昨夜は特に夢も見ず。本日も現場に出かけたわけですが、途中で事故があって、長々と車を停められそうになって。幸い迂回路にとっとと入って、抜けてしまったから良かったけれども、でなければいつまで待たされて、その間にどんな悪さをされたか知れたモノではない、と思うわけで。
で、音楽家の兄さんに、「私の愛は『嵐が丘』のヒースクリフの愛と同じです。」ってカミングアウトされて、声も出ないというか、40年も前から、それが言いたかったんですかね? ってむしろそう思うわけで-;。しかも、7番目の兄さんから「情にほだされて、そちらに心を動かされ過ぎないように。」って思い切り釘をさされるわけで。音楽家の兄さんは、余所の部族の人なので、蛇の目の兄さん達から警戒警報が出る、というか、「婿が20人近くもいるのに、今更女心をそっちに持って行かれたら、それこそ全員の『男としての魅力』がない、って言われたも同然。」って言う人が多いわけで-;。
で、最近ジブリの鈴木プロデューサーが某女性週刊誌で連載を始めて、確か「南の国のカンヤダ」というタイトルでもって。カンヤダというのは鈴木さんがタイで知り合った若い女性であって、縁結びに縁のある鈴木さんが、その人に良縁をもたらした、という話なのだと思うわけですが。タイの女性であるので、日本人とはちょっとかけ離れた考え方を持っている、というかそういうことが割と淡々と語られるわけですが。でも、一番のミソは、タイトルそのものであって、「カンヤダ」=「(ばっちい)カンがヤダ」って意味でしょう? と思うわけで。ジブリの人達の何が好きって、そういうベタベタに分かりやすいネーミングセンスそのものが割と好き、と思うわけで-;。今日は割と鈴木さんとおしゃべりしていた気がするわけで。わりといろんな話をしたわけですが、主なことは2つ。
1つは、何故私が「人の悪口を言う」ということを嫌うのか、ということ。まず、「事実は悪口では無い」という前提があっての話であって。だいたい、私が今まで働いてきた中で、「どこそこの上司が、こういうろくでもないことをした」って言ったら、それは「事実」であって「悪口」ではないのである。本当のことを言ったら、「悪口」だってとられる人はやっていることがそもそも悪いんでしょ? ということで。で、それ以外の要因としては、子供の頃に読んだ西欧の本の中に出て来た言葉があるわけで、「自分よりも立場が上の人の悪口は言っても良いけれども、下の人の悪口は言ってはいけない」ということで。上の立場の人は、それだけで立場が強いので、下の人からの批判を受けても、それが妥当だし、下が上の人を当たり前にできるのが「平等」だし「公平」なのだ、という考え方である。でもって、上の人は立場が強いのだから、それ以上に下の人を非難するようなことを言うのは、下の人を圧迫することになるので、それは「公平」でも「平等」でもなくて、「差別」であって、それが西欧の「騎士道」の考え方だ、ということで。それは人間の「公平さ」とか「平等」を述べる上で妥当な考え方だと思うので、正しいと思っていて。そして、職場でいろんなことを見聞きしたわけですが、どこの職場でも、一番上にいる人が一番威張っていて、で、どこの職場にも下の方に、上の人から悪口ばっかり言われる人がいて。そういう人は臨時雇いの人であったり、上の人の好意で特別に働かせて貰っている人であって、「俺が働かせてやっているんだから、悪口も中傷も言って当然」みたいな態度で、上の人は悪口を、もう面と向かって言ったりするわけ。で、言われた方は、立場が弱いから言われてもヘラヘラしているだけであって。で、その他大勢の人は、上の人にこびへつらって一緒になって、対象を馬鹿にしたりするようなことを平気で言ったりやったりするわけ。場合によってはその対象が、自分よりもはるか上の年齢の人であっても。だから、ろくに仕事もできないような若造が、上司にへつらって年配の先輩を馬鹿にしたりするわけだから、見ていて感じが良いわけがないし、そういう一連の行動は、職場の中での「階級」を象徴する行為であって、上司がむやみやたらに威張って、特に立場の弱い人の悪口を言いまくるのは、「自分が上の人間である」っていう示威行動以外の何者でもないので。職場の中で、たまたま地位が上だからって、人としては公平で平等なものでしょ。他人を貶めてまで、自分をえらそうに見せる必要なんてないし、そういうのを「差別」って言うのでしょ? と思うから、私はそういう行動に迎合したことはなかった。要するに、悪口を言い返すことのできない立場の相手を悪く言う人間は、「差別主義者」なんで。差別主義者が作ってる雑誌である某文春とかは面白いなんて思ったことないし、読みたいと思ったこともないし。それだけのことなわけで。だから、同族の人達からは、誰かさんについては、「そもそも実の親の育て方が悪すぎる」って言いわけされる。西欧の人達からは「『そういうつもりはなかった』って言いながら、差別主義な発言を止めずに繰り返すのが差別主義者」ってせせら笑われるだけ、ってそういうことなわけでー;。私が西欧の人達から、ある程度評価される点があるとすれば、差別主義的な発言をしない、そういう発言に迎合もしないし、思わない、特に自分の部下や夫達に対してなされたものについては、っていうそういう感性を評価されているのだと思うわけで-;。大久保なんとかという女は「ニノさん」で、二宮君と亀梨君に対して「楽屋に寝ただけの女はいませんか?」ってネタで突っ込んでいた。もし、彼らに「上司」と呼ぶべき立場の人がいるとするならば、すべきことは彼らと妻神との間を裂きかねないような発言をした者を咎めて、部下の二人の立場を守るべきなのではないのか? って誰でも普通に常識がある人であるならばそう言うであろうと思う。それに、一般的な話であっても、世間には人の悪口や中傷を言いふらして、世の中に騒動を起こすように煽るような輩は古今東西いくらでもあるし、成功した例もいくらでもあることだから。もし、私が、専制君主であったら、そうやって悪口を場所柄もわきまえずに言うような輩をどう扱いますか? と聞かれれば、「騒動を煽った罪で火あぶり」って言うと思う。まあ、私という人間は、そういうふうに育てられているわけだから。某文春なんかは、むしろそういう対象だよね、私にとってはね、ということで。
そして、もう一つは、ジブリの作品の中でも「ハウルの動く城」だけが家に入ることを許された理由を考えるように、って言われるわけで。「千と千尋」の方は「オルフェウスとエウリデュケ」ですよねえ? と思うわけで。そうすると「ハウル」は「アモールとプシュケ」だ、って言われるわけで。そして、ハウルというのは、「嵐が丘」と同じく、ともかくキリスト教社会から見れば「異教的」な作品であって。子供向けにかわいらしくしてはあるけれども、ハウルは火の悪魔と契約を結んで強大な魔力を得、人気のない山岳地帯を彷徨っている魔法使いだし。ソフィーも基本的には山国育ちで、海のある港町をとても珍しがる子だし。要するに、特にハウルの行動に関しては、それは「山岳地帯」の住民の行動を投影したものだし、西欧の山岳地帯に住まう「さまよえる魔法使い」がそのイメージの根底にあるわけで。そして、しかも宮崎監督のそもそも出世作といえば、テレビアニメの「アルプスの少女ハイジ」であるので。ジブリは、アニメ映画を作るのにイタリア製のソフトを使ったりしているし、イタリアとの縁が割と深いわけで。で、そして西欧の山岳地帯、特にアルプス周辺にも縁が深いわけで。彼らの背後にいるものは何か? と言われる。それは、カトリック教徒でもあって、そしてアルプス地方出身であって、そしてカトリック最大の「獅子身中の虫」ともいえるハプスブルグ家、ってつるつると出てくるわけで@@。その人達の報復心もすごいぞ、っていうか、まあ第二次世界大戦でオーストリア大公の地位を追われてしまったわけだから、面白いわけがないわけで。
でもって、ローマというのもそもそも他民族国家の多神教国家であって。主神は「天の神」ユーピテルであって、その配偶神は「天の女神」ユーノーである。でもって、ユーピテルの真の名前は「アン」であるし、ユーノーも「アン」であるので、それぞれに本名を隠した「天の神」の1対がローマの主神なのである。それだけでも、興味深いのだけれども、「ローマの母」とされる神は別にいて、それはウェスタである。ユーノーは「女性の結婚生活を支える女神」であるけれども、「母なる神」ではない。では、ローマの「父なる神」は誰なのか、家に帰って調べるように、って言われて。で、調べた結果、ローマ建国の父であるロームルスの父親とされているのは「マールス」という軍神であることが分かって。それで言われたことがある。「弥勒菩薩」はインドでは「マイトレイヤー」と呼ばれる。その前進は「ミトラス」である。その名前に「MT」の子音がつくことが特徴である。その信仰は朝鮮半島に入ってきて、「ムーダン」と呼ばれるようになった。ここでも「MT」の子音が残されている。では、日本では「弥勒」のことを何というのか? と聞かれて。日本では沖縄で「みるく」、本土で「みろく」と呼ばれて「MT」のうち「T」の子音が外されている。それは、朝鮮半島に達するまで残された子音であるのに。しかし、ローマの「マールス」に「T」の子音があるのか? と聞かれて。「マールス」とは何か? と聞かれる。それは地中海周辺地域特有の神で「モロク」とか「モレク」といった神々と同じ群に属する。要するに、朝鮮半島における「ムーダン」は「ミトラス信仰」だけれども、日本における「弥勒」はマイトレイヤーを起源とするのではなく、「ローマの父・マールス」を起源としたものであって、「弥勒」と漢字で書かれる紙の名前が日本において、意図的にミトラスとは違う神にすり替えられている、って言われるわけで。モロクって、初子食いのモロクでしょ? 人身御供の象徴みたいな悪魔の神のことでしょ? と思うわけで。「みろく」と名のつくものを信仰している人達は、モロクを信仰しているのだし、それはミトラスと異なる神だし、「36」という数字がなぜ危険なのか、これで分かっただろう? と言われるわけで。そして、ただ私に対して「その名に挑むか?」と問われた。その名に対して挑むのには、どうすれば良いのかは分かっている。イタリア製の「36」の数字のついた音源を家に入れること、だ。でも、何故私にその名前が取れるのです? と思う。私自身は人身御供を望む神ではないのに。そうしたら、坂井泉水ちゃんのことをただ持ち出された。彼女が生きている間、どんなに努力して頑張っても神を自覚させ「呼び戻す」ことはできなかった。そのために、彼女は疲弊し尽くし、結果死んだ。直接手を下していなくても、私が殺したも同然だ。でも、彼女の死によって、始めて私は激しい怒りに目覚め、自分が何者かを知らなくても、戦い方を知らなくても、戦う決意をした。人の命を犠牲にして喰らい尽くして、始めて神として覚醒したものは、望むと望まざるとに関わらず「モロク」の名を取る素質あり、と言われた。まあ、もう少しおこずかいを貯める余裕を下さい。人殺しにそんなことを言う余地が許されるのであれば、ということで。でもまあ、彼女のことを持ち出されれば、私はいずれは挑むであろう、と思う。彼女が命を賭けて尽くしてくれたことに対して、返礼することはそれしかできないのであれば。西欧の人達の述べるように、自分が支払える範囲でのお金でカタがつけられることであれば良かったのに。人の命はお金では買い戻せないものだから。と、今日はそんな一日だったのでした。