それから、「育ちが悪すぎる」という件についてですが、ともかく誰でもそうだと思うわけですが、「子供の頃貧しくて嫌だった」というのは、それは良いわけですが、でも「子供が貧しいのは、そもそも当人の責任ではなくて、親の責任だよね?」って言われる気がするわけで。つきつめて言えば、「祖父の甲斐性がなかったから」ということに尽きる気がするわけで。だいたい、どんな理由にしても、板前の修業をしていたのなら、自分で店を持つような一人前になるなり、大きな料亭の板長になるなり、料理人として切磋琢磨して励む道もあったのに、「人に頭を下げる商売はいや」って言って、田舎で小作人をやる道を選んだのは自分じゃん、それなのに「地主は金持ちで威張っている嫌な奴で、水飲み小作人は惨めなもの」だなんて、子供に言って育てること自体間違ってる。当時は、生家も貧しくて、当人も職がなくて、それこそ満蒙開拓団に行くか、飢え死にするかってそういう人だって大勢いたのに、そうならずに生き延びてこれたのに、まるで土地を貸して生きることを手助けしてやってた地主が「悪者」だって言ってるじゃん。それが親が子供に言って聞かせて育てることか? しかも、「内地で乞食をしても満州には行きたくない」って、実際に自分がそういう選択を迫られたわけでもないのに、そういう選択を迫られるしかなかった人の気持ちも考えず、自分の置かれた立場に感謝の気持ちが、そもそも祖父母に全くなし、って言われる気がするわけで。だいたい、土地を貸してくれている地主の悪口しか言わない、ろくでもない小作人に土地を貸していた「悪者」の地主ってどこの誰さ? うちの母親の元の実家の隣の家の人? って思うわけですが。祖父の行状を聞く限りでは、自分の愛人の着物を妻子に平気で着せるような恥知らずだし、そうやって付き合っていた人を平気で捨てるような恥知らずだし、まあ、「道徳家」って言えるような人ではなかった、って孫としては思うのですけれどもねえ? と思うわけで。ともかく、私に対して「見識ある人物」を求めるなら、そもそもなんで親をそういう風に育てなかったのさ? って抗議したら、「関」ってそんな漢字のつくところから、そういう「言い分」が上がってきたらしくてー;。そちらはそちらで「責任のなすりつけあい」ですか? と思うわけで-;。
だいたい、うちの親の「実家」というものの見方は、「ローラ・インガルス・ワイルダー」みたい、って言われる気がするわけで。この人は「大草原の小さな家」という事実に基づいた話を書いた人で。アメリカの西部開拓時代に、開拓農民の娘とした生まれたローラが一家で、西部に入植して開拓していく姿を書いたもので。小さな家族が仲むつまじく、苦労を共にしながら開拓を進めていく話なわけですが。でも、この物語の興味深いところは、「事実は何だったのか」という「解説」と併せて読むと、いろんなことが「見えてくる」という点であって。ローラの父親は東部の、おそらく裕福な農民の出であって、両親揃ってそれなりに教育を受けた人達であって。で、成長した父親は、自分自身が農場の経営者として成功することを夢見て、西部の開拓農民となったわけですが、ともかく旅をすることがけっこう好きであって、「新しい土地が開拓地として開放された」って聞くと、そこに行ってみたくてたまらなくなってしまう人であったので、一家はわりと放浪生活を繰り返していたし、その結果農場の経営に大成功することもなく、ずっと貧しいままであって。娘のローラは、そんな家に育ったので、15歳で教師の資格を取って働かなければならず、学校の成績は優秀であったけれども、最終的に「学校を卒業した」という学歴を持つこともできずに結婚してしまった人で(当時のアメリカは学校を卒業していなくても、教師の資格はそれとは別に、試験に合格すれば取れたわけで、教師の足りない西部では、そうやって教師をまかなっていて。)。教師の資格を取った、といっても、まだ15歳であるので、下宿先の女将さんにその立場を嫉妬されて、夜も眠れないような暴言を受けたり、自分よりも年上の教え子に虐められたり、逆に言い寄られたり、ってそういう苦労をした人で。彼女がそんな苦労をした一番の原因は、父親が放浪癖の強い甲斐性なしであったからに他ならないわけですが、「大草原の小さな家」に出てくる「父親」の像は、家族思いの「良き父親」なわけで。(しかも、母親の方は、先住民の顔を見ただけで、露骨にいやな顔をするような「差別主義者」であって。)とっても、ローラの両親は、社会的に見て「理想的で立派な人達」であったようには見えないし、周囲の人達もそう思っていたと思うのですが、「大草原の小さな家」の中の「小さなローラ」にとっては、彼らは相当に「理想的な両親」であったわけで。なんというか、そもそも「身内」を見る目に「身びいき」と言うしかない強力なフィルターがかかっていて、きちんとした評価ができていない、って言われる気がするわけで;;。
まあ、じじばばはもう死んじゃってる人達なので、どんな人達だっていい、といえる。「蛙の目」の親戚一同が、苦情申し立てをしてくるのであれば、それを非難するほど、私自身は「身びいき」が強い人ではないつもり。でも、親の「人を見る目」、特に「婿選び」のときの「見る目」で、一番目の子を選んだ原因は、相葉君を選んだのと同様で、「大人しくて人の良さそうな人」とか、そんな感じであるのでしょ? と思うわけです。それが困るんだ-。結局みんなが思うことは、私がそれなりに「目が見える」し、「耳が聞こえる」状態であれば、兄さん達の写真を見ただけでお互いに意思疎通ができるはず、兄さん達が普段そうしているように、って言われる気がするわけで。でも、私はそこまでできないし、かろうじてできるのは蛇の兄さんとか、7番目の兄さんだけとであって、それもみんなが「充分」と考えるほどではない、ということのようで。互いに離れていても、充分な意思疎通ができれば、私が兄さん達と遠く離れた須坂とかに暮らしていても問題ない。でも、意思疎通が不十分であれば、兄さん達の身近に置いて、直接言ったり、見せたりして意思疎通をしなければ、充分に守り切れない、私は同族の声が聞こえにくいし、電気のハットの件にしても、身近に来ていた同族の小蛙君ではどうしても伝えることができず、結局伝えたのは優馬君と「少年倶楽部」のご一同様が人海戦術で伝えてきたことだから、「どちらの声が聞こえやすいかは、その一件で明白」って誰でも思っている、ということで。「頼りない、とか大人しい人が好き」という「人の見方」は、娘を危険にさらすだけ。「婿」としては、甲斐性があって、娘を守っていける人物をきちんと見分けて選ぶべきだし、そういう「人を見る目」を養うべき、ってみんな思うだろうな、と思って。ともかく、みんな遊んでいるわけではないので、目の前で見ている人は、「できの悪くて、人が良さそうなのが好感を持てる」なんて言ってないで、「最低限の基準として、任された仕事がきちんとできる人物は誰なのか。」っていう見方くらいはして欲しい、ってそれはそうなるのだと思うんですが。(でも、紅白の相葉ちゃんと架純ちゃんは、いわば「報復人事」、すなわち声もろくに届かないくせに、太陽女神を囲い込もうとする「蛙の人達」に対する報復行為でもあるし、示威行動でもあるでしょ、って言われる気がするわけでー;。だいたい、仕事の内容も量が多くて大変なうえに、6番目の子や7番目の子から「目の力」で威嚇されるんだから、1oo点満点の仕事なんかできるはずもないわけで。相葉君にはものすごく申し訳ないと思うわけですが、そうやって「任された仕事もできない人物を選ぶのか」、それとも「任された仕事を果たせる人物を選ぶのか」って私たちに聞いているも同然、ということで。そこで甲斐性なしの方が「感じがいい」って言ったら、甲斐性なしを選んだ私たちがしなくても良い苦労をするだけ、ってそう言いたいんでしょ? って、そういうことだと思う訳なのですが。だいたい、娘の結婚相手だから自分は関係ない、なんてそれも変ですよ。それこそ、どの叔母さんだって、みんな甲斐性なしの婿を大事にして面倒みてるじゃん、って、それこそ世の中っていうのは、そういうものなんじゃん? って思うのですが。自分が面倒をみなきゃならない甲斐性なしより、自分の面倒をみてくれる甲斐性がある人の方が、まだマシってくらいの考えは、親だって持って当然だと思うわけです。「自分の面倒は自分で見れる」なんてとんでもないですよ? なんかあった時に「どの(名前の)医者にかかれば良いのか」も自分では分からないのに。お金があれば、自分の面倒は見れる、んじゃなくて、きちんとした人脈があってこそです。それがなければ、お金だけあっても敵に食い物にされるだけなのが、世の中なわけです。(というか、まともな「人を見る目」がなくて、甲斐性なしの優男タイプが好きなのは、それもファザコンですか? って思うわけですが-;。))
そして、なんとなく思い出したわけですが、昨日の「SmaSTATION!?」のゲストは反町君であって。開口一番「クレジットカードを渡す夢を送るなんて、情緒もへったくれもないけれども、女の人には大きな効果がありますよね。」って言われた気がするわけで-;。まあ、誰でも情緒だけでは生きていけませんのでねえ? と思ったのですが。おそらく、裏山に住んでいる人達は、親以上に音楽家の兄さんのことは好きではないと思います。でも、その人の声は、同族の声よりも良く届くんだ-、と思うわけで。アフリカ系のシャーマンからは、私の「目」はマリウス君に近いって言われた気がするわけですが、「それよりも音楽家の兄さんの方が近い気がする」って見立ての人もけっこういるわけで。結局、いざというときに重要なのは、「より声が届く人」になっちゃうんだよね、どうしてもね、ってそう思うわけです。