昨夜は特に夢も見ず。今日は現場に出向いて、細かい作業をしたり、買い物をしたりしていて。日曜日なのに、帰りの道は対向車線がラッシュ時みたいに大混雑していて、いったいいつからこの道はこんなに車が通るようになったんだろう? って改めて思うわけで。昔は田舎の閑散としていてい、車なんか通るんだか通らないだか、という道が今は来るまで目白押しなわけです。しかもフォルクスワーゲンとかしょっちゅう通るし-;。
で、けっこう長い間、ダラダラと呼んでいたロシア神話を読み終わったわけで。ロシアというのは東西に非常に広い国であって、西は北欧に接していますし、東はモンゴルとか中国に接しているわけで。そして、いろんな感想を持つわけですが、一般的に「神話」と関する本というのは、まずは神話そのものを書く傾向がある、というそういう気がするわけで。ギリシャ神話とか、トロイア戦争の話とか、物語としても読んで面白いものも中には含まれるわけで。日本の古事記も、物語風に読んでも面白いと思われるエピソードはいくつかあるわけで。でも、そういうのは単なる物語として存在しているだけではなくて、現実の祭祀と大きな関わりを持つはずのものなわけです。だけど、この神サマはこういう神サマだから、こういう祭祀がある、とかそういう説明というものはない場合が非常に多いわけで。神話は神話で、物語みたいなものであって、祭祀は祭祀で伝統文化、みたいに分けられていることが多い気がして。でも、北欧の神話と伝統を見ると、あちらのシャーマニズムというのは、シャーマンが鳥の扮装をして、太鼓を叩いて祭祀をする、ということがあるようで。そして、「言霊」というものをものすごく大切にしていて。祭祀の際に、祭司者が神をその身に降ろす(神がかりになる)のか、祭司者の精神が神々と同じ世界に上がるのか、っていうことがあるわけで、トランス状態に陥ってしまえば、いずれにしてもシャーマンが神と同一になることに変わりはないと思うので、要するに、北欧の「神」というのは、鳥の羽を持っていて空を飛び、太鼓を叩く存在(要するに雷神)であることが分かるわけで。で、彼らは神が降りる木(要するに雷が落ちる木)も信仰の対象であって、依り代となる木も神と同一視しているわけです。要するに、木に対する樹木信仰というのは、そこに降りてくる雷神に対する信仰と同じものということで。「カレヴァラ」を要するフィンランドの人々の異教時代の最高神は雷神であるユマラという神であったらしくて。そして時代が下るとウッコという雷神が登場するわけで。そして、彼らの太陽神はパイヴァというらしくて。そして、黄泉の国の神はトゥオニというようで。カレヴァラという民間伝承の中に登場する半神半人の人々は、本来は更に上位に存在する神々となんらかの連続性(親子とか)があったと思われるわけですが、そういう伝承は巧妙に消され、隠されているわけで。雷神「ユマラ」というのは、ymという子音から成ると名前だと思うので、それは元々dmという子音、すなわちインドで述べるところのダキニと同じ子音なわけで。北欧の雷神の名前は、ローマでは月の女神ディアーヌ、インドでは鬼女ダキニへと変化するわけで。で、雷神というのは樹木神でもあるので、ユマラは樹木神でもあるわけで。そして、北欧の人々の間には「熊信仰」もあって、彼らは熊を兄弟のようなものだと思う一方で、食料にもするし、犠牲にも捧げる、ということで。なんだか不思議な気もするのですが、ユーラシア大陸の北に住まう人々は、ロシアを挟んで西側は金髪碧眼の人々、東側の人はアジアのモンゴロイドの人々で、人種や民族は異なるはずなのに、彼らの文化やシャーマニズムは非常に似通っていて、祭祀に太鼓を用いるし、熊は神々と人の世界を繋ぐ重要な動物であって。アイヌにはチキサニ姫というハルニレの木の女神が存在するわけですが、要するに、その女神もまた雷神なのですよねえ? と気が付くわけで。ダキニ信仰のふるさとは、それこそ北方の熊を信仰する狩猟民にあるし、遠くフィンランドに住まう人々と、アイヌの文化の中には共通点がたくさんある、ということで。そして、彼らの雷神信仰は、ヨーロッパの体系だった神話の源流となっているわけで。太陽神パイヴァの名は「BB」という子音からなるわけですから、それはメソポタミアの太陽神バッバルと同じ名でもあるし、縄文系の人々の大姥サマ信仰とも同じものであって。そして、トゥオニというのは「TB」という子音からなる言葉ですので、それはユーピテルと同じ子音であって。要するに、北方の狩猟民が考える至高神である「雷神」とは、2種類あって、一つは雨をもたらし恵みをもたらし、人々を助けてくれる雷神であって、もう一つは人々から命を奪う黄泉の国の雷神なわけで。どちらも好戦的で恐ろしい「雷神」であっても、人々にもたらす作用は対照的であって、そしてその2つのバランスが取れていないと、世界はうまく回っていかないのだと思うわけで。獲物の命を奪って生きる狩猟民にとっては、どちらの神と「同一」となっても、誰かの命を奪わなければならないことに変わりはないわけですが。豊穣の雷神は、狩りの獲物をみなに分け与えて生命と豊かさをもたらしてくれるものであって。一方の死神の雷神は生者から命を奪い、財産を奪って豊かになる存在、ということで。同じ狩猟民であっても、どちらの雷神を信仰するかで、狩りの目的も意味も違うものになるということで。後者の場合は、家族ですらも喰らい尽くして、礼をわきまえず、ただ自分のみが肥え太るだけ、ということらしくて。「dv」という子音の「神」を信仰するということは、そういうことなんだー、って始めて思ったわけで。ディアーヌは家族のために狩りをするけれども、ユーピテルは自分自身のためのみに狩りをするということのようで。今、「dn」の名前を名乗るに相応しい神が2柱いる、ということで、北方の狩猟民の視線はその二神に注がれているし、それを知っている6番目の子は、彼らとの結縁を積極的に進めているということで。それで、神官長家の覚えがめでたくなってるのですね? って思うわけですが-;。
今日、道にちょっと迷って、御柱祭と思われるお祭りをちらっと見かけて。そこの神社も行ったけれども、その地域は大田田井の末裔が多く住まう地域であるけれども、彼らもまた豊穣の神の復活を願ってくれているのだろうか? と思って。
それから、家に帰ってきて「FNS歌の春まつり」をちょっと見て。ももクロが、島根県のど田舎の生徒が5人しかいない廃校寸前の学校に行く、という企画があって。ももクロのライブの時に、子供達が二本の棒みたいなものを手に持っていたのにふと気が付いて。それも、「太鼓のばち」を模したものであって、雷神信仰の象徴も同然であって、非常に祭祀的ですねえ? と思って。名前の通り「根の国」になるようにと呪いをかけられている出雲の地で、信仰されている雷神とは何者か? と問われれば、それは建御雷神であり、ユーピテルである者、と述べるしかないわけで。「生者を殺して、その財産を奪う死に神こそが、この世で一番裕福な者」って言われる気がするわけですがー;。
しかし、身内の話とかしていると、総本家の方からは、私の気性は死んだ祖父そっくりだし、だいたい直接会ったことのない人物になんでそんなに似ているのさ? って言われる気がするわけで-;。そのじいさんは、気にいらない相手は無視して威嚇するような人だったんだ? って思ったら、「その通り」って言われた気がするわけで-;。だいたい、私が親を押さえきれないのは、じいさんのようなやり方をするからで、祖母とか叔母がやるようなやり方でやったら、もっとマザコンだかシスコンだかのじいさんをきっちり押さえられただろうに、とかって言われる気がするわけで@@。大きなお世話というか、その祖母とか叔母のろくでもない態度は良く知ってるし、私にはあんな真似はできない気がするんだけれども? と思うわけで-;。だいたい、人は先祖の誰かには似るものははずで、私が誰に似ようが大きなお世話って気がするわけで-;。じいさんに似てるって言っても、男じゃなくて女の子で良かったって言ってくれるお婿さん達が何人も居てくれて良かったよ、って思ったわけですがー;。家にいても、毎日大変なわけです-;。(そういや仕事に来る大工さんの一人が、電話の着信音に福山君の曲(あまりよろしくない曲)を使っていて。毎日のように、聞こえよがしに聞かされるわけで。それも何かのいやがらせなんですかね? って思うわけですが??)