本日の日誌

本日はあちこちの「お役所」に行く必要があったので、出かけてきて。で、「現場」に行ってきたら、あちこちに赤いかわらけのかけらがたくさん埋まっていて。

昨日、鼎ってなんで3本足なんだろう? と思っていろいろと調べてみたのですが、西欧のグンデストルップの大釜(おそらく、祭祀用の大釜)なんかには足はついていないわけで、そしてなにがしかの儀式に使用して、壊したり修理したり? という形跡があるわけで。どうも、釜に足が3本ついているのは、陰陽思想で偶数が陰数(不吉な数)ということらしいのですが。でも、足がついていることには意味があると思うわけで。で、遊牧民の古い時代の鍋を調べてみますと、それは鍑(ふく)というもので、足はあったりなかったりするのですが、腹部に獣の文様が彫ってあったり、縁に鹿がついていたりして。要するに、それは肉を煮たり焼いたりするものでもあるし、中から食べられる肉が出てくるものなのだから、そもそも「獣」を模したものでもあるし、祭祀用のものは「太陽」を模している(太陽は火の塊であり、先祖の獣であり、食物の象徴だから)のだと思うわけで。古い時代の遊牧民の象徴は「豚」ですので、結局東洋の「黄帝」として、一番相応しいのは、「三本足の豚」なんだろうな、と思うわけで。それで、家の敷地の中に大量に埋まっている「赤いかわらけ」は、大国主命を焼き殺した「赤い猪」(元は土器であった鼎)のことなんだろうな、と思うわけで。要は私に「死んでしまえ」ということなのね、と思って。

で、何故か隣との境界のフェンスをやり直すのに、基礎だけ残しておけ、という電話が朝からあって。で、そのことを証書に残したい、とかって言われて。なんで、そんなことしなきゃいけないのさ? と思ったわけですが、私の方はそんな馬鹿なことをするわけない、と思っていたら、親がそうは言わずに「相談してみる」とかって言ってびっくりしてしまって@@。しかも、工務店の方からは、隣と話し合って決めろ、みたいに言われてしまって。だいたい、工事のお願いに行った時には、何も文句を言われなかったし、条件もつけられなかったのに、急にそんなことを言われると言うのは、非常に奇妙だと感じるわけで。こちらと、どういう工事をするのかの打ち合わせもできていない内から、隣に勝手にいろいろとしゃべっておいて、相手の文句を伝言みたいに言ってくるなんて、いったい誰から金を貰うつもりなのか、と思って、それもびっくりしたわけで。

で、最初相手の真意が分からず、親といろいろと話したのですが、要するに「土留め」の問題だということに気が付いて。でも、元々は土留めなんかもなかった土地ですし、段差と言ってもたいした差はないわけで(ほんの2,3cm)。軽くコンクリートの障壁みたいなものを置けばそれでいいよねえ? と思ったら、親が何を考えたのか、その上にフェンスを置けばいい、って言い出して。そんな簡単な土留めの上に、フェンスを立てても保つのか? って聞いたら、保つわけがないし、簡単な土留めでは傾くから駄目、とかって言い出して。だって、段差なんてたいしたことないわけですし、なんで家の基礎を作るような大げさな土留めを作ってわざわざ東側を重くして鉄筋なんかを入れなければいけないのか、さっぱり分からないわけで。どうも、親は土留めと、フェンスの基礎をあくまでも一緒にしなければ、と思っていて、フェンスは沓石で、土留めは土留めで別にやる、ということが頭に浮かばなかったようで。だって、東側にそんな重いものを入れては駄目でしょうに、って思うわけで。お墓でもどこでも、今まで散々痛い思いをしてきたのに、なんで? って思って。けっこうショックだったのですが。でも、結局最後には境界にフェンスを建てて、こちら側に土留めを作ったら、修復も簡単だろうし、ということになって。ともかく、敵と打ち合わせをするというのは良いのですが、こちらの方針を決めておかないと、どこで足下をすくわれるのか分からないわけですし。そして、昼寝をしていたら、土留めとフェンスは十字にしないように、って言われて。こんなに速攻で、声や夢が届くと言うことも珍しいぞ、と思ったのですが@@。これも、新大陸から来た豚さんの効力なのだろうか、と思ったのですが。新大陸というのは、他の大陸と長い間隔絶されていたので、人の生贄の習慣が非常に後世まで残されていたところであって。今もカトリックの影響が強い土地ではあるのですが、先住民の文化も色濃く残されているわけで。

で、家に帰ってきてから、「THE MUSIC DAY」の録画を少し見て。渡辺美里ちゃんの「My Revolution」を見て、そういえばこの日の主役は7番目の子だけではなくて、美里ちゃんも言われてたことを思いだして-;。だいたい、話は朋ちゃんが活動を再開した際に、あちこちの音楽の特番で小室を従えて、かつての自分のヒット曲を披露したことに遡るわけで。というか、その話にはもっと昔に遡る因縁があるわけで。朋ちゃんが体調不良で活動休止していた際に、小室が妻のKEIKOと歌番組に出て、「自分が作った曲」ということで、朋ちゃんの持ち歌をこれみよがしにKEIKOに唄わせて、それを見た朋ちゃんが、「あまりにも思いやりがなくて酷い。」と言って泣き崩れたという話があるわけで-;。でも、KEIKOが脳梗塞で倒れて、なんだかおかしなことに巻き込まれてお金がなくなって、ともかく働かなければならなくなったTKは、globeの持ち歌も忘れてしまったKEIKOと組んでお金を稼ぐわけにもいかず、朋ちゃんが活動再開する際に、朋ちゃんと一緒にお仕事する羽目になった、ということで。朋ちゃんが、TKと付き合っていた頃のことを、わりとあちこちでしゃっべった歩いたりしたので、「元彼商法」とかって割と叩かれたりしたわけですが、でも、TKの方だってビジネスとして稼がせて貰っているんだから、そっちはそっちで「元カノ商法」じゃんねえ? と思うわけで、朋ちゃんが昔みたいにTKをこれ見よがしに従えてお歌を唄っても、自分の持ち歌だけじゃなくてglobeの持ち歌を歌っても、その程度の報復なんてかわいいもんじゃんねえ? と思うあたくしはあたくしで、割といろんな人から「執念深すぎる」って言われていた気がするわけで-;。だって、「恋愛は自由」とかそんなこと言って、女の子をポイ捨てするような男は駄目だし、何年後に報復されても文句言えないでしょ、って思うったら思うんだもの、って思うわけで-;。そういう私にいろいろと言ってくるのは、朋ちゃんだけだけではなくて、美里ちゃんもご同様、ということで。

でもって、数日前に行われたテレビ東京の音楽祭では、神田沙也加ちゃんを臨時のボーカルに迎えてglobeのヒット曲「Is this love」をTKが披露した、ということで、沙也加ちゃんは昨年に競馬場のキャンペーンソングだかでTKと一緒にお仕事をしたので、そのツテがあったので、そういうことになったのかな、と思ったわけですが。でも、沙也加ちゃんもお歌は上手ですし、globeの曲も様になってるじゃーん、とテレ東が映らないので、某動画サイトでその映像を見た私は思ったわけですが。丁度、その曲は私が医局に入った頃の曲で、アメリカの砂漠だかで撮ったMVが印象的でしたねえ、って思うわけで。まあ、テレ東でお披露目したことは、まあ、妥当な範囲というか、誰が見ても安心できる構成だと思うわけで。沙也加ちゃんのボーカルも評判が良かったようですし。

でも、「THE MUSIC DAY」の方は渡辺美里ちゃんと組んでいるわけで、またまた「元カノ商法」ですねえ? 昔、どんな風に彼女のことをポイ捨てしたかは、30年経っても覚えている人は覚えていると思うのですけれども? と正直思ったわけでー;。でも、美里ちゃんは、やっと自分の番が回ってきた、ということで、自分の勝ち誇った姿を是非私に見て欲しい、とそういうご依頼があった気がするわけで。それはもう是非見させて頂かなければ、と思ったわけですが。日テレもまた下世話なことを、っていうか、そもそも潤君は嵐のコンサートの演出を手がけることで有名な人ですが、光一君も自分の舞台の演出なんかは自分でやる人であって。6番目の子というのは、細部まで細かく効果を拘って演出するけれども、7番目の子は本当に拘りたいと思う部分以外はけっこう大雑把な感がする、って思うわけで。確かに誰が「仕切っている」のかで細かな差はでますよねえ? と思うわけですが。ともかく、そういうことやらの結果の「My Revolution」だと思うわけで。最後に、「この曲がなければ、私も小室さんもいろんな人に知って貰えなかったかもしれない」と受け取れるようなことを言っていましたよねえ? それって、「今の小室があるのは、私がこの歌を唄ったおかげ」って言っているも同然ですよねえ?? って思って、「それが言いたかったのかーー」って思った人は大勢いたと思うわけですが-;。でも、美里ちゃんは小室と別れた後も、自分の力でアーティストとしての地位を確立してきた人ですし、何を言われても文句言えないよねえ? って思うわけで。彼女の行為を否定せず、「是」とする私は、彼女には好かれて貰えたわけですが、たいていの人からは30年も前のことで報復心が強すぎる、まるで復讐の女神も同然、って言われる気がするわけで-;。

そして、何だか、シカンのことを思い出せ、って言われる気がするわけで。シカンとは、現在のペルー(チリの北)にあった古代文明なわけですが、東京でやったシカン展を見に行ったことがあって。彼らの初代王はナイムラップといって、半神半人的な存在であり、人々に文明を教えた、とされるような存在なわけですが。その姿は、片手に生贄の人の生首を持ち、もう片手には首を切り落としたナイフを持っているわけで。それは、人の生き血をすする太陽神の化身であり、男性の王の姿なわけで。で、その「王」は白人で、片方の目が緑色で、もう片方が金色であるので、目はエメラルドと琥珀で現されるわけで。不思議なことに、西方では男系の悪魔の神は「青い目」で現されるのに、東アジアから東では「緑の目」で現されて、アジアでは翡翠で現されるし、新大陸ではエメラルドということになるわけで。新大陸の彼らの遠い先祖が、ベーリング海峡を越えて渡って行ったときには、すでにその身体的特徴はモンゴロイドに近い人々だったと思われるわけですが、でも、実際に何千年もの間、白人というものを見たことがなくても、自分達の遠い先祖が「緑と金色の目」を持っていたことを彼らはなんで覚えているのだろう? と思って。人々は、「青と金の目」を持つ女神に、「その目の持つ性質を恐れるのか。人が本能の奥底で冷酷さと残虐さを持っているのであれば、それを表に出すことは狂気と呼ぶべきなのか? それこそが人間としてのあるべき姿なのではないのか?」と問うらしいのですが。さあ、私もそこまでのことに答えられる器量はあるんだか、ないんだか? と思うわけですが。人はそれぞれに個々に平等であり、尊重されるべき存在、ってそう習ってきたし、そう思うし、生贄なんて駄目でしょ、と思う。でも、大学時代に留年させられたことは忘れられないし、2番目の子の事もどこかにわだかまりは残る。その結果、どうしても会ったことのある1番目の子と2番目の子には、どこか冷めた気持ちがあって、会ったことのない兄さん達に好意を持つことは、それは自分でも止められないことだし、別にこれみよがしな報復とかするつもりはないわけですが、いろいろなわだかまりの結果、一族郎党が決めた婿を蹴飛ばして、蛇の兄さんと結婚したら、それこそが「これみよがしな行為」って言われても、自分でもどうにもならないわけで-;。それを「復讐」と呼ぶのであれば、言わば言え、私もまた朋ちゃんや美里ちゃんのように、そうせずにはいられないだけだから、って思うわけですが。どうも、そういう冷酷で復讐心の強いところに、メソアメリカとラテンアメリカの人々は心を惹かれている、何故ならその辺りには、何故冷酷に人を生贄に捧げてはいけないのか、心の奥底から理解も納得もできない人が大勢いるから、って言われる気がするわけで-;。それもどうなの? って思うわけですが、蛇の兄さんからは「自分はなまじっか医学部に受かるような脳みそを持って無くて良かった」って言われるくらいだから、私も人から見れば復讐心の強い人なのかもしれませんが-;。でも、自分ではそれが当然って気がするので、本当の自分の本性というものは、他の人とどう違うのか、自分ではけっこう分かりにくいものなのかもしれませんが。まあ、でも美里ちゃんの一言はけっこう強烈であったよね? と思うわけで。だいたい、TKの今までの業績のVTRとか見てると、いろいろと言ってくる人が多すぎる。誰とは言わないけど、「その人に処女を捧げたのにー」って言って文句言っている人もいた気がするのですけれども?? と思うわけで-;。まあ、美里ちゃんは良かったよね、とそういうことで-;。

でもって、「敵が定めた黄帝とは誰?」って聞かれる気がするわけで。それは、男とも女ともつかなくて、強烈な言霊を持っていて、頭が真っ黄色な人って言われる気がするわけで@@。そういえば、美輪明宏とかっていう人がどっかにいたかも? って思ったわけですが。なんだか、毎日いろんなことがある、ということで。

本日の日誌

2日くらい前からなんだか、富の王家は、蛇の兄さんと正式に結婚すれば「大国主命」の名前を直接私にあげる、って言ってる、って言われる気がするわけで@@。でもって、「黄帝」についていろいろと勉強したわけですが、でも、「黄帝」というのが殷の祖神である「男性系の太陽神」であるなら、敵の神サマですし、大国主命とどういう関係があるの? と思うわけで。でも、黄帝と羿(げい)の関係をもう一度考えるように、って言われて。日射神話の羿は、天帝(要するに黄帝のこと?)から「9個の太陽が一度に登った状態」を解消するために地上に下された神人であって、後には天帝の怒りに触れて不老不死の性質を失ってしまうわけですが、地上の人々から見れば半神半人の英雄であるわけで。本来の神話からいけば、羿とは黄帝の子孫であり、地上における黄帝の代理人であると共に黄帝そのものであり、死した後には黄帝と同一の存在となる、という、古代エジプトのファラオ的な存在であったと思うわけで。神の子孫が王となり、神の代理人でもあり神そのものでもある、というのは天皇制なんかもそういう思想に近いものですし、西欧の古代の王権というものもこういう思想から成り立っていたわけで。まず、天上世界に神サマがいて、その代理人というか地上における神の具現化が降臨してきて、それが「半神半人の英雄」となって、特定の王家の始祖となる、というのはたいていどこでも、古い王家に伝わる定型的な伝承なわけで。天から下ってきた神人が、なぜ普通の人間のように「寿命」というものが存在する立場になってしまったのか、という点についてはいろんな理由付けがされるわけで。(で、その理由というのはたいてい良くないことなわけですが。)

で、羿というのは要するに「朱蒙(チュモン)」のこと、って言われる気がするわけで。高句麗を興したと言われる朱蒙は、扶余の7人の王子と対立して高句麗を興した、と言われているわけですが、母親は日光に感応して、卵を生み、そこから生まれたのが朱蒙、ということで、大陽鳥(中華思想における黄帝)の子供とされているわけで。弓の名手であった、と言われているわけで。一方の大国主命は、元々王族であり、かつ神族であったわけですが、兄にあたる八十神と対立して根の国に逃げ込み、そこで須世理毘売命と結婚して「大国主命」の名前を得て後、国作りに励むわけで。兄弟神と対立した王子(神の息子)が、自らの力で英雄になる、というところがいずれも共通していると思うわけで。要するに、羿の日射神話、高句麗の朱蒙神話、大国主命の神話は全て中国東北部から更に北に住む男系の遊牧民系の神話であって、「黄帝」というのは彼らの「太陽神」のいわば「中国名」でしかないので、大国主命も系統から言えば、地上に天下った「太陽神」の化身だし、その太陽神というのは、古くは遼河文明にまで遡る「竜神」なんだな、って気が付いて。北方の遊牧民は、その神話の通り、親兄弟でも殺し合うし、その結果一番強くて生き残った者が「王」ということで。時代が下ると、彼らは機動力を重要視して「遊牧騎馬民族」になっていくわけですが、そもそもは普通に遊牧民であって。そういえば、八十神は猪に似た大石を火で焼いて転がし落として、それを猪だと言って騙して大国主命に狩りをさせようとし、その結果大国主命は石の猪に焼かれて死んでしまうわけで。この「石の猪」というのは、荒御霊の時の「太陽神」のことだし、遼河文明に最初に現れた龍神は猪の頭を持った猪龍であったことを思い出して。非常に古い時代には「父成る神」とは猪(豚)であって、それはたぶん猪(豚)は成長すれば人の命も奪いかねないような危険な動物でもあるけれども、その一方で彼らが熊や狼の獲物でもあったからだ、と思うわけで。扶余、高句麗、出雲は、中国東北部にあった斉の残党と、十支族の人達と、中国東北部で活動していた遊牧騎馬民族の人達が同盟を結んで作った連合部族であるので、遊牧騎馬民族系の人々は勇猛であっても、国家という組織をどのようにして作るのか、ということには疎いので、彼らは軍事的な仕事を受け持つし、組織を作ることに長けている人達は国家の枠組みを作る、ということで、仲良くしていたし、出雲の神話には遊牧騎馬民族の伝承がしっかり現れている、ということになるようで。で、東アジアの王権というのは、結局は遊牧民系の人々はすべからく「黄帝(天帝)」の子孫であって、神話の通り、どの部族の「神」の力が一番強いかによって順位が決まる、一番強い「目の力」を持っている者が「黄帝」であり、「黄帝の具現化」ということになる、って言われる気がするわけで。だから、蛙の人たちの王族も代々遊牧民系の人々と混血して、一番賢くて「目の力」の強い「黄帝」を一族の中から出せるように励んできたって言われる気がするわけで@@。でも、混血すると賢くて丈夫な子供は生まれやすくなるけれども、純血種の持つような凶悪な目を持った子供が生まれにくくなるって言われる気がするわけで@@。そういうところに遺伝的なジレンマを抱えつつやってきたらしいのですが。結局「大国主命」というのも、「黄帝」の末裔の名前の一つに過ぎないわけですが、余所の部族に、より「目の力」の強い「黄帝」がいると「黄帝」の名前は貰えないし、「黄帝」にこき使われてしまうことになる、っていうことらしくて。富の王家の不満は、蛇の兄さんに「黄帝」の名前を貰えるほどの「目の力」がない、というか兄さんだって「目の力」は相当強いわけですが、そちらの名前を貰える才能があまりない、ということのようで。でも、私の方は西方の有力な軍神の名前もいくつか貰えてる、ということで、だったら「大国主命」の名前を上げるから、ついでに「黄帝」の名前も取ってきて、っていうことになったらしくてですねえ@@。ノリが軽いぞ、っていうかそういうところで柔軟性に溢れているのが、エフライムの王家の生き残り術、って言われる気がするわけで。で、結局中国的な専制君主国家の象徴ともいえる「黄帝」になる、ってどういうこと? って思うわけで。そうすると、遊牧民の王権の象徴は「中身の尽きない大鍋(足は三本足)」を持っていることって言われる気がするわけで。鍋の中身は要するに「肉」であると思うので、その肉が尽きない、というのはそれだけの財産(家畜)を持っていて、大勢の家族や郎党を養えるだけの財力がある人=帝っていう意味だと思うわけで、この手の神話的な鍋は西方の神話にもよく出てくるわけで。現実には、それは王権の象徴である「鼎(かなえ)」という鍋なわけで、それが大きいほど上位の人間、ということらしいのですが。ともかく「象徴」だから小さいもので良いので、何か「鼎」に相当するような「三本足」のものを買って家に入れるようにって言われるわけで。自前の「鼎」を持つことが「帝」への第1歩ということらしくて。何かあるかなー? と思って、いろいろと調べてみましたら、チリに「3本足の豚のお守り」というものがあるらしくて@@。なんだか、その豚さんは飢饉があったときに、困った人に自分の足を一本提供したので、三本足ということになっているらしいのですが。だから、「困ったときのお守り」ということらしいのですが。でも、南米ってカトリックの影響が強いところですし、その豚は3本足の豚のキアンでしょうが? と思うわけで。その身と引き替えに、人々に豊穣をもたらす、肉の尽きない豚の太陽神がその本態、ということで。それは、鼎でもあり、饕餮としてもぴったり、と思うわけで。では、とりあえず買ってみましょう、と思ったわけですが。

でもって、昨日は日テレの「THE MUSIC DAY」であって。11時間ぶっ通しの音楽の特番で、翔君が司会をしますし、ジャニーズの兄さん達もたくさん出演する、ということでできるだけ見なければ、と思ったのですが。だいたい6~7時くらいまでが前半で、その後が後半という感じだったと思うわけで。で、ごくごく珍しく石井がゲストに出る、ということは事前に知っていたわけですが、オープニングのしょっぱなから石井が登場して「浪漫飛行」を歌ったわけで@@。しかも、沖縄からの中継ということで、沖縄のミルク神(沖縄の弥勒のことで、真っ白な仮面で現される神サマなのですが)みたいに、真っ白な服を着ていて。確か、この人暑いのが駄目とかって聞いていた気がするわけですが、なんで真夏の沖縄とか暑そうな所からわざわざ中継してるの?@@ って思って。

で、昨日は暑かったので、お風呂に入ろう、ということになって。それは良いのですけれども、だいたいこの手の番組は、夜になるほど人気がある人が出る、ということで、嵐の兄さん達の出番とか見逃したら嫌だなあ、せっかくの生放送だし、と思って。お風呂に入ることは入ったのですが、さっと汗だけ流して、とっとと上がってしまったわけです。で、上がってからは例によって「生放送なんだから、最低でもパンツだけはしっかり履いとくように。」って4番目の子から言われるわけで-;。で、見始めたらすぐに「しやがれ」の特別コーナーの潤君の分が始まったので、「おおー、早く上がって良かったー」と思ったのですがその後すぐに続いて、KinKi-Kidsが歌ったので、これも見れて良かったな-、と思って。光一君は夏らしくすっきりとした髪型で、かっこいいなー、と思って。で、何故か蛙の子にハートマークをけっこう飛ばしてくれたので、蛙の子もご機嫌であって。そういう単純なことで喜んでくれるなんてかわいい、って言ってくれた気がするのですが。でもって、歌を唄った後に司会の翔君と少しお話をするコーナーがあって、その時に、7番目の子が4番目の子を「目の力」で威嚇と牽制をしてた気がするわけで@@。「ん?」と思ったのですが。

で、その後にジャニーズのシャッフルメドレーがあって、その時に潤君とか光一君とか登場したのですが、なんだか6番目の子は、7番目の子の「目の力」で黙らされている気がして@@。どうも、6番目の子の好き勝手にさせておくと、焼きもち焼き屋さんが他のお婿さんとその関係者達を「目の力」で圧迫して大変、せっかくの生放送で大勢の人が結縁するチャンスなのに、ということで、7番目の子に強引に黙らされてしまったようで-;。おかげで、その他大勢の兄さん達は、自分が推したい人を好き勝手にのびのびと私に対して主張できて良かったらしいのですが。6番目の子にとってはすこぶる面白くない一日だったようで-;。7番目の子が、6番目の子に向かって「今日の主役は誰かな?」ってちらっと言っていたので、「おや?」と思って。私に対しては「豚のキアンが家に入ったら、ミトラスの神印をしっかり入れておくように。」って言う気がするわけで。

で、その後に桐谷君が沖縄から「海の声」を歌っていて、丁度、日暮れ時で夕日が沈むところであって。桐谷君も白いシャツを着ていたし、「琉神」という琉球歌舞をやっている人達と一緒にパフォーマンスをしていて。ミトラスは時間的には「日暮れ時」の神ですし、誰が真に「ミルク神」に相応しいのか? と聞かれた気がして。そっかー、それで石井がわざわざ沖縄から中継して歌っていたんだ? と思ったわけですが。今夜の主役は7番目の子ですねえ、って思って。後は、コブクロの「未来」とか、AKB48の「365日の紙飛行機」とか、平井堅君の「魔法って言っていいかな?」とかは7番目の子のお歌って言われる気がするわけで。未来の歌詞の「結ばれぬまま 解けもしない」とか「心深くに 身を知る雨」という部分に心を打たれたわけで。そもそも、その曲は好きな相手と結婚できなくても良いから、その人のそばにいたい、っていう歌ですよねえ? と思って。そんなに好きな人のことを思っているのだろうか、と思うわけですが、まあ周りにいろんな兄さん達がいるから、あんまり感傷的な気分のままにはさせていて貰えないわけで。5番目の子とか守達神は、「それだけの「目の力」があって、深い思いがあるのなら、そんなに控えめにしていないで、6番目の子みたいに「正式に結婚したい」って言えばいいのに。通るか通らないかは別として。」って言うわけですし、どちらかといえば、それが兄さん方の一般的な見解のようで。グノーシス主義者の人達が作っているお歌だから、その人達の趣味もけっこう含まれているよね、って言われる気がするわけで。それ以外の兄さん達は、6番目の子がしきるよりも、その人が仕切ってくれていた方が圧迫されなくて楽、って言うわけで。まあ、みんな自分の都合でしか言ったり考えたりしないよね? って思うわけですが-;。でも、今回の「THE MUSIC DAY」はグノーシス主義の人達の意向がずいぶん反映されていますよねえ? となんだかそんな気がするわけで。嵐の曲はいっぱい聴けてうれしかったのですが。

で、昨夜は「SmaSTATION!?」も見て寝て。それで夢を見て、6番目の子がお仕事でなんだか忙しくて、なかなか会う時間がないのですが、会えたときには仲良くいちゃいちゃするという夢であって。なんだか、普通に素直な夢だったなー、と思って。一方、蛇の兄さんからは数日前に、「締め上げられるのがいい? それとも泣き落としされるのがいい?」って聞かれた気がするわけで。当然「泣き落としの方がマシ」って答えたわけですが、兄さんの方は本気で泣き落としで女心をつなぎ止めておこうとしているようで-;。7番目の子から、締め上げるにしても、泣き落としをするにしても、度が過ぎて昨日の6番目の子のように、力尽くで黙らさせられたい? って言われたらしいのですがー;。兄さんもちょっと不思議というか、好きな人と付き合うには締め上げるか泣き落とすしかない、と思っているようなところがある、というか、何かちょっとヘン? と思うわけで。もしかして、兄さんのお父さんって、締め上げるか、でなければ泣き落とすかしてお母さんに取り憑いていたのですかね? って思うわけで。そういうやり方しか見たことがないとか? って思うわけで-;。そういう男の人で、しかも稼ぎがないときたらけっこうサイアクかも? という気がするわけで><。兄さんは王族かもしれないけれども、とっても4番目の子よりもお育ちが良かったっていう気がしないわけでー;。6番目の子とか7番目の子とかはわりと普通の家の子って感じですよねえ? って思うわけですが-;。6番目の子は、私にプリンとか作って食べさせてあげたい、って言ってくれるわけで。それは自分でも頑張れば作れると思うわけですが、そう言うと、「それは分かってるけれど、自分が作ってあげたいんだ」って言ってくれるわけで、なんだか、そういうところが可愛いな-、と思うわけですが。ともかく、昨日は11時間にもわたる歌番組があったので、今日はその整理をしていて。あとは、新しい曲を何曲か買ったので、それの整理もして。到着した豚さんにも神印を入れて。兄さんに言われたわけですが、誰でも予想していたことだけれども、やっぱりそれに一番気を通しやすいのも7番目の子って言われる気がするわけで。しかも、それは新大陸の土で作った物だから、新大陸からの気も集めやすいって言われる気がするわけで@@。今日はそんな一日だったわけです。

本日の日誌

昨夜は特に夢も見ず。
本日は「お仕事」がお休み、ということで家にいるわけで。なんだか家にいる方が、不安感が増す、というか落ち着かない気もするのですが。でもって、朝ご飯を食べていたら、ふと「要するに秦氏というのは殷の残党なんだよね。」って6番目の子に呟かれたわけで。で、秦氏について検索してみたのですが、秦氏というのは記録によれば応神天皇の代に「弓月君」という人が一族郎党を引き連れて渡来した人々、ということで。で、土木や養蚕、機織などの技術を持っていて栄えた、ということで。秦氏の氏神社である京都の木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)は「蚕の社」とも言われていて、養蚕の守護神社的な位置づけにあったと思うのですが。で、現在の主祭神は天之御中主神なのですが、本来は「天照御魂神(あまてるみむすびのかみ/あまてるみたまのかみ)」(あるいは「天火明命(アメノホアカリ)」)という太陽の神格を持つ神を祀る神社らしいのですが。これが男性格の太陽神であって、女神の天照大神とは違う神なわけです。(でも、記紀的には天火明命は天照大神の孫神くらいなので、一応系譜の上では繋がっているわけですが。)で、男性格の「太陽神」とは何者? と思うと、それは「黄帝」のこと、「弓月君」とは「日射神話」の羿(ゲイ)のこと、って言われる気がするわけで@@。
暦には干支というのがありますが、干支というのは「干」と「支」の部分に分かれるわけで、「支」の方は十二支の名の通り12種類の動物に準えられているわけです。で、「干」というのは何かというと、十干といって、いわゆる「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」というものなわけです。で、古代中国の天帝には10人の息子(太陽鳥)がいて、一日に一人ずつ交替で地上を照らす役目を負っていたとされるわけです。で、10日たつと一巡する、ということで。今でも一ヶ月を上旬、中旬、下旬と分けますが、これは暦のこういう数え方による、ということで。10人の大陽が一巡する「10日」を「旬」として区切っているわけです。でも、ある時10個の大陽が一度に昇ってしまって、地上が暑くてたまらなくなってしまったので、羿という弓の名人が9個の太陽を打ち落として、太陽を一つにしてしまったということで。羿は地上の人々にとっては悪いことをしたわけではないのですが、息子達を殺された天帝の怒りをかって、悲劇的な死に方をした、となっているわけで。で、「十干十二支」の暦の数え方は、殷の時代には確率されていた、とされるわけで。それだけでなく、殷の王族は黄帝の子孫と考えられていましたし、初期の殷王朝は世襲制ではなくて、複数の王家が交替で王を輩出していて、それが時代が下るにつれて、2つの王家くらいに絞られてくる、ということで、「9個の太陽が射落とされた」という説話は、初期の殷の10個の王家(当初は交代制で王を立てていた)が、特定の一つの王家の突出によって、1つの王家の支配へと変遷していた過程を示しているのではないか、と言われているわけで。羿というのは、殷末期の統一王朝では「始祖」ともいえる英雄かもしれませんが、そもそもの連合王国であった初期の「殷」から見れば他の王家を倒した裏切り者ともいえるわけで、英雄ではなく、「悪徳の象徴」として、スケープゴート的に扱われているのが羿ではないのか、と思われるわけで。
で、天帝の怒りを受けた後の羿は、一方では人々のためにいろいろな怪物を倒した英雄となりますが、もう一方では神籍を外されて、不老不死の立場を失ってしまい、その上妻にも逃げられてしまうわけで(妻は月に逃げていって、ヒキガエルになってそこに暮らすことになるわけで。像としては金銭的な禍福をもたらす「3本足の蛙」で現されるようなのですが。)。そうして、羿は狩りをしながら余生を送った、と言われているわけですが、河の神を殺してその妻を奪ったとも言われていて。しかもその最後は弟子に桃の杖で撲殺される、ということで。弓の名手で、狩りをしながら生活していること、人妻を略奪婚していること等から、羿の説話は狩猟民の略奪文化が根底にあることが覗えるわけで。最後が若者に撲殺される、というのも、西方の神話にありがちな「王権交替」の神話を彷彿とさせるわけで。そして、「桃の木」というのは、本来邪気を払うものですから、羿自身が人々にとって「良い神」であっても、その一方で「荒ぶる邪神」の性質を持っていた神であったと思われるわけで。羿が、男系の殷王朝の「祖神」であるとすると、むしろ羿とは妻(この場合は母系の女神)を殺して、月(黄泉の国)に追放する神であり、その一方で妻の財産を手に入れて王となる神であり、やがて誰かにとって変わられる神である、という気がするわけで、非常に古い時代の遊牧民の「典型的」な神であると思われるわけです。羿が、淘汰の末に残った殷王朝の10の王家のうちの、最後の一つの王家の始祖であるならば、殷王朝とは遊牧民の作り上げた王朝で、男系であり、寡婦殉死の制度を伴っていた王朝だと思うわけです。で、その一番古い祖神と言われているのが黄帝(中国語でフアン・ディーというらしいのですが。)という男神であって、おそらくこれが「男性系の太陽神」であると思うわけで。で、黄帝の子孫が、簡狄という女性と結婚して、この女性が玄鳥の卵を飲んで生まれたのが、殷の初代王と言われる絜であって。だから、中原においては簡氏、本邦においては天火明命の末裔を名乗る人々は、みな殷の残党で、「敵」って言われる気がするわけで@@。で、中国語で「父親」を示す発音はどうやら2種類あるようで、一つは「ディー」という言葉で、もう一つは「ババ」という言葉であって。「ババ」というのは「b」の子音からなる音であって、西方のパパとかと同語源であると思うわけで。で、一方の「ディー」というのは「d(あるいはt)」からなる言葉ですので、日本語の「父(チチ)」という言葉はここから来ているのだな、と思うわけで。で、黄帝というのは「フワン・ディー」と読むそうですので、子音からいえば「ババ」と「ディー」を二つつなげた言葉、ということで、そもそも「黄帝」という言葉が「天の父神」という意味なのだと思うわけで。で、印欧祖語で父親のことを「pater」と呼ぶわけですから、そもそも「黄帝」と「pater」という言葉は子音的に同語源なのではないかと思うわけで。ユーピテルの語源は、「pater」に「Dyēu(天、雷)」という言葉をつけたものですから、中国語の「黄帝」、印欧祖語の「pater」、ラテン語の「Jupiter(ユーピテル)」って同語源だし、誰でもそれを知っているんだなあ、と思って。だからローマ式の原始キリスト教が東アジアに入ってきたときに、殷の残党は「同族」だということを理解してなびいたし、それ以降、改宗してローマに協力してきたし、印を滅ぼした太公望の国である斉の末裔を恨んで復讐の機会を伺っている、とそういうことのようで。そういえば、「簡」っていう名字には聞き覚えがあるし、一族郎党が集まると、誰がどこの何代目の従兄弟&従姉妹ってみんな知ってるし、言えるって言っていた気がするわけで@@。その人が同じ学校にいたのも決して偶然じゃないんだ? と思うわけで。そうしたら、兄さんから、「そもそもその人は殷の直系に非常に近い血筋の人で、本物のお姫様だし、華僑というのは世界中に根っこを持っている人達だから、行こうと思えばハーバードでもコロンビアでも、どこでも行きたい放題だった才媛で、地方の三流国立大学になんて、意味がなければ行く立場にない人」って言われた気がするわけで@@。そうなんだ? 太公望の子孫は地方の三流国立大学を留年しないと卒業できないようなお馬鹿さんで悪うございましたわねえ? って思いましたら、「ぐう」って言われてしまったわけですがー;。っていうか、どうりで私に対して思うところがあった人なんだ? って思ったわけですが。ともかく、「黄帝」というものに対しても理解は深まったわけで。(現在では、黄帝は中国全体の祖神扱いな感じであって、共産中国も黄帝に対しては敬意を払っているわけで。)そもそも、洋の東西を問わず母系社会では「父」という存在そのものが社会的な意味をほぼ持たないものなので。男系社会になってから、その言葉は意味を持つようになり、男系社会の出所は一つだから、語源も一つ、とそういうことのようなのですが。ともかく、「黄帝」というものに対しては理解が深まった、とそういうことで。
でもって、日本では現在のところ、民事に関わる法的な事項は原則として当事者が行うことになっているわけですが、実際には重要な手続きなどで、当事者が直接やることというのは
あまりなくて。裁判を起こすときには弁護士を代理に立てるし、行政的な文書を扱うときには司法書士とか行政書士に頼むし、土地の取引では宅地建物取引業者、というように、人に頼むのが通例であって。その方がお金がかかるかわりに、手間が省けたり、無駄なことをしたり、場合によっては騙されたりもしにくくなる、と建前としてはそういうことなのだと思うのですが。でも、そういう手続きが複雑化、煩雑化しているのも奇妙な話であって、本当に本来的に「当事者」が行うべき社会を目指すのであれば、もっといろいろな手続きを簡単にするべきなのであって。いろいろな公的な手続きというのは、それ自体は公のことですし、それほどの費用はかからないわけです。でも、いろいろな人に代理とか仲介を頼むと、「手数料」というものが発生して、それが割と高額なわけで。結局、そういう代理とか仲介のための資格を増やし、かつ手続きを複雑化させて、決して当事者には手続きをさせないようにすれば、役所とその担当の職種の人はなあなあみたいな関係になりますし、役人というのはそうやって資格を持っている人に儲けさせる仕事も同然、って言われる気がするわけで。役人の側に「敵」がいれば、自分が意図した資格持ちの人にだけ特においしい仕事を紹介して儲けさせることもできるし、その一方でただでやって貰いたいような仕事も引き受けて貰えるし、しかも一般の人達は、その範囲の法律的行為では資格持ちの人に頼るしかなくなるから、「助けて貰いたかったら言うことを聞け」みたいにもできるし、って言われる気がするわけで。要するに、一般の人々は資格持ちの人に「助けて貰いたかったら言うことを聞け」みたいなことを言われかねないし、それは役所の人、すなわち「官僚機構」から、そう言われているも同然、って言われる気がするわけで。だから、敵は役所に直接やってくる「当事者」が嫌いなようで。そういう人達は、中間業者にいやがらせをさせて操ることができないから、ということで。そもそも、民主主義であろうが、独裁主義であろうが、「官僚組織」というものがなければ国家は運営できないので、敵が一番重点をおいて掌握しようとする場所がそこ、って言われる気がするわけで。要するに、できるだけ中間業者を入れずに、頑張ってそこに行かなきゃいけないんだな、と思うわけで。せっせと書類を作っているわけなのですが。