昨夜は特に夢も見ず。
本日は「お仕事」がお休み、ということで家にいるわけで。なんだか家にいる方が、不安感が増す、というか落ち着かない気もするのですが。でもって、朝ご飯を食べていたら、ふと「要するに秦氏というのは殷の残党なんだよね。」って6番目の子に呟かれたわけで。で、秦氏について検索してみたのですが、秦氏というのは記録によれば応神天皇の代に「弓月君」という人が一族郎党を引き連れて渡来した人々、ということで。で、土木や養蚕、機織などの技術を持っていて栄えた、ということで。秦氏の氏神社である京都の木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)は「蚕の社」とも言われていて、養蚕の守護神社的な位置づけにあったと思うのですが。で、現在の主祭神は天之御中主神なのですが、本来は「天照御魂神(あまてるみむすびのかみ/あまてるみたまのかみ)」(あるいは「天火明命(アメノホアカリ)」)という太陽の神格を持つ神を祀る神社らしいのですが。これが男性格の太陽神であって、女神の天照大神とは違う神なわけです。(でも、記紀的には天火明命は天照大神の孫神くらいなので、一応系譜の上では繋がっているわけですが。)で、男性格の「太陽神」とは何者? と思うと、それは「黄帝」のこと、「弓月君」とは「日射神話」の羿(ゲイ)のこと、って言われる気がするわけで@@。
暦には干支というのがありますが、干支というのは「干」と「支」の部分に分かれるわけで、「支」の方は十二支の名の通り12種類の動物に準えられているわけです。で、「干」というのは何かというと、十干といって、いわゆる「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」というものなわけです。で、古代中国の天帝には10人の息子(太陽鳥)がいて、一日に一人ずつ交替で地上を照らす役目を負っていたとされるわけです。で、10日たつと一巡する、ということで。今でも一ヶ月を上旬、中旬、下旬と分けますが、これは暦のこういう数え方による、ということで。10人の大陽が一巡する「10日」を「旬」として区切っているわけです。でも、ある時10個の大陽が一度に昇ってしまって、地上が暑くてたまらなくなってしまったので、羿という弓の名人が9個の太陽を打ち落として、太陽を一つにしてしまったということで。羿は地上の人々にとっては悪いことをしたわけではないのですが、息子達を殺された天帝の怒りをかって、悲劇的な死に方をした、となっているわけで。で、「十干十二支」の暦の数え方は、殷の時代には確率されていた、とされるわけで。それだけでなく、殷の王族は黄帝の子孫と考えられていましたし、初期の殷王朝は世襲制ではなくて、複数の王家が交替で王を輩出していて、それが時代が下るにつれて、2つの王家くらいに絞られてくる、ということで、「9個の太陽が射落とされた」という説話は、初期の殷の10個の王家(当初は交代制で王を立てていた)が、特定の一つの王家の突出によって、1つの王家の支配へと変遷していた過程を示しているのではないか、と言われているわけで。羿というのは、殷末期の統一王朝では「始祖」ともいえる英雄かもしれませんが、そもそもの連合王国であった初期の「殷」から見れば他の王家を倒した裏切り者ともいえるわけで、英雄ではなく、「悪徳の象徴」として、スケープゴート的に扱われているのが羿ではないのか、と思われるわけで。
で、天帝の怒りを受けた後の羿は、一方では人々のためにいろいろな怪物を倒した英雄となりますが、もう一方では神籍を外されて、不老不死の立場を失ってしまい、その上妻にも逃げられてしまうわけで(妻は月に逃げていって、ヒキガエルになってそこに暮らすことになるわけで。像としては金銭的な禍福をもたらす「3本足の蛙」で現されるようなのですが。)。そうして、羿は狩りをしながら余生を送った、と言われているわけですが、河の神を殺してその妻を奪ったとも言われていて。しかもその最後は弟子に桃の杖で撲殺される、ということで。弓の名手で、狩りをしながら生活していること、人妻を略奪婚していること等から、羿の説話は狩猟民の略奪文化が根底にあることが覗えるわけで。最後が若者に撲殺される、というのも、西方の神話にありがちな「王権交替」の神話を彷彿とさせるわけで。そして、「桃の木」というのは、本来邪気を払うものですから、羿自身が人々にとって「良い神」であっても、その一方で「荒ぶる邪神」の性質を持っていた神であったと思われるわけで。羿が、男系の殷王朝の「祖神」であるとすると、むしろ羿とは妻(この場合は母系の女神)を殺して、月(黄泉の国)に追放する神であり、その一方で妻の財産を手に入れて王となる神であり、やがて誰かにとって変わられる神である、という気がするわけで、非常に古い時代の遊牧民の「典型的」な神であると思われるわけです。羿が、淘汰の末に残った殷王朝の10の王家のうちの、最後の一つの王家の始祖であるならば、殷王朝とは遊牧民の作り上げた王朝で、男系であり、寡婦殉死の制度を伴っていた王朝だと思うわけです。で、その一番古い祖神と言われているのが黄帝(中国語でフアン・ディーというらしいのですが。)という男神であって、おそらくこれが「男性系の太陽神」であると思うわけで。で、黄帝の子孫が、簡狄という女性と結婚して、この女性が玄鳥の卵を飲んで生まれたのが、殷の初代王と言われる絜であって。だから、中原においては簡氏、本邦においては天火明命の末裔を名乗る人々は、みな殷の残党で、「敵」って言われる気がするわけで@@。で、中国語で「父親」を示す発音はどうやら2種類あるようで、一つは「ディー」という言葉で、もう一つは「ババ」という言葉であって。「ババ」というのは「b」の子音からなる音であって、西方のパパとかと同語源であると思うわけで。で、一方の「ディー」というのは「d(あるいはt)」からなる言葉ですので、日本語の「父(チチ)」という言葉はここから来ているのだな、と思うわけで。で、黄帝というのは「フワン・ディー」と読むそうですので、子音からいえば「ババ」と「ディー」を二つつなげた言葉、ということで、そもそも「黄帝」という言葉が「天の父神」という意味なのだと思うわけで。で、印欧祖語で父親のことを「pater」と呼ぶわけですから、そもそも「黄帝」と「pater」という言葉は子音的に同語源なのではないかと思うわけで。ユーピテルの語源は、「pater」に「Dyēu(天、雷)」という言葉をつけたものですから、中国語の「黄帝」、印欧祖語の「pater」、ラテン語の「Jupiter(ユーピテル)」って同語源だし、誰でもそれを知っているんだなあ、と思って。だからローマ式の原始キリスト教が東アジアに入ってきたときに、殷の残党は「同族」だということを理解してなびいたし、それ以降、改宗してローマに協力してきたし、印を滅ぼした太公望の国である斉の末裔を恨んで復讐の機会を伺っている、とそういうことのようで。そういえば、「簡」っていう名字には聞き覚えがあるし、一族郎党が集まると、誰がどこの何代目の従兄弟&従姉妹ってみんな知ってるし、言えるって言っていた気がするわけで@@。その人が同じ学校にいたのも決して偶然じゃないんだ? と思うわけで。そうしたら、兄さんから、「そもそもその人は殷の直系に非常に近い血筋の人で、本物のお姫様だし、華僑というのは世界中に根っこを持っている人達だから、行こうと思えばハーバードでもコロンビアでも、どこでも行きたい放題だった才媛で、地方の三流国立大学になんて、意味がなければ行く立場にない人」って言われた気がするわけで@@。そうなんだ? 太公望の子孫は地方の三流国立大学を留年しないと卒業できないようなお馬鹿さんで悪うございましたわねえ? って思いましたら、「ぐう」って言われてしまったわけですがー;。っていうか、どうりで私に対して思うところがあった人なんだ? って思ったわけですが。ともかく、「黄帝」というものに対しても理解は深まったわけで。(現在では、黄帝は中国全体の祖神扱いな感じであって、共産中国も黄帝に対しては敬意を払っているわけで。)そもそも、洋の東西を問わず母系社会では「父」という存在そのものが社会的な意味をほぼ持たないものなので。男系社会になってから、その言葉は意味を持つようになり、男系社会の出所は一つだから、語源も一つ、とそういうことのようなのですが。ともかく、「黄帝」というものに対しては理解が深まった、とそういうことで。
でもって、日本では現在のところ、民事に関わる法的な事項は原則として当事者が行うことになっているわけですが、実際には重要な手続きなどで、当事者が直接やることというのは
あまりなくて。裁判を起こすときには弁護士を代理に立てるし、行政的な文書を扱うときには司法書士とか行政書士に頼むし、土地の取引では宅地建物取引業者、というように、人に頼むのが通例であって。その方がお金がかかるかわりに、手間が省けたり、無駄なことをしたり、場合によっては騙されたりもしにくくなる、と建前としてはそういうことなのだと思うのですが。でも、そういう手続きが複雑化、煩雑化しているのも奇妙な話であって、本当に本来的に「当事者」が行うべき社会を目指すのであれば、もっといろいろな手続きを簡単にするべきなのであって。いろいろな公的な手続きというのは、それ自体は公のことですし、それほどの費用はかからないわけです。でも、いろいろな人に代理とか仲介を頼むと、「手数料」というものが発生して、それが割と高額なわけで。結局、そういう代理とか仲介のための資格を増やし、かつ手続きを複雑化させて、決して当事者には手続きをさせないようにすれば、役所とその担当の職種の人はなあなあみたいな関係になりますし、役人というのはそうやって資格を持っている人に儲けさせる仕事も同然、って言われる気がするわけで。役人の側に「敵」がいれば、自分が意図した資格持ちの人にだけ特においしい仕事を紹介して儲けさせることもできるし、その一方でただでやって貰いたいような仕事も引き受けて貰えるし、しかも一般の人達は、その範囲の法律的行為では資格持ちの人に頼るしかなくなるから、「助けて貰いたかったら言うことを聞け」みたいにもできるし、って言われる気がするわけで。要するに、一般の人々は資格持ちの人に「助けて貰いたかったら言うことを聞け」みたいなことを言われかねないし、それは役所の人、すなわち「官僚機構」から、そう言われているも同然、って言われる気がするわけで。だから、敵は役所に直接やってくる「当事者」が嫌いなようで。そういう人達は、中間業者にいやがらせをさせて操ることができないから、ということで。そもそも、民主主義であろうが、独裁主義であろうが、「官僚組織」というものがなければ国家は運営できないので、敵が一番重点をおいて掌握しようとする場所がそこ、って言われる気がするわけで。要するに、できるだけ中間業者を入れずに、頑張ってそこに行かなきゃいけないんだな、と思うわけで。せっせと書類を作っているわけなのですが。