本日の日誌

夜は特に夢も見ず。で、古川と名の付くモノを入れても良いのか、と微妙にまだ悩みつつ出かけたわけで。

そして、蛇の兄さんからいろいろと解説を受けたわけですが、どうも西国の重要な古社というのは、「利権関係」が複雑、って言われる気がするわけで@@。そもそも、石上神宮の脇を流れる布留川の上流の山は「桃尾山」というらしくて。古代は「桃尾」と書いて「とび」と読んだらしくて。で、その山の中には諏訪神や九頭竜を祀る神社がいくつかあって、古代においては、布留川の主に対する信仰と、出雲から来た神々に対する信仰は習合していたらしいのですが。「とび」という言葉そのものが富の王家に通じる言葉なわけですし。で、同じ「石神」だから、縄文時代の東国の石神信仰と、西国の石神信仰では、神サマの名前も同じだし、同じものだと思うかも知れないけれども、でも、それは実は違うものなんだよ、って言われる気がするわけで@@。東国の大姥サマ信仰は、北方の狩猟民と共通した信仰であって、その西端は北欧まで続くわけですが(東へ進めばベーリング海峡を越えてアメリカ大陸まで進むわけで)。西国の竜蛇信仰というのは、要するに南海の漁労民の竜蛇信仰の北限みたいなもので、東国の人々の大姥サマ信仰よりは、アボリジニの人達の信仰に近いモノ、って言われる気がするわけで@@。要するに出雲系の人々がやって来た時に、東国の石神信仰も、西国の石神信仰も一つに纏めて、いずれも山の神信仰かつ、竜蛇信仰かつ出雲の神に対する信仰、ということで、それぞれを同列同格に定めて習合させてしまったので、今では区別が付きにくくなっているけれども、元々は東国の石神信仰は北方の狩猟民の大姥サマのもの、西国の石神信仰は南海の竜蛇信仰(要するに日本的には乙姫様ということで)のもので、それぞれ呼び方も異なるものだったらしくて。西国と東国の文化は中部地方では微妙に習合してる部分もあるけど、本来は異なるものだし、奈良は内陸だから、あんまり海洋系の漁労民の文化って感じがしないけど、布留主というのは、元は海洋系の竜蛇神ということらしくて。

で、思い出したのですが、海洋系の漁労民は太平洋、東南アジア、インド洋、中東と海沿いに拡がっているわけで、古代メソポタミア文明も、漁労民、北方から来た遊牧民、農耕民と3種類の異なる文化を持つ人々が形成したモノであることが分かっているわけで。中東の人々は、この3種類の民族が混血した末の人々であるわけなので、「蛇の目」の人達というのは、3種類の血は引いているけれども、どちらかといえば、南海の竜蛇信仰の人達と近い目を持っているということらしくて。で、そういう人々は東に分布して、太平洋周辺の島々に住まう人々ほど純血に近いし、彼らから見れば、海を越えてきた「青い目」の人々はローマであろうがなかろうが、略奪者であり、敵である、ということで。要するに、私は「青い目」を持っているし、彼らの理想の竜女って感じではないので、何回の人々にはあまり歓迎されないらしくてー;。それはしょうがない、日本人だからもっと中庸的な目の子が生まれるかと思ったけれども、私の目は北欧の人達の目に近すぎるので、そちらからは期待の目で見られるけれども、そうなればなるほど南海の人々から警戒されるのは、そういう力関係ができあがってしまっているから、どうしようもない、って言われる気がするわけで;。

というわけで、石上神宮に話を戻すと、そこの「利権」とやらは、最古層に漁労民の竜蛇信仰があり、その上に出雲の神々に対する信仰が習合していて、更にその上位に君臨するのは一番最後にやってきた物部氏であって、物部氏は純然たるローマ人、ということで。そもそも、川の女神であった布留主に、経津主神という名前を与えて男性の軍神に変えてしまったのも物部氏、って言われる気がするわけで。で、東国における経津主神と建御雷神というのは、ほぼ一対かつ一体の神として、西国から攻め込んで来た神々として扱われるわけで。それは、いわゆる「東征」の歴史を示すものでもあるのですが、何故、経津主神と建御雷神の2神がいるのか、ということになると、それは物部氏が建御雷神よりも「目の力」の強い神を経津主神として得た際には、自分達が鹿島の神を擁する勢力よりも上に行こう、という野心のため、って言われる気がするわけで@@。彼らはローマ人だから、互いに協力もしあうけれども、力関係次第で下克上も平気、っていうことらしくて@@。だから、石上を巡る勢力はいろいろあるけれども、石上神宮の巫女が興した某勢力は、敵とか味方とかっていうことではなくて、彼らは「漁労民」なのです、って言われる気がするわけで@@。それで、町の名前にまでなってるのか-、漁労民の町なのですねえ? って思ったわけで。で、その人達は結局私の目が「青すぎる」というので、布留主の名前は授けたくない、と思っているらしくて。で、その次に古い勢力である出雲の人達は可も不可もない、私はそもそも八坂刀売なんだし、九頭竜でもあるんだから、って思っているらしくて。そして、石神で最大の勢力である人々は、ともかく私は物部氏の血も、藤原氏や皇室の血と同じくらい引いているんだから、鹿島の神の上を行く「目の力」を持っているのであれば、布留主の名前を与えて何が悪いのか、と思っているらしくて@@。弓削道鏡が物部氏の出であることを忘れないように、って言われる気がするわけで@@。結局、3者が協議の結果、石上の主祭神は「蛇の目」を持つ経津主神のままで、私は妻の雷神として夫を後見し、直接布留主とは名乗らないように、ってことになったらしくてですねえ@@。そういうことに、みんな拘りを持って生きているのですねえ? と思ったのですが。ということで、「古川」の名の付く製品は、いくら十字がベタベタついていても、夫神からの結納の品も同然なので、有り難く使わせて頂くように、って本家筋からは言われる気がするわけで@@。

でもって、「中を越す」神社にとっとと行ってこい、と言われて、「お仕事」の後に行ってきたわけですが。あの辺りの神社の特徴としては、まず、御柱を建てる位置が微妙に「なってない」と思うわけで-;。普通は、大きなところだと、4本の柱を建てて本殿を囲むわけで。で、小さなところだと2本の柱を社殿の前の左右に建てる、と思うわけですが。今日行ったところは、境内社の弥栄神社の前に、御柱が2本立てられていて、本殿は? っていう感じであって。で、もう一つの特徴は、諏訪神と弥栄の神との事実上の習合が著しいわけで。祇園の八坂神社を頂点とする各地の八坂(弥栄)社は、現在では祇園に倣って、須佐之男が祭神のことが多いのですが、祇園の祭神は元々は牛頭天皇であるところの武塔天神と頗梨采女であって。それは、朝鮮のムーダンの人々と同じ信仰で、本来はグノーシス主義の社としての性質が強かったわけで。でも、何故かあの辺りには弥栄神社に梶の葉の紋があったりして、何故か諏訪神と弥栄の神がほぼ「同一」に扱われているわけです。で、それは何故かというと、「弥栄(八坂)」という名前そのものが「八束水臣津奴命」という出雲の祖神に由来するからで、諏訪神の本来の名前は「八束水臣津奴命」であったと思うわけで。平ったくいうと、「八坂彦」と「八坂刀売」という1対の夫婦神が存在して、彼らの名前はいろいろに呼ばれるけれども、「八坂」とつく神社の最初の神々はその夫婦神であったと思われるわけで。別に道祖神の「八衢比古」「八衢比売」でもいいんだけどさあ? と思うわけで。だから、諏訪神と弥栄神は実は習合してもおかしくはないのですが、そうやって纏めてしまう人達は、そうしても構わない事情を「知っている」人達ということで。でも、石上神宮と同様、祇園の頂点に君臨するのは、現在ではグノーシス主義者ということで。皇室寄りのグノーシス主義者は、武塔天神の名前を貰った7番目の子と、頗梨采女の名を貰った私のことを、祇園の神と考えているらしいのですが。まあ、北信濃の人達はそういう現代的な事情は考慮せずに、昔ながらの信仰を保持している、ということで。

で、あのあたり、というか、そもそも古代においては、善光寺とその周辺地域の広い範囲(安茂里に至るくらいまで)は、昔「水内郡芋井郷」と呼ばれていたらしくて。だいたい、その「芋井」という地名は「妹井」という意味なんじゃないの? 「斎宮」という地名と同様「女神信仰」を強く伺わせる地名だ-、と思うわけで。でもって、調べていたらもうちょっと離れたところに、「芋井神社」というのもあるらしくて。で、そこの祭神は、南方止売命(みなかたとめのみこと)で、南方刀美命(みなかたとみのみこと)が配祀されているということで。元々はここも「諏訪社」と言ったらしいのですが。っていうか、「芋井」という地名は要するに「妻科」と同じ意味であって、そこは「八坂刀売の土地」っていう意味だし、その辺りの諏訪社の真の主祭神は「南方止売命」の方なんだ? って思って。そこにも行ってこいって言われる気がするわけで@@。そもそも諏訪の衆も大姥サマ信仰だし、芋井郷の「神」も女神の方が上位なんだ? って始めて気が付いたわけで。西国において、かつては「八坂刀売」「八坂彦」であったものが、「南方止売命」「南方刀美命」へと変化し、更に東北へ行くと「志波姫」「志波彦」(「諏訪姫」と「諏訪彦」)へと変化していく道筋がやっと掴めた気がするのですが。

でもって、本日行ったところは、どう見ても本殿の建御名方富神よりも、摂社の弥栄神の方が大切にされていそうであって、重要な神社でもあるし、7番目の子がそこの弥栄神社を欲しがった、ということのようで。蛇の兄さんは、重要な神社なんだから、2人で共同統治した方が楽、って言うらしいのですが、氏子の人達は、そもそも諏訪神と弥栄神を同じものとして扱ってるんだから、新興の武塔天神の力が入り込んで来ることには反対したらしくて、微妙に揉めたらしくてですねえ??@@ 結局、7番目の子が、そこを支配することは認めたけれども、その後見は蛇の兄さんがしっかり務めるってことになったらしくて。「なんで、自分よりも「目の力」の強い人の後見をしなきゃならないのさ?」って呟かれた気がするのですが。世襲の神サマは、それはそれで大変ね? って思ったわけで。きっと明日もいろいろな勝負がある日なんだろうな、と思ったのです。