風と共に去りぬ

でもって、親から「風と共に去りぬ」は、我が家にとって「良い作品」なのか、「悪い作品」なのか、と聞かれたわけで。「?」というか、だって、あれって奴隷差別の話でしょ? ってとっさに思ったわけで。

で、家に帰って調べてみたわけですが。マーガレット・ミッチェルが「風と共に去りぬ」を出版したのは昭和11年、1936年のこと、映画化されたのはその3年後の1939年、昭和14年であることが分かったわけで。「風と共に去りぬ」は、南北戦争前後のアメリカ南部が舞台の話で、大地主の娘であったスカーレットが、戦争を経て、家が没落しても尚、たくましさを失わずに家と財産を復興する話なわけだけれども、女性としての性格が悪すぎるので、夫に捨てられてしまう話でもある。物語の中で、北軍の兵士は女性をむやみとレイプするような悪魔のように描かれる。この映画は戦後の日本で公開されて、戦後の復興を目指す日本の人達の目に、南部の復興を目指すスカーレットの姿が重なるように仕向けられていた。しかし、スカーレットが愛していた「古く良き南部」とは、奴隷制度が横行し、南部の農園には必ずといって良いほど、色白で父親が誰ともしれない赤ん坊を抱えた若い黒人奴隷の娘がいたところである。ほとんどの農園の女主人は、そんな子供がいることも知らなければ、気にするそぶりもない、という態度であって、子供の父親が誰なのか不審がるそぶりもなかった。言わずと知れたことだが、それは子供の父親が女主人の夫であったり、息子であったりすることを示すわけで。まず、その点だけで、それは女性差別であり、妻である女性を侮辱する行為ではないのか? そもそもキリスト教社会とは一夫一妻のはずなのだから、それは「神の教え」とやらにもそむく行為のはずである。そういうものを懐かしむスカーレットとは、奴隷差別、女性差別を肯定する差別主義者ではないのか? そもそも、「戦後の復興」ということをテーマにするのであれば、古今東西、戦争というものは山ほどあり、そこから作ろうと思う物語もいくらでもあるはず。それにも関わらず、女性差別、奴隷差別、人種差別の意識が非常に強い「風と共に去りぬ」が、なぜ戦後の日本に送り込まれてきたのか? そもそも女性差別とは何なのか? お母さんは戦後の日本は女性にも選挙権が与えられた、と言った。制度の上辺だけが平等になれば、それで「差別がなくなった」ことになるのか? そうではない、牡牛信仰の悪魔達が、「女性は家畜以下の存在で、用がなくなればいつでも殺して良い存在」と思い続ける限り、女性差別も奴隷差別も人種差別もなくなることはない、と言える。上辺では選挙制度は改革され、女性差別はなくなったかのように見える。しかし、その一方で差別意識の塊のような「風と共に去りぬ」が送り込まれてきて、人々に差別主義はさも良いことのような洗脳が続けられている。それでは、差別がなくなった社会、とはいえない。それはお母さんが子供の頃に見た、「ベニスの商人」の紙芝居と同じ事だ。そういうものを見せられ続けて、女性差別や人種差別が、さも当たり前のことのように思い込まされ続けられるだけだ。「風と共に去りぬ」は昭和11年に出版された物語だ。お母さんが子供の頃に見た「ベニスの商人」と同じく、誰を標的としたものだと思うのか? だからこそ、あなたの家はその悪質さを知っていなければいけないのだ。あれは、お母さんに差別主義の思想を植え付けるために作られた物語だ、ってそう言われるわけで。そして、話は私にうつるわけだけれども、あなたも「赤毛のアン」や「大草原の小さな家」を読んだ。「アン」の中にもユダヤ人の行商人を差別する表現が出てくるし、「大草原」のローラの母親は、アメリカ先住民を露骨に差別する女性だった。それを読んであなたはどう思ったか? それはただ「そういう時代だったから」とそう思ったけれども、それが「人種差別」であることは見逃さず、それが当たり前のことだとも思わなかった。しかし、こう考えたらどうか。その物語達は読む人に「人種差別」の意識を植え付けるために意図的にそう書かれたものである。そうすると、書いた作者、すなわちルーシー・モード・モンゴメリ-、ローラ・インガルス・ワイルダー自身が差別主義者であったことになる。特にローラ・インガルス・ワイルダーについては、その人は割と子供時代を美化して、自分に都合の悪いことは本に書かなかった人である。そういう人が、差別的表現を当たり前のように書いたということは、それが「都合の悪いこと」とすら思っていなかった差別主義者だったということではないのか? だから、あなたの家ではその二つの作品を置いておいてはいけないのです。何故なら、それは差別主義の本だから、と言われるわけで。

しかも、最近の「奴隷制」の話題と言えば、テレビの影響で「住んでいる家」の話ばかりだが、そもそも「奴隷」とは、生殺与奪の権限を主人に握られた家畜も同然の存在である。いつ殺されても文句は言えないし、殺されることに理由もいらない。また、南部の農園領主の素行の悪さからかんがみれば、幼い子供が性的虐待の対象とされることも希ではなかったかもしれないし、そういう子供が成長して邪魔になれば、あっさりと殺されて片付けられてしまうような、そういう世界であったかもしれない。「奴隷である」とは、そういうことなわけだが、住んでいる場所だけを取り上げて、自分の子供の頃が奴隷小屋よりも惨めな場所であれば、それだけで奴隷の立場にあった人達よりも自分の方が惨めであったと言えるのか? 自分自身が、幼い頃に誰かの性的虐待の対象にされたことはあったか? また自分の身の周りに、地主に何の理由もなく殺されて、文句も言えずにはいつくばっていただけの人はいたのか? 「地面にはいつくばって生きる」というのは文字通りそういうことを言うのであって、そうでないものはどんなに苦労をしても「はいつくばって生きる」
という範疇には入らない、とそういうことだ。そんな目に誰も合わされずに生きてこれた、ということは、いくら貧しくてもそれだけ「守られていた」ということだが、それには気が付けない。

 

それは何故か? それは、テレビというもの、メディアというものの弊害のせいだ。最近見たテレビでは、「奴隷小屋」のことしか流さなかった。だから、それを見てものを思う人は2種類しかいない。「奴隷小屋」意外に、当時の奴隷の置かれていた状況を悟って、目の前で見ているものだけでなく、総合的に彼らの立場を理解して思いやれる人と、目の前に見えているものしか見えていなくて、そのことしか考えられない人と。たいていの「大衆」に属する人は、目の前に見えているものしか見えない。だから、宮崎監督はいつも警告してきた。「アニメなんてろくでもないものだ」と。アニメを見たら、それを見たら子供は楽しいかもしれないし、面白いかもしれない。でも、イメージは固定され、それ以外のものが見えにくく、考えにくくなる。テレビも同様で、真面目な番組であろうが、ふざけたものであろうが、見れば一見したところは「いろんな世界」が見えるような気がするかもしれない。でも真実は逆で、イメージは固定され、視野は狭まり、見れば見るほど人はものを自分で考えたり、「察する」ということができなくなり、見せられたもののことしか頭の中になくなって、「真実とは何か」ということから目をそらすようになる。だから、「千と千尋」のお父さんとお母さんは「豚」として描かれる。お父さんは、文字通り目の前に並べられたものを、良いものか悪いものかを考えずに食べるだけの豚だ。お母さんの方は、自分の目の前にあるものが何を意味するのかも考えずに、ただ見えているものしか見ない。その視野の狭さが「豚」として表現されている。豚は、目の前に見えているものの意味など考えずに、それが食べられるものであれば食べるだけだし、食べることに必死なだけだから。お母さんは今でもテレビを見れば、それが何を意味するのか、自分が何を見せられているのか、真実は何なのか、ということは考えない。見て、面白ければ面白い、面白くなければ面白くない、それだけのそういう視野の狭さがどうしても抜けない。物語の中の千尋は、何の力もない子供で、経済力すら持ってはいない。しかし、彼女は、状況の不審さから見て「食べてはいけない」ものをとっさに察する力を持っていたし、慣れない世界で事態を打開するために頑張り続けた。彼女なりに、そこで出逢う人々を理解し、彼らの立場を察して、両親を救おうとした。そうしていた千尋は「生きることに必死」ではなかったのか? それでもない、周囲の人々や世界を彼女なりに理解しようとする視野の広さは失わなかったし、顔ナシですら差別の対象にしようとはしなかった。人が人として生きていくのに必要なことは、そういう視野の広さを持って、自分がどんなに惨めな状況になっても、他人対する理解を怠らないこと、自分自身が差別主義者にならない、ということなのではないのか? なぜなら、差別主義者になる、ということが敵に迎合する、ということだから、である。と、言われるわけで。

要するに、戦前の日本とは、「女性差別」というものがあるように見えて、そういう思想を持つ人達もいたけれども、それでも全体としては家庭の中での女性の地位は高く、「姑」というものはなんだかんだいって威張っていたし、夫が死んだからといって、一緒に死ぬことを強要されたりはしなかった。それはそれだけ社会の中で女性が守られていた証拠であり、差別が少ない社会であった証拠、ということで。上っ面だけの選挙権の有無とか、職場で誰がお茶を入れるのか、とか、そもそも女性が社会進出できているのか、とかいないのか、とかは真の差別とはほとんど関係のないことだ。真の女性差別とは、一見して女性が社会で華々しく活躍しているように見えても、実態は意味も無く女性というだけで、上司や同僚と性的な関係を強要されていたり、その逆に仕事のせいで結婚できずに独身のままで「女性」としては殺されてしまうことを意味するのではないのか。女性の役割が、性的な成熟と性交渉を経て、家庭という環境を持ち、子供を安全な環境で産む、ということまで含めれば、上司や同僚の性的なはけ口とされることもまた、「女性」としては殺されるのと同じことである。現代の真の「女性差別」とは、そういうもので、結局女性は、社会的に働いて終わるだけの道具にされる。投票権の有無とか、土俵に上がれるか上がれないのか、ということは、女性差別の本質とはほぼ関係のないこと、って言われるわけで。まあ、でも、現実にはそんなようなところが多いから、子供の出生率も低いままな気がするわけですが、我が家は特に標的になりやすいから、そういうことからは注意して身を守っていかなければいけない、ということで。視野を広く持つ、ということは、自分を守っていくために必要なことなのだと思うわけですが。

本日の日誌

昨夜は特に夢も見ず。本日も現場に出かけてせっせと土台の下を掘って。

でもって、分からないことが一つあるわけです。例えば、古代メソポタミアの古い時代の太母であるニンフルサグは山羊がトーテムであって、「山羊の太母」といえば「ニンフルサグ」という感じなのですが、もうちょっと時代が下ると、その辺りと周辺一帯に「豊穣の雄牛信仰」というものがはびこってきて、その象徴は天の牡牛座だと思うわけですが、牡牛座のことを「タウロス」というわけで。で、牡牛の姿をした神はあちこちにいて、モレクもそうですし、古代メソポタミアの神々の多くは、牛の角の生えた帽子を被っているので、彼らもまた「牛」といえる。だから、牛の神さまはあちこちで信仰されているけれども、一致した名前というものがないように見えるわけです。それは何故だろう? と思う。

また、モレクというのは、ギリシャではモイラのこと、と言われるわけで。モイラというのは、それほど神格の高い神ではないけれども、「人の運命を定める女神」とされていて、それなりに重要な女神であるわけです。でも、モレクが、人の子供の命を求めるような残虐な神であるのに対して、モイラはそれほど激しい残虐性は示さないので、ローマとギリシャなんて隣同士であるのに、同じ名前の神同士が、その性質の差はどうして生じるのだろう? と思う。古代におけるモレクの祭祀は、青銅の牡牛の神像を作り、内部に竃を作って、子供や家畜の初子をそこに入れて、オーブンで焼くように生きたまま焼き殺したわけです。で、もうちょっと時代が下ったシチリア島では、「ファラリスの雄牛」というものが発明されて、それは青銅の雄牛の像を作って、その内部に罪人を閉じ込めて、生きたまま焼き殺す処刑の道具だったわけです。子供を神に捧げる祭祀と、罪人を処刑する方法に連続性があって、そこに「牡牛の神」というものが大きく関係しているのです。そして、古代エジプトの初期王朝のレリーフには、黄泉の国の門番として「牡牛の神」が描かれているし、黄泉の国で牡牛が罪人を踏みつけている絵が描かれているのです。また、現代のスペインの闘牛にも見られるように、古代のクレタ島では、神に捧げる生贄、あるいは罪人を、興奮した牡牛と素手で戦わせて、人間が勝てば無罪放免、負ければ死、という制度があったわけで。こういう習慣は、後にローマで罪人を闘技場で猛獣と戦わせて、勝てば無罪放免、負ければ死、という制度に発展していったと思うわけで。何故、「牡牛の神」が豊穣の神であるけれども、処刑の神、死の神としての性質も強力なのだろうか、と思う。そうしたら、「牛を神と崇めるということは、牛の乳が子供を育てるのに重要であるほど、その性質が偉くなる傾向にある。すなわち、子供を育てるのに、母親の乳が必要とされない文化、女性が単なる「腹」であれば良いとされる文化であるほど、牛の重要性は高まる。要するに、牛を大切にする文化は、女性蔑視の文化だし、男系の文化だから。その中での牡牛信仰とは、男性の権力の象徴、差別主義の象徴、暴君の象徴となる。」って鈴木Pに言われる気がするわけで@@。要するに、人の命を喰らう牡牛とは、男系文化の象徴だし、他人の生殺与奪の権限を持つ者の象徴なんだ、と思うわけで。だから、母系の文化の「女神」となると、神としての地位も低下するし、重要な神ではあっても、人の命を欲するような暴君的神ではなくなる。母系の文化では、子供を育てるのは母親の乳であって、牛乳はあくまでも補助であるわけだから、そうなる。だから、牛を神サマとして大切にするところほど、女性差別が激しい文化であって、危険なんだよ、って言われる。そういうところは大抵「寡婦殉死」の制度とかがあって、夫が居なくなれば、妻も用済みで死ななければならなかったりするわけで。で、「牡牛」の神サマに名前がいろいろとあるかというと、一つには「タウロス系」の名前、すなわちトールとかテシュブとかの雷神の名前はタウロスからでたものであって。そして、モロクとかマールスですけれども、そもそも「モロク」は日本語で言うと、「モ」で始まるけれども、正確な発音は英語の「oウムラウト」すなわち、日本語だとアとオの中間の発音だから、日本人には場合によってモロクと聞こえたり、マロクと聞こえたりする、ということで。だから、ギリシャのモイラ、エジプトのマアトも同系統の神って言われるわけで。で、牛は「モー」って鳴くでしょ? だから、モロク系の名前は、牛の鳴き声からとったもの、って言われるわけで@@。「モーモー」と鳴く神サマだから、モロクなんだ? と思って-;。だから、名前は異なるけれども、モロクとタウロスは全く同じ神サマ、と言われるわけで-;。

でも、だったらモロクの名前は私でなくても、7番目の兄さんでも取れるのではないのですか? と思って。そうしたら、その人は「タウロス(牡牛)」系の名前は取れる。でも、「モロク」とは日本語で言う「魔王」のことなので、その名前は神の羽を持つ者には取れない。その名前を取れる者は、魂に悪魔のコウモリの羽を持つもののみ、って言われて。だって、「魔王」って「牛魔王」のことでしょ? 魔王って、牡牛の悪魔のことなんだよ、って言われるわけで@@。でも、私にしても牛肉が合わない人なので、本当の意味では「魔王」に相性が良いわけではない。だから、その名前を取るときだけ、「お金を払え」って言われるのは、そういう苦労をしなければ手に入らないものだから、って言われるわけでー;。もう、飛行機が飛んだりすると、「音源を買え」っていう督促かと思って、びくびくしてしまうわけですがー;。

本日の日誌

昨夜は特に夢も見ず。本日も現場に出かけて、せっせと土台の下を掘って。家の一番東側の土台の下からも、またまた大きな石が出て来て、本当に工務店との攻防が続くなあ、という感じであって。

で、古代の神の名前は、子供につける名前の中に残されていることが多いわけです。某ウィキペディアに、ローマの軍神マールスの名前から、マリウスという名前が派生したって書いてあって。マリウス君の名前もそこから貰ったんだ-、男の子だし「勇敢な子供になるように」とか、そういう意味を込めて名前をつけたんだろうな、と、そんなことをなんとなく思っていて。そうしたら、ジブリの映画のうち、「家に絶対に入れてはいけなかったものは何だと思うか?」と聞かれて。一つ目は「紅の豚」だ、って言われたので、「飛べない豚はただの豚、ですかー。」と思って。「紅の豚」とは、第1次世界大戦でイタリア空軍のパイロットとして活躍したポルコ・ロッソが、生き残ったことを恥じて豚になり、フリーのパイロットになった、という話なわけで。ポルコの好きな人は、ホテル・アドリアーノの女主人ジーナさんなわけだけれども、ジーナさんは戦争で戦死したポルコの親友の婚約者であったので、ポルコは自分の気持ちを打ち明けられずにいて。で、「ポルコ」という名前は「豚」の「ポーク」に引っかけてある名前だと思うのですが、彼が人間だったときの名前は「マルコ」というわけで。「マルコ」という人名は、モレクから派生したものだから、そういうものがたくさん認められる地域は、神話が残っていなくても、歴史的に何も記録がなくても、モレク信仰が盛んだった地域なんだよ、と言われるわけで。「豚のポルコってモレクのことだったんだー」と思って。それを褒め称えるような映画は家に入れてはいけないわけだ。ちなみに、ヒロインのジーナさんの名前は? って聞かれるわけで。ジーナとはギリシャ後でディオネという名前だと思う。すなわち、それはユーノーの変化した名前、ということで、私だ、と気が付いて。

で、もう一つは「ポニョ」だって言われる。「ポニョ」の方は、北欧神話を下敷きにしたものだけれども、「ニーベルンゲンの指輪」でしょ? ワーグナーは、音楽面からナチス・ドイツを精神的に支えた差別主義者だ。だから、ワーグナーに関わるものは家に入れてはいけない。クラシックの勉強をするなら、イタリアの音楽家の楽曲を勉強しても良いけれども、ワーグナーだけは駄目だ、って言われるわけで。その通りだと思うわけで。いくら、その音楽が美しくても、ワーグナーの精神は腐っているのだから。

で、家に帰ってからは「しやがれ」を見て。昨日、「上の者が下の者も悪口を言ってはいけない」って思っていたら、6番目の子が降臨してきて、「だって、いくらいけないって言われても亀の子と嫌いなんだもん。」と言ってメソメソ泣くわけで。「あらー、また泣いてるの。」と思って、「どうしてなんだろう?」と思ったら、他の兄さん達から「今日は土曜日だから」って言われるわけで-;。もう、私が亀の子のドラマを見ると思っただけで、嫌すぎて落ち込んで、「しやがれを見てね」って言う元気も出ないらしくて-;。

そして、その「しやがれ」の方は、明石家さんまがゲストだったわけですが。この人は、しばらく見ないうちに人相がより悪くなった気がするわけで。そして、残りの5人は、なんだかけっこうな「目の力」を使って見ているなあ、と思って。焼きもち焼きの子も、けっこうシビアな「目の力」を使っていた気がするのですが。なるべく、敵の「目の力」がこちらに及ばないように頑張ってくれてますよねえ、と思って。今日はそんな一日だったのでした。

本日の日誌

昨夜は特に夢も見ず。本日も現場に出かけたわけですが、途中で事故があって、長々と車を停められそうになって。幸い迂回路にとっとと入って、抜けてしまったから良かったけれども、でなければいつまで待たされて、その間にどんな悪さをされたか知れたモノではない、と思うわけで。

で、音楽家の兄さんに、「私の愛は『嵐が丘』のヒースクリフの愛と同じです。」ってカミングアウトされて、声も出ないというか、40年も前から、それが言いたかったんですかね? ってむしろそう思うわけで-;。しかも、7番目の兄さんから「情にほだされて、そちらに心を動かされ過ぎないように。」って思い切り釘をさされるわけで。音楽家の兄さんは、余所の部族の人なので、蛇の目の兄さん達から警戒警報が出る、というか、「婿が20人近くもいるのに、今更女心をそっちに持って行かれたら、それこそ全員の『男としての魅力』がない、って言われたも同然。」って言う人が多いわけで-;。

で、最近ジブリの鈴木プロデューサーが某女性週刊誌で連載を始めて、確か「南の国のカンヤダ」というタイトルでもって。カンヤダというのは鈴木さんがタイで知り合った若い女性であって、縁結びに縁のある鈴木さんが、その人に良縁をもたらした、という話なのだと思うわけですが。タイの女性であるので、日本人とはちょっとかけ離れた考え方を持っている、というかそういうことが割と淡々と語られるわけですが。でも、一番のミソは、タイトルそのものであって、「カンヤダ」=「(ばっちい)カンがヤダ」って意味でしょう? と思うわけで。ジブリの人達の何が好きって、そういうベタベタに分かりやすいネーミングセンスそのものが割と好き、と思うわけで-;。今日は割と鈴木さんとおしゃべりしていた気がするわけで。わりといろんな話をしたわけですが、主なことは2つ。

1つは、何故私が「人の悪口を言う」ということを嫌うのか、ということ。まず、「事実は悪口では無い」という前提があっての話であって。だいたい、私が今まで働いてきた中で、「どこそこの上司が、こういうろくでもないことをした」って言ったら、それは「事実」であって「悪口」ではないのである。本当のことを言ったら、「悪口」だってとられる人はやっていることがそもそも悪いんでしょ? ということで。で、それ以外の要因としては、子供の頃に読んだ西欧の本の中に出て来た言葉があるわけで、「自分よりも立場が上の人の悪口は言っても良いけれども、下の人の悪口は言ってはいけない」ということで。上の立場の人は、それだけで立場が強いので、下の人からの批判を受けても、それが妥当だし、下が上の人を当たり前にできるのが「平等」だし「公平」なのだ、という考え方である。でもって、上の人は立場が強いのだから、それ以上に下の人を非難するようなことを言うのは、下の人を圧迫することになるので、それは「公平」でも「平等」でもなくて、「差別」であって、それが西欧の「騎士道」の考え方だ、ということで。それは人間の「公平さ」とか「平等」を述べる上で妥当な考え方だと思うので、正しいと思っていて。そして、職場でいろんなことを見聞きしたわけですが、どこの職場でも、一番上にいる人が一番威張っていて、で、どこの職場にも下の方に、上の人から悪口ばっかり言われる人がいて。そういう人は臨時雇いの人であったり、上の人の好意で特別に働かせて貰っている人であって、「俺が働かせてやっているんだから、悪口も中傷も言って当然」みたいな態度で、上の人は悪口を、もう面と向かって言ったりするわけ。で、言われた方は、立場が弱いから言われてもヘラヘラしているだけであって。で、その他大勢の人は、上の人にこびへつらって一緒になって、対象を馬鹿にしたりするようなことを平気で言ったりやったりするわけ。場合によってはその対象が、自分よりもはるか上の年齢の人であっても。だから、ろくに仕事もできないような若造が、上司にへつらって年配の先輩を馬鹿にしたりするわけだから、見ていて感じが良いわけがないし、そういう一連の行動は、職場の中での「階級」を象徴する行為であって、上司がむやみやたらに威張って、特に立場の弱い人の悪口を言いまくるのは、「自分が上の人間である」っていう示威行動以外の何者でもないので。職場の中で、たまたま地位が上だからって、人としては公平で平等なものでしょ。他人を貶めてまで、自分をえらそうに見せる必要なんてないし、そういうのを「差別」って言うのでしょ? と思うから、私はそういう行動に迎合したことはなかった。要するに、悪口を言い返すことのできない立場の相手を悪く言う人間は、「差別主義者」なんで。差別主義者が作ってる雑誌である某文春とかは面白いなんて思ったことないし、読みたいと思ったこともないし。それだけのことなわけで。だから、同族の人達からは、誰かさんについては、「そもそも実の親の育て方が悪すぎる」って言いわけされる。西欧の人達からは「『そういうつもりはなかった』って言いながら、差別主義な発言を止めずに繰り返すのが差別主義者」ってせせら笑われるだけ、ってそういうことなわけでー;。私が西欧の人達から、ある程度評価される点があるとすれば、差別主義的な発言をしない、そういう発言に迎合もしないし、思わない、特に自分の部下や夫達に対してなされたものについては、っていうそういう感性を評価されているのだと思うわけで-;。大久保なんとかという女は「ニノさん」で、二宮君と亀梨君に対して「楽屋に寝ただけの女はいませんか?」ってネタで突っ込んでいた。もし、彼らに「上司」と呼ぶべき立場の人がいるとするならば、すべきことは彼らと妻神との間を裂きかねないような発言をした者を咎めて、部下の二人の立場を守るべきなのではないのか? って誰でも普通に常識がある人であるならばそう言うであろうと思う。それに、一般的な話であっても、世間には人の悪口や中傷を言いふらして、世の中に騒動を起こすように煽るような輩は古今東西いくらでもあるし、成功した例もいくらでもあることだから。もし、私が、専制君主であったら、そうやって悪口を場所柄もわきまえずに言うような輩をどう扱いますか? と聞かれれば、「騒動を煽った罪で火あぶり」って言うと思う。まあ、私という人間は、そういうふうに育てられているわけだから。某文春なんかは、むしろそういう対象だよね、私にとってはね、ということで。

そして、もう一つは、ジブリの作品の中でも「ハウルの動く城」だけが家に入ることを許された理由を考えるように、って言われるわけで。「千と千尋」の方は「オルフェウスとエウリデュケ」ですよねえ? と思うわけで。そうすると「ハウル」は「アモールとプシュケ」だ、って言われるわけで。そして、ハウルというのは、「嵐が丘」と同じく、ともかくキリスト教社会から見れば「異教的」な作品であって。子供向けにかわいらしくしてはあるけれども、ハウルは火の悪魔と契約を結んで強大な魔力を得、人気のない山岳地帯を彷徨っている魔法使いだし。ソフィーも基本的には山国育ちで、海のある港町をとても珍しがる子だし。要するに、特にハウルの行動に関しては、それは「山岳地帯」の住民の行動を投影したものだし、西欧の山岳地帯に住まう「さまよえる魔法使い」がそのイメージの根底にあるわけで。そして、しかも宮崎監督のそもそも出世作といえば、テレビアニメの「アルプスの少女ハイジ」であるので。ジブリは、アニメ映画を作るのにイタリア製のソフトを使ったりしているし、イタリアとの縁が割と深いわけで。で、そして西欧の山岳地帯、特にアルプス周辺にも縁が深いわけで。彼らの背後にいるものは何か? と言われる。それは、カトリック教徒でもあって、そしてアルプス地方出身であって、そしてカトリック最大の「獅子身中の虫」ともいえるハプスブルグ家、ってつるつると出てくるわけで@@。その人達の報復心もすごいぞ、っていうか、まあ第二次世界大戦でオーストリア大公の地位を追われてしまったわけだから、面白いわけがないわけで。

でもって、ローマというのもそもそも他民族国家の多神教国家であって。主神は「天の神」ユーピテルであって、その配偶神は「天の女神」ユーノーである。でもって、ユーピテルの真の名前は「アン」であるし、ユーノーも「アン」であるので、それぞれに本名を隠した「天の神」の1対がローマの主神なのである。それだけでも、興味深いのだけれども、「ローマの母」とされる神は別にいて、それはウェスタである。ユーノーは「女性の結婚生活を支える女神」であるけれども、「母なる神」ではない。では、ローマの「父なる神」は誰なのか、家に帰って調べるように、って言われて。で、調べた結果、ローマ建国の父であるロームルスの父親とされているのは「マールス」という軍神であることが分かって。それで言われたことがある。「弥勒菩薩」はインドでは「マイトレイヤー」と呼ばれる。その前進は「ミトラス」である。その名前に「MT」の子音がつくことが特徴である。その信仰は朝鮮半島に入ってきて、「ムーダン」と呼ばれるようになった。ここでも「MT」の子音が残されている。では、日本では「弥勒」のことを何というのか? と聞かれて。日本では沖縄で「みるく」、本土で「みろく」と呼ばれて「MT」のうち「T」の子音が外されている。それは、朝鮮半島に達するまで残された子音であるのに。しかし、ローマの「マールス」に「T」の子音があるのか? と聞かれて。「マールス」とは何か? と聞かれる。それは地中海周辺地域特有の神で「モロク」とか「モレク」といった神々と同じ群に属する。要するに、朝鮮半島における「ムーダン」は「ミトラス信仰」だけれども、日本における「弥勒」はマイトレイヤーを起源とするのではなく、「ローマの父・マールス」を起源としたものであって、「弥勒」と漢字で書かれる紙の名前が日本において、意図的にミトラスとは違う神にすり替えられている、って言われるわけで。モロクって、初子食いのモロクでしょ? 人身御供の象徴みたいな悪魔の神のことでしょ? と思うわけで。「みろく」と名のつくものを信仰している人達は、モロクを信仰しているのだし、それはミトラスと異なる神だし、「36」という数字がなぜ危険なのか、これで分かっただろう? と言われるわけで。そして、ただ私に対して「その名に挑むか?」と問われた。その名に対して挑むのには、どうすれば良いのかは分かっている。イタリア製の「36」の数字のついた音源を家に入れること、だ。でも、何故私にその名前が取れるのです? と思う。私自身は人身御供を望む神ではないのに。そうしたら、坂井泉水ちゃんのことをただ持ち出された。彼女が生きている間、どんなに努力して頑張っても神を自覚させ「呼び戻す」ことはできなかった。そのために、彼女は疲弊し尽くし、結果死んだ。直接手を下していなくても、私が殺したも同然だ。でも、彼女の死によって、始めて私は激しい怒りに目覚め、自分が何者かを知らなくても、戦い方を知らなくても、戦う決意をした。人の命を犠牲にして喰らい尽くして、始めて神として覚醒したものは、望むと望まざるとに関わらず「モロク」の名を取る素質あり、と言われた。まあ、もう少しおこずかいを貯める余裕を下さい。人殺しにそんなことを言う余地が許されるのであれば、ということで。でもまあ、彼女のことを持ち出されれば、私はいずれは挑むであろう、と思う。彼女が命を賭けて尽くしてくれたことに対して、返礼することはそれしかできないのであれば。西欧の人達の述べるように、自分が支払える範囲でのお金でカタがつけられることであれば良かったのに。人の命はお金では買い戻せないものだから。と、今日はそんな一日だったのでした。

本日の日誌

昨夜は特に夢も見ず。本日も現場に出かけてせっせと土台の下を掘って。玄関下の西側の部分はだいたいが掘り終わって、あとは埋め戻すだけ、という感じにやっとなりつつあります。親が掘っている、一番東側の土台の下からは、大きなアスファルトの塊が次々と出て来て、まだ中身が尽きていないようで。そして、雨水の排水管の周辺にも、いつの間にか大きな石が埋め込まれていて。先週の段階の話では、今週中に石を取りに来る、ということだったのですが、その気配は結局なくて。帰り際に、西側の山のところに、すぐ消えてしまったけれども、大きな「V」の印の飛行機雲が出たのが印象的だったのでした。