の兄さんには「どういう対応をするのが一番ベストなのか、自分も一緒に考えるから」と言ってくれるし、あーやちゃんも「できることは頑張ってしましょう」と言ってくれるし、音楽家の兄さんも「(妻神は)なんだかんだ言って良い医者ですよ」と言ってくれるわけで。

でも、ふっとジブリの鈴木さんが連載しているカンヤダのことを思い出して。タイの貧しい農村で生まれたカンヤダは長女であって、家族のために働いて、得たお金を全てお母さんに渡している。で、そのお金はお母さんだけで無く、彼女の大家族のために使われている。弟や妹たちだけでなく、叔父さん叔母さんやいとこ達にまで。鈴木さんはその光景を「ちょっと前の日本では良く見かけた光景」だと言う。私にはその姿は、母親というよりも、母親よりも年上の叔母さん達の姿に重なる。彼らは学校を出て、紡績に行って、得たお金を祖父母に渡してた。祖父母はそのお金を下の子供が学校へ行くのに使ったと思うし、祖父母自身が土地とか家を買うのにも使ったのではないかと思うし、もしかしたら一部は叔母さん達が結婚するためにも使ったかもしれないと思う。でも、鈴木さんは自分の事例を挙げる。鈴木さんのお父さんは、会社を経営していて家族のために働いていた。それがお父さんの生きがいだった。でも、息子の鈴木さんが大きくなったある時、息子と話してお父さんはこう言った。「お前はサラリーマンになって自分のために生きなさい」と。それで鈴木さんはお父さんの会社を継がずに、まずはサラリーマンになった。そして、鈴木さんは最新の連載でこう述べている。「カンヤダが自分のために生きる日がいつか来るのだろうか」と。それをふっと思い出して、「いつか、家族をみんな安心して暮らせる安全圏に引き出すことができて、そうして安全に自分が外に出てこれる時ができたら、その時は自分のために生きなさい。みんな、あなたが家族のためにどれだけ尽くしてきたかは知っている。お母さんがどれだけ娘を自分の側に引き留めておくために、不当な中傷を仕掛けて来ようとも、この世には直接お金に換算できないことはいくらでもあるんだから。」と言われた気がして。まあ、そういう時がもし来ればね、というか、そういう時が来れば、お金に換算できることは全部蛇の兄さんの担当だから、と思うわけで-;。兄さんのことまで書く余裕がなくなってしまったのですが、食事の用意ができたので、今日はここまで、ということでー;。(っていうか、医療行為をすれば、それは本当は直接お金に換算できるはずのことなんざんすよ? 誰も正当な診療報酬を支払ってくれないだけでさ(泣)?)