本日の日誌

昨夜は特に夢も見ず。本日も現場に出かけてせっせと土台の下を掘って。

でもって、分からないことが一つあるわけです。例えば、古代メソポタミアの古い時代の太母であるニンフルサグは山羊がトーテムであって、「山羊の太母」といえば「ニンフルサグ」という感じなのですが、もうちょっと時代が下ると、その辺りと周辺一帯に「豊穣の雄牛信仰」というものがはびこってきて、その象徴は天の牡牛座だと思うわけですが、牡牛座のことを「タウロス」というわけで。で、牡牛の姿をした神はあちこちにいて、モレクもそうですし、古代メソポタミアの神々の多くは、牛の角の生えた帽子を被っているので、彼らもまた「牛」といえる。だから、牛の神さまはあちこちで信仰されているけれども、一致した名前というものがないように見えるわけです。それは何故だろう? と思う。

また、モレクというのは、ギリシャではモイラのこと、と言われるわけで。モイラというのは、それほど神格の高い神ではないけれども、「人の運命を定める女神」とされていて、それなりに重要な女神であるわけです。でも、モレクが、人の子供の命を求めるような残虐な神であるのに対して、モイラはそれほど激しい残虐性は示さないので、ローマとギリシャなんて隣同士であるのに、同じ名前の神同士が、その性質の差はどうして生じるのだろう? と思う。古代におけるモレクの祭祀は、青銅の牡牛の神像を作り、内部に竃を作って、子供や家畜の初子をそこに入れて、オーブンで焼くように生きたまま焼き殺したわけです。で、もうちょっと時代が下ったシチリア島では、「ファラリスの雄牛」というものが発明されて、それは青銅の雄牛の像を作って、その内部に罪人を閉じ込めて、生きたまま焼き殺す処刑の道具だったわけです。子供を神に捧げる祭祀と、罪人を処刑する方法に連続性があって、そこに「牡牛の神」というものが大きく関係しているのです。そして、古代エジプトの初期王朝のレリーフには、黄泉の国の門番として「牡牛の神」が描かれているし、黄泉の国で牡牛が罪人を踏みつけている絵が描かれているのです。また、現代のスペインの闘牛にも見られるように、古代のクレタ島では、神に捧げる生贄、あるいは罪人を、興奮した牡牛と素手で戦わせて、人間が勝てば無罪放免、負ければ死、という制度があったわけで。こういう習慣は、後にローマで罪人を闘技場で猛獣と戦わせて、勝てば無罪放免、負ければ死、という制度に発展していったと思うわけで。何故、「牡牛の神」が豊穣の神であるけれども、処刑の神、死の神としての性質も強力なのだろうか、と思う。そうしたら、「牛を神と崇めるということは、牛の乳が子供を育てるのに重要であるほど、その性質が偉くなる傾向にある。すなわち、子供を育てるのに、母親の乳が必要とされない文化、女性が単なる「腹」であれば良いとされる文化であるほど、牛の重要性は高まる。要するに、牛を大切にする文化は、女性蔑視の文化だし、男系の文化だから。その中での牡牛信仰とは、男性の権力の象徴、差別主義の象徴、暴君の象徴となる。」って鈴木Pに言われる気がするわけで@@。要するに、人の命を喰らう牡牛とは、男系文化の象徴だし、他人の生殺与奪の権限を持つ者の象徴なんだ、と思うわけで。だから、母系の文化の「女神」となると、神としての地位も低下するし、重要な神ではあっても、人の命を欲するような暴君的神ではなくなる。母系の文化では、子供を育てるのは母親の乳であって、牛乳はあくまでも補助であるわけだから、そうなる。だから、牛を神サマとして大切にするところほど、女性差別が激しい文化であって、危険なんだよ、って言われる。そういうところは大抵「寡婦殉死」の制度とかがあって、夫が居なくなれば、妻も用済みで死ななければならなかったりするわけで。で、「牡牛」の神サマに名前がいろいろとあるかというと、一つには「タウロス系」の名前、すなわちトールとかテシュブとかの雷神の名前はタウロスからでたものであって。そして、モロクとかマールスですけれども、そもそも「モロク」は日本語で言うと、「モ」で始まるけれども、正確な発音は英語の「oウムラウト」すなわち、日本語だとアとオの中間の発音だから、日本人には場合によってモロクと聞こえたり、マロクと聞こえたりする、ということで。だから、ギリシャのモイラ、エジプトのマアトも同系統の神って言われるわけで。で、牛は「モー」って鳴くでしょ? だから、モロク系の名前は、牛の鳴き声からとったもの、って言われるわけで@@。「モーモー」と鳴く神サマだから、モロクなんだ? と思って-;。だから、名前は異なるけれども、モロクとタウロスは全く同じ神サマ、と言われるわけで-;。

でも、だったらモロクの名前は私でなくても、7番目の兄さんでも取れるのではないのですか? と思って。そうしたら、その人は「タウロス(牡牛)」系の名前は取れる。でも、「モロク」とは日本語で言う「魔王」のことなので、その名前は神の羽を持つ者には取れない。その名前を取れる者は、魂に悪魔のコウモリの羽を持つもののみ、って言われて。だって、「魔王」って「牛魔王」のことでしょ? 魔王って、牡牛の悪魔のことなんだよ、って言われるわけで@@。でも、私にしても牛肉が合わない人なので、本当の意味では「魔王」に相性が良いわけではない。だから、その名前を取るときだけ、「お金を払え」って言われるのは、そういう苦労をしなければ手に入らないものだから、って言われるわけでー;。もう、飛行機が飛んだりすると、「音源を買え」っていう督促かと思って、びくびくしてしまうわけですがー;。

本日の日誌

昨夜は特に夢も見ず。本日も現場に出かけて、せっせと土台の下を掘って。家の一番東側の土台の下からも、またまた大きな石が出て来て、本当に工務店との攻防が続くなあ、という感じであって。

で、古代の神の名前は、子供につける名前の中に残されていることが多いわけです。某ウィキペディアに、ローマの軍神マールスの名前から、マリウスという名前が派生したって書いてあって。マリウス君の名前もそこから貰ったんだ-、男の子だし「勇敢な子供になるように」とか、そういう意味を込めて名前をつけたんだろうな、と、そんなことをなんとなく思っていて。そうしたら、ジブリの映画のうち、「家に絶対に入れてはいけなかったものは何だと思うか?」と聞かれて。一つ目は「紅の豚」だ、って言われたので、「飛べない豚はただの豚、ですかー。」と思って。「紅の豚」とは、第1次世界大戦でイタリア空軍のパイロットとして活躍したポルコ・ロッソが、生き残ったことを恥じて豚になり、フリーのパイロットになった、という話なわけで。ポルコの好きな人は、ホテル・アドリアーノの女主人ジーナさんなわけだけれども、ジーナさんは戦争で戦死したポルコの親友の婚約者であったので、ポルコは自分の気持ちを打ち明けられずにいて。で、「ポルコ」という名前は「豚」の「ポーク」に引っかけてある名前だと思うのですが、彼が人間だったときの名前は「マルコ」というわけで。「マルコ」という人名は、モレクから派生したものだから、そういうものがたくさん認められる地域は、神話が残っていなくても、歴史的に何も記録がなくても、モレク信仰が盛んだった地域なんだよ、と言われるわけで。「豚のポルコってモレクのことだったんだー」と思って。それを褒め称えるような映画は家に入れてはいけないわけだ。ちなみに、ヒロインのジーナさんの名前は? って聞かれるわけで。ジーナとはギリシャ後でディオネという名前だと思う。すなわち、それはユーノーの変化した名前、ということで、私だ、と気が付いて。

で、もう一つは「ポニョ」だって言われる。「ポニョ」の方は、北欧神話を下敷きにしたものだけれども、「ニーベルンゲンの指輪」でしょ? ワーグナーは、音楽面からナチス・ドイツを精神的に支えた差別主義者だ。だから、ワーグナーに関わるものは家に入れてはいけない。クラシックの勉強をするなら、イタリアの音楽家の楽曲を勉強しても良いけれども、ワーグナーだけは駄目だ、って言われるわけで。その通りだと思うわけで。いくら、その音楽が美しくても、ワーグナーの精神は腐っているのだから。

で、家に帰ってからは「しやがれ」を見て。昨日、「上の者が下の者も悪口を言ってはいけない」って思っていたら、6番目の子が降臨してきて、「だって、いくらいけないって言われても亀の子と嫌いなんだもん。」と言ってメソメソ泣くわけで。「あらー、また泣いてるの。」と思って、「どうしてなんだろう?」と思ったら、他の兄さん達から「今日は土曜日だから」って言われるわけで-;。もう、私が亀の子のドラマを見ると思っただけで、嫌すぎて落ち込んで、「しやがれを見てね」って言う元気も出ないらしくて-;。

そして、その「しやがれ」の方は、明石家さんまがゲストだったわけですが。この人は、しばらく見ないうちに人相がより悪くなった気がするわけで。そして、残りの5人は、なんだかけっこうな「目の力」を使って見ているなあ、と思って。焼きもち焼きの子も、けっこうシビアな「目の力」を使っていた気がするのですが。なるべく、敵の「目の力」がこちらに及ばないように頑張ってくれてますよねえ、と思って。今日はそんな一日だったのでした。