でもって、誰かさんの「子供」問題に関しては、完璧主義の女王姉妹から、6番目の子の方にも、「父親役を引き受けるからには、育児書の1冊や2冊読んでおくように」という要請がいっているらしくて-;。6番目の子は、「その人達との信頼関係は築いておく必要がある」という理由で律儀にお勉強しているらしくて-;。守達神は、「なんだかんだ言って、引き受けたことに対しては律儀に細かい気を使うところがいいところで、好き」って言っていた気がするわけで。でもって、6番目の子が読んで理解できない部分は、4番目の子に質問がいく、ということで、結局その二人が育児書を読む羽目になっているらしくてー;。育児書って、現実にそぐわないこともいくらでもあるけど、読んでおくとけっこう役にたつものだし、って既婚者の兄さん達は言っている気がするわけですがー;。すみませんねえ、全くのところ、と思うわけで-;。
で、蛇の兄さんの問題よりも、興味深いのは、10月からの月9で、JUMPの涼介君が主役を務めるということですが、そのドラマの内容が、「エデンの東」の翻案であるらしい、というニュースがしばらく前に出回っていて。「エデンの東」というのは、アメリカの文豪スタインベックが原作で、「カインとアベル」を元にした物語で、主人公の兄弟の名前は「アロンとカレブ」というらしくて。名前の子音からいえば、カインとアロン、アベルとカレブが対になるわけで。で、そもそもの旧約の「カインとアベル」といえば、兄のカインが弟のアベルを殺した、という話なわけで、その神話的起源はヒッタイトの、クマルビ神話(父親のクマルビ神と息子神のテシュブが争う、という神話)にあることは登場人物の名前から明らかなわけで。でもって、クマルビ神話では、クマルビは息子神のテシュブに倒される、ヘブライの神話では兄のカインが弟のアベルを倒す、となって内容の勝者が逆転しているわけで。で、「エデンの東」では、弟のカレブが兄のアロンを陥れるわけで、聖書の話を元にしながら、兄と弟の役割が入れ替わっているわけです。なんで、スタインベックは、兄と弟を入れ替える話を書いたんだろう? というのが疑問の第1点。
で、今度の月9は、蓋を開けてみたら、タイトルがそのまんま「カインとアベル」ということで、「エデンの東」のことは省略されているわけですが、内容を見ていると、弟が兄に嫉妬するというような話らしくて、内容的には旧約よりも「エデンの東」に近い気がするわけで。それなのに、なんでわざわざタイトルを「カインとアベル」にするの? と思うのが第2点目ということで。なんだか複雑怪奇な事情がありそうなのですが。それで、「エデンの東」の原作者であるスタインベックは、何故兄と弟が逆転する物語を書いたのだろう? と思って。それで、彼の写真を探し出して、その「目」を見て見たわけですが。その「目」には知的な光が宿ってきて、理性のある人の「目」に見えるわけで。スタインベックは、味方の人であったので、名前の子音に関するヒントを残し、「正しい神話」を残そうとして、「エデンの東」を書いた人って言われる気がするわけで。倒されるべきは、アベルではなく、兄のカインの方だ、とそういうことらしいのですが。なぜなら、アベルは鉄器時代の神の「象徴」とされる名前だし、カインは青銅器時代の神の「象徴」だから、ということで。味方にとっては、それこそが「正しい神話」なわけで。
でもって、ここまで分かった時に、7番目の子から「ルーシー・モード・モンゴメリの写真をもう1回探してみるように。今なら、彼女がいずれかの組織に属している人物なのか分かるはず。」って言われる気がするわけで。そうして、探してみましたが、彼女の写真を見たら、そういえば「赤毛のアン」の作者のモンゴメリも赤ん坊の頃に母親を亡くして、「実母の愛」に飢えていた人だったな、と思い出して。彼女は長じて、良き妻になり、良き母になったと言われている、というか「良き母」になったことは事実なわけですが、妻としてはどうかねえ? っていろんな人に言われる気がするわけで。作家となったモンゴメリは祖父母に育てられて、それほど裕福な家庭に育ったわけではないわけですが、でも親戚一同には名士が多く、「お金持ち」というよりは「知識階級」に育った人であって。彼女自身も貧しくとも、受けられる範囲の教育は貪欲に受ける努力をした人であって、それが作家としての成功に結びついているわけですが。でも、そういう知的な階級の出の人だから、貧しくても普通に貧しい庶民階級の人達とは、自分は違う、みたいなそういう微妙な階級意識は持っていた人であって。自分自身の知的な階級に見合う財産は常に欲していた人かもしれない、と今なら思うわけですが。まあ、それはともかくとして、彼女は若かりし頃に、本当の庶民階級、農民階級の青年と激しい恋におち、でも、結局自分のプライドが許さなくて結婚をせず、その結果相手は失意のうちに病死した、ということがあるわけで。で、その後年上の牧師(これもまた裕福ではないけれども、知的な階級の職業ではあるわけで、「妻」となるプライド的には満足できた相手、ということで)と結婚するわけですが、旦那は結婚後何年かして、うつ病を発症して、妻は一生をその世話で苦労した、となるわけですが。でも、モンゴメリの作品には、「年上の男となんか結婚するんじゃなかった」みたいな思想がプンプンするわけですし、だいたい最初に付き合った男は、自殺も同然の病死、旦那はうつ病を発症なんて、どういう女性だったんですかね、モンゴメリは? って今更ながらに突っ込まれる気がするわけで@@。私が思うに、それは父親の一番上の兄の奥さんみたいな人だったんじゃないのか、と思うわけで-;。それは、一緒に暮らす男性はみんななにがしかの病気になりそうな人格の女性だ-、と思ったわけですがー;。彼女の写真を改めて見て、どこか夢見るような「目」を見て思うことは、その人もかつては「ディアーヌ」の名前を持っていたこと。そして、彼女の作品には「現実」というものに対する否定感や逃避感が詰め込まれていて、読んだ人は現実に絶望感を持っていればいるほど、その中に引き込まれるし、そうして現実から目をそらして、「あの世」にばかり憧れるようになる、彼女の作品群とはそういうもの、って言われる気がするわけで@@。そういえば、モンゴメリの代表作は「赤毛のアン」であって、これだけなぜか特に有名なわけですが、彼女の書いた小説はかなりたくさんあって、その作品群が邦訳されて、「モンゴメリ全集」が刊行されはじめたのは、私が大学に入ってからだったな、と思って。それもまた、私が標的だったのだろうか? と思ったのですが。
でもって、本日も再び役所に出かけて。8月末にKAT-TUNのDVDを買って、次に嵐とKinKi-KidsのDVdを買って。24時間テレビがあって。みんな、この1ヶ月、集中してよく頑張ってくれたなー、と思うわけで。不思議なことですけれども、7番目の子が全力を傾けると、その人の言葉はわりと良く私の「耳」に届く気がするわけで。ウルトラフェスの時に、終始にこやかだった光一君のことや、なんだか嬉しそうだった福山君のこととか、絶望に満ちた表情をしているように見えたポルノのアキヒトのこととか思い出したのですが。エフライムの王家からは、天照大神を最終的に岩戸から引き出した天手力男神(アメノタヂカラオ)の名前は誰が相応しいと思うか、と聞かれて。それはやはり、7番目の子、と思うわけで。そのことを忘れないように、って言われた気がするのですが。
でもって、福山君がゲストの時に限って、いろいろな小道具を繰り出す黒柳徹子であって。なんだか今回は髪の中から、金と銀の面がある扇を取りだしていたわけですが。親がそのことをちょっと気にしていたので、どういう意味があるのかなあ? と思って。ローマ的に金と銀って言ったら、金(大陽のウェスタ)、銀(月のディアーヌ)ってことだよねえ? と思うわけで。ウェスタとディアーヌの力関係が変化して、その2つがローマの手からエフライムの王家の手に移ったと言うこと? となんとなく思ったのですが、よく分からないわけで。
で、そもそも「大国主命」とはなんだと思うのか? と聞かれる気がするわけで。「大国主命」という呼び方そのものは、「大きな国を支配している」とかそういう意味であって、名前というか固有名詞ではないと思うわけで。でも、神話の内容と人の移動の流れから考えれば、大国主命とは、高句麗の朱蒙神話の朱蒙(チュモン)、扶余の神話の東明聖王のことだと思うわけで。朱蒙(チュモン)とは何か? と聞かれれば、それは中国東北部で活動していた、北方に由来する遊牧騎馬民達の神であり、祖神でもあるものであって、西方から来たエフライムの王家や、山東省に本拠地を置いていた斎の王族が彼らとも同盟を結んだので、遊牧民の神話も出雲系の人々の神話に採用されているのだと思うわけで。そうすると、子音からいって、朱蒙(チュモン)というのは、ドゥムジのことだよ、って言われる気がするわけで@@。羊飼いのドゥムジ、遊牧民の神ドゥムジですか? と思うわけで。それに非常に近い名前にギリシャ後のアドーニスとか、ヘブライ語のアドナイ(「主」という意味)があるわけで。特に古代イスラエルの人々は、神の固有名詞として神聖四字と呼ばれる「HWHY」の子音を残しているわけですが、神の名を直接唱えることはせずに、一般名詞のアドナイ(主)、とかエロヒム(神)と呼んでいたわけで、それがすっかり定着してしまったので、「HWHY」を元々なんと呼んでいたのかが分からなくなってしまった、と言われているわけで。でも、「HWHY」もアドナイもエロヒムも、意味は同じかもしれないですけれども、みんな子音は異なるわけで、元々は別々の神を指す言葉だったわけです。それが、なんでこうやって一つの「神」をさす固有名詞になったり、一般名詞になったりするんだろう? と思って。そして、各部族の「祖神」というと、なんというか半分人間というか、超人的な人、みたいなイメージがあるわけですが、「一神教の神」というと、ものすごく観念的で、霊的で、実態がなくて、性別すらも曖昧なモノ、みたいなイメージがあるわけで、なんでそんな風になってしまうんだろう? とも思うわけで。古代エジプト的に、羊頭神のクヌムとか、蛙女神のヘケトとか、そういう神々の方が、現実にはあり得なくても具体的なイメージが掴みやすいのに?? と思うわけで。でも、そう思うと、要するに一神教というのは「同盟の成果」だから、って言われる気がするわけで。例えば、多くの部族が同盟を結んで、古代ギリシャ的に、主神のゼウスがいて、その妻神がいて、その兄弟姉妹の神々や子神達がいる、っていう「大家族」的な構成の多神教を形成する際には、有力な部族の神が上位に来ることになるので、ゼウスを要する部族が、同盟者達の中で一番優位に来る、ということになるわけで、それぞれの部族間の立場が対等でも平等でもなくなる、って言われる気がするわけで。でも、どんな神を擁する部族でも、それぞれの神々の立場は同じく等しいもの、とすると、それは各部族が互いに対等であり、平等であることを示すことになるので、「あらゆる神々は同じく一つの神である」とは、そういうこと、って言われる気がするわけで@@。だから、12支族的には、本来は最低でも1部族に1つの祖神として、12柱の神々を擁していて当然だったわけですが、それらをみんな「同じモノ」とすることで、互いの立場を公平かつ平等にしているし、本来は男神を擁する人達も、女神を擁する人達も「神」というものを同じものとして纏めてしまっているから、それで一神教の「神」というものは、抽象的で曖昧なものになる、って言われる気がするわけで@@。だから、男神を擁する部族の人々にとっては、「HWHT」は男神だし、女神を擁する人々にとっては「HWHT」は女神であって矛盾しないものって言われる気がするわけで@@。本来的な一神教とは、そういうものらしいのですが。だから、いろいろな才能を持っていて、多くの神々の名前を貰える人ほど、一神教の「神」に近くなるけれども、そうすると本来の姿がぼやけてくることになる。私にしても、本来は昼間の豊穣と農耕の「太陽女神」のはずなのに、深夜帯の神の名による技も得意だし、って言われる気がするわけで-;。だから、大国主命の本来の名前は朱蒙(チュモン)だし、その名前を辿っていくと、それはヘブライ語のアドナイにたどり着く言葉であるので、王家が「大国主命」を祖神とする神話を採用したのは、それが彼らの本来のアドナイ(主)にたどり着く言葉だから、って言われる気がするわけで。でも、エフライムの王家の人達は、古代イスラエルの中では北の方に住んでいたし、アナト信仰がけっこう強固ですよねえ?? と思うわけで。彼らが表向き、アドナイ(主)と呼ぶモノは、アナトかつアナーヒタであるものなのでは?? と思ったのですが。出雲族を構成する多くの部族間での公平と平等を維持するためには、大国主命とアナーヒタ女神は「同じモノ」であって構わないんだ? と思うわけで。それもなんだか不思議な気もするのですが。そういうものらしいですー;。