「SONGLINE」を見る。でもって、親と話すとどうも誤解があるようなので、結局一番大事なのは、「敵(とみなした者)をけなすこと、そして味方を誉めること」って、もう1回良く話をしたわけで。だいたい、それが西洋の「魔術」というか、「言葉の使い方」の大原則なわけです。奴隷制だってそうだけれども、誰だって自分が奴隷にされてこき使われたら嫌だと思うと思う。それが当たり前だ、って思うわけで。でも、かつての西洋人の理論に寄れば、「白人は優れているのだし、黒人は劣っているのだし、優れている人が劣っている人を奴隷にするのは当たり前だし、そうやって優れている人が劣っている人を導くのは良いこと。」ってそんな感じであって。大まかに「白人=良い人(優れている行為)」、「黒人=劣っている人(けなす行為)」って決めつけて、奴隷制や人種差別を正当化するわけで。そういう作業の処理は「言葉」を使ってなされるわけで、事実はどうだ、とか、本当はこう思っている、とかと全然関係がなくて、ただ他人を奴隷にすることを正当化するために「言葉」を使っているわけで、それを「魔術」とか「魔法」と呼ぶわけです。でも、実際にそういう魔法がかかると、他人をただでこき使って、こき使う方が、誉められるようなことになるわけだから、それこそまさに「魔法」と呼ぶしかないわけで。西欧の人達はそういう「言葉の使い方」にたけていすぎるし、なにせ良くも悪くも、「そういう言葉の使い方ができて一人前」という社会であって、それが西欧人がこれほどまでに世界中にはびこって繁栄している理由であるわけで。もちろん西欧の人の中にも、そうやって他人をけなしたり、騙したりするようなことは良くない、と思う人はいるわけですが、自分自身を守るためにも、こういう言葉の「使い方」は誰でも心得ていないといけないし、そうやって言葉を「使う」訓練とか努力はしないといけない、ってそういうことなわけで。で、一方敵は、こういうろくでもない「言葉の使い方」をよくよく研究していて、どうやったら標的を陥れられるのか、どう言ったら自分達に有利に物事を運べるのか、ってそれしか考えていないし、研究してこなかったし、その結果中世の魔女狩りとか、ナチスドイツのユダヤ人虐殺とか、現実に「なんでそんなことが?」っていようなことを次々としでかしてきてるわけで。そういうことは、ある日突然起こったことではなくて、「言葉」というものをいろいろと駆使して、積み上げてその結果で起きていることなわけだから。その手法を学んで見抜いたり、かわしたりしていかないといけないわけです。でもって、出来得れば対抗していかなければならないわけですが、そこまで行かなくても、「敵を誉めるようなこと」は、その場しのぎの社交辞令ででも言うのでない限り、うかつに言ってはいけないわけです。何故なら、まず自分自身がそう言っている自分の「言霊」の魔法に巻き込まれちゃうし、そんなんでは負けてしまうので、敵に対しては、あら探ししても、落ち度が何もなくても、努力してけなすくらいでないと駄目、ということで。そうやって、敵をきちんと「敵」としてみなすように、まず自分自身に言葉の魔法をかけていかないといけないわけです。そうしないと必要な用心もできないから。
でも、そうやって、標的を言葉で陥れて、自分だけが勝ち残るような、そういう言葉の使い方ができる人、そういう「魔術師」でも、敵に敵対できる人なら期待を寄せる人が多い、ということで。だいたい、そもそもそういう「西洋魔術」を根本的に確立したのがアリストテレースという人なので。その言霊の使い方を、心得ている者で、かつ西欧人ではない私と6番目の子に期待を寄せる「外の人」は多いわけで。裏山の衆なんかは、「言っておくけど「魔術」というのは悪魔の所業だから。」って言って嫌がるわけですがー;。神サマが悪魔を倒すんじゃなくて、むしろ毒をもって毒を制す、ってそんな感じなんだよねえ? 現状はねえ? と思うわけで-;。
でもって、私がおむすびに拘っている、とかそういう誤解がまだあるわけですが-;。拘っているのは私ではなくて、兄さん達の方であって、兄さん達の方が、「気」を強める「良い食べ物」を、一番敵と向き合って戦わなければならない私に与えないことを嫌がるわけで。でも、お昼に普通のご飯は食べられないのですよ-、食べるには1時間はかかるし、その後休まないといけないし、とても作業する時間が削られてしまうし、職人が来るときには彼らに合わせた早いペースでは、どうしてもご飯が食べられないわけで。普通にお弁当でも、もうちょっとなんとか食べやすい形にしてくれれば、ご飯でもいけると思うけれども、今のままでは食べる時間が取れない。とても無理、と思うわけで。おむすびで何とかベストの形を保ってきてこれてただけに、兄さん達が無念に感じるのも仕方のないことだとは思うわけですが。まあ、職人が来るときだけでも何とかして貰う? って思うのがせいぜいであって。パンはまずいです。そして、胃もたれがします。家で、食べ過ぎて具合が悪くなっているようなところに、食事のしわよせが行かないで、私にしわよせが来ることは、とても兄さん達は納得できないであろうと思うけれども。まあ、おむすびくらい自分で作ってみる? としか言えないわけで-;。まあ、親に対しては、兄さん達のことを無視してくれても構わないわけですが、でも私が言っていることは、私が言っていることではなくて、兄さん達が言っていることで、物事はなんでも兄さん達に相談して決めなければならないし、それが「人様に迷惑をかけないこと」だということを、認識してくれれば、それで良いだけなわけです。今までそうやってここまでやってこれたのだし、そこのところで、妙な誤解をしさえしてくれなければ良いだけだから。そして、私たちを何とか助けようと命を削って努力しているのは、兄さん達なのだと、それを分かってくれていれば良いだけだから、ってそれだけのことなわけです。兄さんたちがそうやって、自分の貞節や評判を投げ打って犠牲にした結果である「スキャンダル」を批判の対象にするような、そういう幼い真似を私たちはしてはならない、ってそれだけのことなわけです。何故なら、自分勝手な妄想の中に生きていても、人に迷惑をかけるだけだし、そうしないためには、現実というものをもっと客観的に、ありのままに見れるようになる以外にないし、それができないおかしな例が身近によくよくあるわけだから、そんな風になってはいけない、ってそういうことなわけで。
で、今日昼寝をしていて、なんだか夢を見て。自分が男の子で、なんだか4人兄弟の3番目で(上から兄、姉、自分、弟であって)、新しい家を建てて引っ越しをして、他の兄弟が何をしているのか見に行ったら、一番上の兄は部屋にお風呂があって、緑色のゼリーみたいな入浴剤をお風呂に入れて入っていて、弟の様子を見に行ったらいなくて?、親に聞いたら「親戚の家に泊まりに行った」って言われる、っていうちょっと脈絡のない夢で。目が覚めたら、ふっと「現場にお父さんとお母さんと3人で来て、お父さんとお母さんで病院へ行けばいいんだよ。」って言われて。そっかー、それが兄さん達の答えなんだー、って思って。兄さん達には、いずれ私がそこを離れればそうなるんだから、今のうちからそういうことに慣れておくべき、って言われる気がするわけで。親に一応、「私が東京に行ってしまえば、そうするしかないんだし。」とは言っておいて、言った瞬間に7番目の兄さんから「良く出来ました」って言われた気がするわけで。私自身も兄さん達のことを信じる言霊を使っていかなければいけないんだな、とは思うわけですが、でもそういう自分自身が半信半疑なわけで-;。本当に自分が東京に行く日が来るのだろうか? と思う。で、そう思ったら、蛇の兄さんが降臨してきて、私の頭を引っぱたいて「今日は誰の誕生日なのか忘れないように。」って言うわけで@@。それで、今日が兄さんの誕生日だって思い出して、「お誕生日、おめでとうございます。」と思ったわけですが。
でもって、「SONGLINE」。アフリカ系の人達からは、最後に「We see you again.」って言われて。「今度は現実の世界で会いましょう。」って言われた気がするわけで。そもそも、古代イスラエルの人々はエジプトから出て来たのだし、エジプトはアフリカにあるので、アフリカ系の人達の声は良く届く人が多いんだよ、って言われる気がするわけで@@。現実の世界で会えるかどうかは、兄さん達次第でしょう? 交通費は当然その人達が出すのだし、と思うわけで。そして、朝方なんとなく、長崎の特集で、長崎の境界で「残響」を歌う福山君の画像を見ていたわけで。福山君のバックには、カトリックの祭壇があったわけで、祭壇の中央には「X」と「P」を組み合わせたローマンカトリック特有の紋章が描いてあって。そして、その両側に「α」と「Ω」の文字があって。それは「始め」と「終わり」という意味、というか、その3つの組み合わせは、古代エジプトのネイト信仰そのものじゃん、いったいどこが「イエス・キリスト」なのさ? って思ったわけで。だいたい、英語で「夜(night)」の名前を持つネイト女神とは何者? って改めて思って。そうしたら、ネイトの「N」はメソポタミアで「女神」という意味、「T」は古代エジプトで「女神」という意味、すなわちその神はメソポタミアとエジプトの両方にまたがって「女神」としか呼ばれない神なわけですが、夜の太母ネイトというのは、深夜帯の神ソルのこと、すなわちメソポタミアのヘバト、北欧のソルと同じモノ、って言われる気がするわけで@@。古代エジプトにおいて、「一日」というのは、日の出に始まって、日の入りに終わるものであったわけです。だから、「夜」というものは時間的には存在するものなわけだけれども、それは「人の一日」には属さない「人外の時間」であって、人々は夜の闇の中で狩りをするネイト女神の矢に当たらないように、屋内に籠もっていなければならなかった、って言われる気がするわけで。「女神の矢」って何? って思いましたら、それは「流れ星」のこと、すなわち地上まで到達すれば「隕石」のこと、って言われる気がするわけで@@。だから、ネイト女神というのは、夜の闇の中で、相手が人でも狩りをする悪魔の女神であって、そうやって力を得て、次の日の「夜明け」を生み出す存在であった、ということのようで。だから、特別な祭りの時には、人々は一晩中子飼いに明かりをともして、「今は夜ではない」って示していたわけで。だいたい、最初の製鉄というのは、鉄の含有量の多い「隕鉄」を使って始まったんだから、「隕鉄の女神」であるヘバト(エジプト的にはネイト)が、主神とした崇められるようになった、って言われる気がするわけで。それはそもそも深夜帯の人外の時間の狩人の神だったんだ? と思うわけで。まさに「熊神」なのかも、と思ったわけですがー;。だいたい、その祭壇を見ただけでローマン・カトリックの本性なんて見て取れるわけですが、それとは別に蛇の兄さんが守りたいものは「ネイト」の名を持つ女神である、とそう言われた気がして。そういうことなんだな、と思ったわけですが-;。