本日の日誌

ええと、昨日は「NEWS ZERO」を見て寝たわけですが、例によって「毒蛇の生き霊に取り憑かれてる」って言われる気がするわけでーー;。で、いつものように4番目の子と仲良くしようとしたら、蛙の子が蛇の男の子に首を絞められた気がするわけで@@。でもって、4番目の子が蛙の子を不憫がって頭をなでようとしたら、蛇の男の子に手を噛みつかれていた気がするわけで、なんかドン引きされていた気がするわけでーー;。最後には「必ず、その毒蛇から助け出しますから。」って言われてた気がするわけですが。で、その後、「恋の魔力」の動画を見ていたら、「自分とHした後に、他の奴らとはちょっとだけ仲良くさせてやる。」って言われた気がするわけですが@@。ていうか、言われることにも微妙に実感はないわけですが、どこぞの誰かの生き霊に強力に取り憑かれてる気がするという実感だけはある気がするわけで-;。源氏物語の中に六条御息所の生き霊が夕顔をとり殺す場面がありますが、今までは「生き霊」なんてものはないと思っていた気がするわけですが、最近では、どうも実在する気がしてならない、と思うわけでー;。「いくらなんでもやりすぎ」って言って6番目の子も苦笑いしていた気がするわけで。今日あたりから、誰かさんがもうちょっと鎮まるような気も送られてきているらしいのですが。でも、けっこう「誰が調伏されるもんか。」って言っていた気がするわけですが;。朝目が覚めた時には「東京にもあったんだ」がかかっていて、なんだか歌に合わせて他にも誰かが唄っていて、二重に聴こえるようなそんな気がして。

で、今日は時間がある時に動画の消化、ということで、今日は香取君のスペシャルドラマとか見ていたわけですが。でも、特に日本のドラマとかはここ何年もあんまり見ていないわけで、ストーリーもなんだか現実離れしているし、それに今になって気が付くことですが、割と出てくる人達が役柄と関係なくこちらにいろいろと言ってくるので。そういうのがイヤで、面白くなくてドラマを見る気をなくしていたんだなー、と思ったわけですが。

お昼寝していたら夢を見て、なんだか受験だか試験の仕上げに、最後に参考書を読まなきゃ、みたいな夢で。きっとこれから買う本のことを指しているんだろうな、と思うわけで。そして、バアラト・ゲバルという名前の女神のことを思い出したわけですが、そういえばニンフルサグの別名には、ベレト・イリーというものがあって。バアラトという言葉は、シュメールのベレトという言葉と同じだな、と思って。それで、「ものは言いよう」と思ったわけですが、バアラトという名前が「バアルの男性系」なのではなくて、バアルが「バアラトの男性系」であって、まずは女神ありきだったんだな、と気が付いて。で、「バアラト」というのは、貴婦人とか女王という意味なので、バアラト・ゲバルというのは「偉大なるバアルの貴婦人」とか、そういう意味なんだな、と思って。その起源の一つはシュメールのニンフルサグなわけですが、古代エジプトのハトホルに至ると「雌牛の女神」になってしまうわけで。敵の牛の肉を食べて、ハトホルの名前を得た、と言われる気がするわけで。古代の地中海沿岸地域の女神の名は、主にアン系、ヘバト系、イシス系、ハトホル系に分かれて、それぞれが強固に習合していますから、これらの名前を貰えば、だいたいの名前を貰ったことになるらしくて。で、昼寝から目が覚めた時には「暁」がかかっていたわけで。

本日の日誌

昨夜は、なんというか、敵から逃げ出したら、翔君に助けて貰って、匿って貰って、一緒に暮らした、という感じの夢を見て、で、目が覚めたら嵐の曲がかかっていたわけで。久しぶりにいろんな曲を聴いて寝たら、嵐とかゆずの曲がものすごく耳に響いた気がしたわけで。でも、朝方目が覚めたら「Dear」がかかっていて。

で、原始キリスト教の内、いわゆる「グノーシス主義」と言われるものが、女神信仰に基づくものだとすると、地中海周辺地域の「女神」の性質には、大きく分けて「母なる女神」と「妻なる女神」というものがある気がして。その辺りは、男系の文化と母系の文化が割と入り交じっていますので、純粋な母系社会に近づくほど、女神の役割は「母なる女神」に近くなるのだと思うのですが、男系と母系の思想が入り交じると、現実にも、割と普通に現代的な一夫一妻的な家族が増える気がするわけで、そうなってくると神々の「家族構成」もそういう感じのものが増えて、「夫と妻とその子供」みたいな構成が増える気がするわけで。そうすると、女神の役割に「妻」としての側面も出てくる気がするわけです。で、原始キリスト教と古代のユダヤ教を語る上では、思想が男系であろうと女系であろうと、神聖四字で表される「HWHY」という神の存在が問題となるわけで。で、この四文字は、ヘブライ語以外のアルファベットで現される時には最後のYが頭にきて「YHWH」と解釈されるらしいのですが。でも、この子音の「Y」というものは「T」が起源になっているわけですから、地中海東岸地域では、そもそも女神の名前の最後に「T」をつける傾向があるので、頭に持ってくるのはヘンと思うわけで。で、子音的にはやっぱり、アプロディーテとか、ヘバトと同語源の言葉ですよねえ? と思うわけで。で、この名前が「HW」と「HY」に分解されるものだとすれば、「HYHW」と2文字を前後入れ替えることは可能だ、と思うのですが。でも、そうすると古代エジプトのハトホル女神と同じ子音になってしまいますよねえ? とふと気が付いたわけで。で、古代エジプトの雌牛の女神ハトホルは、シリアのビブロスという都市では主神であって、バアラト・ゲバルという名前らしくて。前半のバアラトはバアルの女性形という説明があったわけですが、後半のゲバルというのも、Gは「great」という意味ですから、「偉大なるバール」という意味なわけで。地中海東岸地域で高名な「バール」という神の名を2つ重ねたものが、「バアラト・ゲバル」であって。で、これはシリアではアスタルテという女神と同一視されるわけで。で、「バアラト・ゲバル」という名前であれば、ハトホル女神とほぼ同一の子音構成であって、で、逆に「ゲバル・バアラト」とつなぎ替えれば「アプロディーテ」と同じ名前ですよねえ? と思うわけで。ということで、キプロスのアプロディーテ、フェニキアのバアラト・ゲバル、古代エジプトのハトホルは、ほとんど同じ子音構成の女神である、ということが分かるわけで。で、一方、シリアのアスタルテ、パレスチナのアーシラト(アシェラ)、古代エジプトのイシス、メソポタミアのイシュタルというのは「イシス系」の名を持つ女神群であって。古代エジプトでは、母神としての性質の強いイシスと、妻神としての性質が強いハトホルは別々の女神として見なされていても、エジプト外、特に地中海東岸地域では「同じ女神」として見なされる傾向が非常に強い、ということで。要するに、海の泡から生まれたとされるアプロディーテも、「海の貴婦人」と呼ばれるアーシラトも「同じ女神」と見なされるのだ、ということにふいに気が付いて。

で、旧約聖書の神聖四字「HWHY」は、本来的にはハトホルであり、アプロディーテでもあり、アーシラトとも呼ばれた「女神」のことを指すのだと思うわけですが、男系の文化が優位になるにつれて、男神に置き換えられたのだと思うわけで。そして、紀元前9世紀くらいの古代イスラエルの遺跡からは、「HWHY」とアシェラ(アーシラト)を1対の夫婦神として扱う資料なんかが出土している、ということらしくて。で、紀元前9世紀というとダビデ王よりもちょっとだけ時代が下った頃、ということで。たぶん旧約とか文書に残っている「男性の単独神」の神話は、男系の思想を優先していた王族とか神官階級の人々の「理想の神話」であって、もっと庶民的、一般的にはエールとアーシラトの1対を主神と仰ぐという信仰が広まっていたと思われるわけで。だから、後の時代にアッシリアの東の方に移動させられた北の人達からは、ゾロアスター教が起きるわけで、ゾロアスターのアフラ・マズダというのは、アフラ(アシェラ)・メルカルトのことだよね? それ? とふいに気が付くわけで。メルカルトというのは、フェニキアのティルスという町の主神の1つであって、アスタルテ(アシェラ)の息子神にして夫神という、そのあたりではありがちな神話を持つ神々のうちの1つであって。ティルスという町はフェニキア(レバノン)に属する街ではあるわけですが、レバノンのごくごく南西部にあって、古代の北イスラエルのすぐ北にある街、ということで。フェニキアの神々を流用してゾロアスターを興したんだ? とふいに気が付くわけで。北の人達は、バアル・メルカルトをアシェラの「夫神」、すなわち旧約における「神聖四字」の名の神と同じ神として扱ってたんだー、って思うわけで。バアルというのは、ペルシャ・インド的にはヴァルナ、ということで。これで、いろいろな名前が連続して繋がってきましたねえ? と思うわけで。北の人達のバアル・メルカルトが八坂大神に、アシェラが八坂刀売にと変化したのだと思うわけですが。

ということで、北の人達の「地中海東岸的信仰」は、やがてゾロアスター教へと変化するのだと思うわけですが、その一方、南の人達の信仰は、司祭階級などの人達の手による旧約の成立の過程とは別に、庶民レベルでずっと続けられており、一部は初期の原始キリスト教へと受け継がれていくわけで。原始キリスト教では、概念としては「ソピアー」が「救済の女神」として解かれたりする
わけですが、具体的には聖母マリアが「母なる女神」、マグダラのマリアが「妻なる女神」、イエス・キリストが「夫神であり、かつ子神」という位置づけをされていると思われるわけで。で、聖母マリアが概念的な女神であるソピアーと同一視される、ということになると思うのですが。この形式は、一人の女神が、母神と妻神を兼ねるという地中海東岸的な形式というよりも、むしろ古代エジプトのイシス・ハトホル的な形式なのか、と思うわけですが。ともかく、原始キリスト教のうち、特に母系を重視する一群は、「聖母マリア、イエス・キリストとその妻マグダラのマリア」という形式で、各地の母子神信仰を取り込み、吸収していったのだと思われるわけで。おそらく、その流れの中心的人物はマグダラのマリアだったと思うのですが。その一方、男系中心の思想を持つ一群は、同様の思想を持つローマに展開し、イエス・キリストを「単独の男性神」として扱うようになるわけで、そちらの中心的人物は聖ペテロであったと思われるわけで。だから、イエスが死んだ直後から、原始キリスト教会はマグダラのマリアを中心とする母系信仰群と、男系信仰を取り込もうとする「イエスの一番弟子」と自称した聖ペテロとの男系信仰群にほぼ2分されたと思われるわけで。ペテロが男系思想の強いローマに布教し、マグダラのマリアが母系思想の強いトルコのエフェソスに拠点を構えたのは、それぞれに理由のあることだという気がするのですが。でも、少し時代が下ると、ローマではむしろキリスト教が弾圧されるようになり、ネロ帝が大火の原因を原始キリスト教徒のせいにするという事件もあり、ローマにいたペテロもパウロもしまいには「殉教」してしまうわけですが。そういう「事件」の裏で糸を引いていたのは、どうにもエフェソスのマグダラのマリアだったのではないのか、という気がするわけで。この人はこの人で、同じ教団内でも、思想の異なる人々には情け容赦しなかったでしょ? という気がしてならないわけですが。しかし、そういう「内ゲバが常習」的な体質は、後のキリスト教にもしっかり受け継がれるわけで、時代が下ってローマ教会が優位になってくると、今度はローマが「異端」と認定した各派は弾圧の対象にされるようになるわけで。「改宗か死か」というような選択を迫られるようになるわけで、「改宗しないものは殺すことが救済である」っていう恐ろしい論理の元にどんどん人は殺されていったわけで。で、その結果、母系的な思想の原始キリスト教、いわゆる「グノーシス派」と呼ばれる思想は西洋では駆逐されてしまったわけですが。

でも、一方、ごくごく初期に東洋に布教された群の神話で、日本人が一番よく知っているものには、神宮皇后、応神天皇、仲皇后(応神の皇后)の3神の神話があるわけで。この場合、神功皇后が母神、応神天皇がイエス・キリスト、仲皇后がマグダラのマリア、に比定することができるわけで、その神話構成は原始キリスト教団の内でも「母系神話」の部類に入るものなわけです。要するに、この国に入ってきた「原始キリスト教」とは「グノーシス派」のものだった、ということで、そもそもローマの原始キリスト教ではなかった、ということをこの神話は示しているらしいのですが。で、神宮皇后を祀る「住吉大社」が何故海岸端にあるのか? と聞かれる気がするわけで。だいたい、そもそもこの神社は「海神」を祀っていた神社であって、そこに最後にやってきたのが神功皇后を擁する神社であって。要するに、神宮皇后というのは、原始キリスト教的には、聖母マリアに比定すべき存在だけれども、更にその前身といえる南の人達の信仰の中では、「海の貴婦人」と呼ばれたアーシラトに比定すべき女神だから、「海の女神」として、住吉大社に祀られているんだよ、って言われる気がするわけで。では、神功皇后とは、ヘブライのアーシラト、キプロスのアプロディーテと「同じ神」なんだ? ということで。母系であろうが、父系であろうが、原始キリスト教なんてろくでもない集団、と多くの同祖同族は言うかもしれませんが、しかし、ごく当初期にこの国にやってきた藤氏の先祖は、「自分達はグノーシス派の神官であり、イエス・キリストとマグダラのマリアの血筋を守ることこそが我らの真の使命」と思っていたらしくてですねえ?? ローマに対抗できるだけの「目」を持つ者が生まれてくれば、対抗する気満々ってことですよねえ? それ? と思うわけで。だから、同じく「八幡神」を祀っていても、宇佐はグノーシス主義の思想を支持していて、こちらに好意的、石清水はローマ主義の思想を擁していて敵意に満ちている、とそのようなことな気がするわけで。で、藤氏の祖神に相当する天児屋命とは、誰のことなのか見抜いて欲しい、と言われる気がするわけで。児屋というのは「小さい建物」という意味ですから、それは要するに小室という人、近頃めっきり老けちゃったTKのことかー、って思ったわけで。だから、その人の曲は限定付きで家に入れていいってことなんだ?? と思ったわけで。

それ以外はもう俗っぽいネタばっかりで、YOSHIKIという人は、東京ファッションウィークで、自分がデザインした着物のファッションショーをされたそうで。まあ、前衛的なお召し物ばっかりな気がしたわけですが、そういうことが海外のメディアでも紹介されるし、すごいと思ったのは、この人は自分が活動している国の言葉をけっこう真面目に勉強しているらしくて、どうも操れるのは英語だけではなさそう、ということで。やっぱり、努力家だし勉強家でもあるんだー、と思ったわけですが。でも、なんていうか、気性も凄く激しいところのある人でもある気がするわけで。割と、いろんな人から「なんで10人目の人と結婚する気になったのか?」って聞かれる気がするわけで-;。自分でも「さあ?」というか、割と一番実感がない気もするわけですが-;。でも、紳士で良い人ではあるのですよ、私の分身の蛙の子は、「その人が酒飲んで暴れたら逃げる」って言ってる気もするわけですが、ということでーー;。

で、もう一人の人については、いろんな人から「毒蛇の生き霊に取り憑かれてる」って言われる気がするわけで。そうでしょうとも? って、こちらは実感も自覚も「ある」わけですがー;。でもなー、福山君のところは、丁度「冬の大感謝歳」(年末のライブ)の、ファンクラブの優先販売の当確とかが出回る時期らしくて。わりと、いろんな影響を鑑みて、なんというか、スタッフの皆さまもすごい気を遣ってる最中な気がするわけで。ほぼ「他人事」で見ている私でも、一晩でtwitterのフォロワー数が1万人減ってるところとか見ると、さすがにギクッとするわけですがー;。でも、どこかで、こっそり「後は表の仕事をどうやって波風立てずに縮小していくか。」って呟いている人がいるような気がして。別に、そういう気持ちなら反対もしないけど、というか、私はいったい誰の言葉を聞いているのだろうか、と思うというか、兄さんは本当にそれでいいの? とはふと思うわけですが。(最も7番目の子なんかは、「男が自分で決めてやってることなんだから別に反対する理由もないでしょ?」っていう気がするわけですが。)まあ、誰もが自分がやるべきことをしていくしかない、ということで。

本日の日誌

昨夜は、「SmaSTATION!?」があって、ゲストが向井君であって。彼が登場した瞬間に、蛙の子に取り憑いている蛇の男の子が、蛙の子の後ろに隠れて、「あの人怖い」って言っているわけでー;。なんだか、「妻神を締め上げたり、脅したりして、ご迷惑かけて済みません。」って謝って頂いた気がするのですが。まあ、私もそれくらいされないと、分からないところもありますからー;、というか、誰かさんははっきりとそう思ってそうな気がするわけですが。香取君はシャツがチェックで、ちょっと微妙な服装でしたが;。でも、割とご機嫌で、せっせと目の力を送ってくれていた気がするわけで。

で、本日も時間的には余裕があったので、動画の消化兼整理とかしていたわけで。で、ときどきネットニュースも見たりしていて。で、流石に3週間も経つので、新婚夫婦がどうの、という感じのネタも一段落ついたわけで。で、まあ、1件だけ微妙な記事があって、要約すると、「芸能人が結婚すると、人気が下がることがあるけれども、福山君の場合はどうなるのか?」みたいな記事であって、で、記事の最後が「幸せになって欲しい」みたいな締めくくりであったので、まあ、全体としてはそれほど敵意を感じる文章でもないですし、今まで出た記事の中では、割と良い方かも、と思ったわけで。でも、そう思ったら、「どこが今までよりましなのか良く分からない」って呟く誰かさんがいる気がするわけで@@。蛙の子が「当事者が何言ってるの?」って突っ込んでた気がするわけですが@@。いや、でも、真面目に考えてみたら、誰かと誰かが「お似合い」とかって言うのって、結局そう言っている人の「主観」の問題になるから、そう思わない人からは反発しか来ないわけで。100人の内、90人がお似合いって言っても、それを残りの10人に押しつけることはできないでしょ、と思うわけで。残りの人が、どう思うかはまた、それぞれの人の判断だし、ということで。そういうこと下手に押しつけたら、逆にうざがられるのでは、と思うわけで-;。でもまあ、「もういい年だし、幸せになって貰いたいよね」っていう書き方なら、反対しにくい言い方だし、敢えてそれに反対すれば、反対した人が冷たい人みたになるじゃん? っていう気がするわけで。でも、なんで、私がそんなことを心配せねばならないの? ってふと思いましたら、誰かさんは私がこの手の記事を目にする度に、怒ってるので、冷静に対策をたててくんないからって言われた気がするわけですが@@。ええと、何それ? という気がするわけで。だいたい、どんな人でも、私のことは知っているわけですから、どんな記事が出回ろうとあんまり関係ないんでないの? という気がしたわけで。でも、そうしたら、言葉というものは「呪い」をかけることができるものだから、「良い言霊」が出回るように配慮するのは大切なこと。でないと、こちらが支払わなければならない分以上に、敵はそこにつけこんで持っていこうとするから、って言われた気がするわけで@@。そういうものなんだー、と思ったわけですが。まあ、「物は言い様」って言いますし、表に出回る言葉は、悪い印象を与える言葉よりも、良い印象を与える言葉の方が良いってことね?? って思ったのですが。でも、私に聞かれても、それこそ「神頼み」みたいな言葉しか出て来ない気がするのですけれども?; と思うわけで。

ものすごく、真面目な話、芸能人というのは、ゴシップ的なネタも含めて「表に出ている部分」というのは、全てが「商品」なわけで。で、そういうのは「イメージ」というものがものすごく付いて回るから、ご当人がイメージ通りの人、特に私生活においてそういう人かどうか、っていうことはそれこそ「消費者」の側からは分からないわけで。で、結局テレビとかCMとかでたまに見ているだけの消費者と、熱心なファンになって応援している消費者とでは、同じ「芸能人」が対象であっても、それぞれに持っているイメージって違うものだと思うわけです。ただで、テレビ見ているだけの人は、漠然とした印象とか、良く目や耳にするニュースとかでの印象とかでうっすらとした判断しかしないし、それ以上の興味は持たないけれども、熱心に応援している人は、お金を払って舞台だのコンサートだのに行くわけで。そういうところでしか見れないもの、というものもあるわけだから、当然一般の人とは異なる印象を持つわけで。で、ファンクラブなんかに入れば、特典みたいな形で、更により多くの情報を得られることになるし、そういうところで「提供する情報」を一般とファンの人とで差別化するのも「仕事の内」だから、ということで。だから、一般の人も、熱心なファンの人も納得する形で丸め込める「言霊」を探すのは意外と難しいんだあ、一般の人から見れば、上辺だけで「感じ良い」って思ってもらえることでも、ファンから見れば「らしくない」って言われるかもしれないし、ってことで-;。今までどおり普通に仕事してたら人の噂も75日みたいになると思うし、夫婦揃ってのイメージ操作とか、あまり手を出さない方が吉だと思いますけどね。だいたい、福山君って、なんだかんだ言って「保守的な九州男児」ってイメージがある気がするので、下手に「優しい旦那」とか、「共働き円満夫婦」をアピールするよりも、「女は家で大人しく家事でもして、男の仕事に口を出すな」みたいな印象を与えた方が、むしろ「らしい」気がするのは私だけ? というか、そっちの方が「結婚するなら、丈夫で料理が得意な人」っていう、割と出回っている発言と整合性がとれる、という気がするわけですが-;。そうしたら、「お仕事が忙しくて妻をほっとく」っていうイメージを作りたいときにも、整合性がある程度とれるし、っていう気はするわけですが。まあ、でも私も「表向きの福山君のイメージ」とか、あんまり良く分かっていない人なんで;。それに更に、ファンクラブ内で、「ファンに見せる顔」というのも全然分かってないので-;。あまり、何も言えることはない気がするわけですが-;。(でも、割と「客観的な女子の意見は貴重」って言われる気がするわけで。こういう私の見方や考え方は、「目の力」というよりも、一種の「才能」だから、若い人にそういう見方を学ばせたい、って言ってくれる人もいるようなのですが?? まあ、買いかぶりすぎですよ?? とか、そういう気もしないでもないですが-;。)

あとは、嵐が先月末に、宮城で復興支援のための4日間公演をした時に、地元の高校生と一緒に「感謝カンゲキ雨嵐」を合唱したということで、「密着・Arashi Blast in Miyagi」というドキュメンタリー特番があって、日テレ系列で放送されていたのを見たわけで。高校生が、一生懸命合唱の練習をしているところとか、いろいろあって「一人合唱部」みたいになってしまった子が、頑張ってコンサートに参加するまでのこととか放送されていて。そういうのを見ていると、昔、仙台に行った時に、多賀城跡とか、陸奥総社宮から塩竃神社までを一人で地道に歩いて回ったことを思い出させられるわけで。石井のファンも、最初の内は友達も多くて、みんなでご飯を食べに行ったりして楽しかったわけですが、医学部に戻らない意志を明らかにした頃から、それこそ波が引くように唐突に気が付いたら「誰もいない」状態になっていて。でも、神社とかに興味があって、それこそ一人であちこちこつこつと歩いて回ったわけですが。奥州の旅も割と独特であって。塩竃神社は一応観光地であったので、行けばそこそこ人はいたし、駅とか繁華街でも当然人はけっこういたわけですが、でも歩き回っている道中というのは、やっぱり人がものすごく少なくて。なんとなく、「こんなに人って少ないものなんだろうか?」とどこかで思っていたわけで。当時は、自分が何者であるかも知らず、東北の神々は見知らぬ名前が多くて。そして、なんで「総社宮」なんて言って、各地の神々を一カ所に集めてしまうのだろう? と思っていたわけですが。でも、今から考えると、それは神々を集めて押さえ込むためにやったことなんだろうな、と思うわけで。録画を見ていると、みんな私が孤独を抱えながら一人で、総社宮や塩竈神社を回ったことを知っているんだな、って思って。まだ10代の、ひたむきな目を持っている若い人達は、奥州の本来の神である志波姫と志波彦の夢を忘れないで欲しいって言ってくれて。どんな風に孤独を抱えて、私が歩き回っていたかも知っているって言ってくれる気がするので、ただただ涙がこぼれてきたわけですが。志波というのは「しは」と読むけれども、それは結局「諏訪」の東北訛りの名前だと思うわけで。そういう気持ちを、思いを届けてくれる嵐の兄さん達もいい人達だと改めて思ったわけですし、誰が志波姫と志波彦の名前を貰っているのかも、今は知っている気がするわけですが。

でも、現実的な問題としてはですねえ。福山君は、いったいどの辺りの落としどころを狙ってるのですかね? 最終的に「夫婦仲良くCMで共演」とかってところまで狙っているのであれば、それならそれで今から、しっかりイメージ戦略は長期的に練っていく必要はあると思うのですけれどもね。そういうことを狙うか、狙わないか、でも「イメージ戦略」っていう現実の理性のお話はシビアなんだけども? と思うわけで-;。でも、あんまりこの辺りまで、いろいろ言って、誰かさんに自分が締め上げられる羽目になるのが一番嫌なわけでーー;。神頼みも神サマの役もあんまり、精神衛生的に良いという気もしないわけですが;。まあ、でも、次は「トマス福音書」って言われるわけで。現実っていうのは、それぞれが何の関係もないように見えても、こんな感じなわけです。それが、一番奇妙といえば、奇妙なわけですが。

本日の日誌

ええと、今日は土間コンクリートに入れるのパイプの位置をチェックしたり、垂木の間違いに気が付いて少々直したりしていたわけで。

それ以外では、のんびりといろんな動画をチェックしていて。時々誰かさんから、合い言葉を言わされたりとか、そんな感じであって。なんというか、割といろんな人に、私は「同情しやすいタイプ」って言われる気がするわけで。それだから、敵と味方の区別がつかないと負けちゃうんですよ、同情したりすると、敵はそこにつけ込んでくるから、って言われる気がするわけで。自分では、そうなのかな? どうなんでしょう?? とか思うわけですが。今日は気分的には、かなりのんびりできた一日だったのでした。

で、後は「御堂関白日記」とか、「成功した先祖」にあやかるというのであれば、「トマス福音書」とか「マグダラのマリアの福音書」とかを買うべき、って言われる気がするわけで。イエス・キリストは処刑されてしまった人なので、後の時代の有名さとはうらはらに、誰も「成功した人」とは見ていない気がするわけですが、「マグダラのマリア」とその子供(とみなが言う気がする)のディディモ・ユダ・トマスこそが、真の「成功者」と言うべき、と言われる気がするわけで。

そして、「原始キリスト教」というのは、要するに各地に布教する際に、「自分達の神サマとあなたたちの神サマは同じモノ」みたいに言って布教して歩いていたので、母系の文化が強くて、女神信仰が盛んなところでは、ギリシャ的「ソピアー(ヘブライ神話におけるエヴァ、原始キリスト教敵には聖母マリアを指すらしい)」を「救い主」としていたし、ローマとか男系の文化が強いところでは、イエス・キリストそのものが「父なる神」みたいに言っていたと思われるわけで。で、折衷的なところでは、この2つを組み合わせて布教していたと思われるわけで。そういう点では、最初からはっきりとした教義なんてなくて、「布教ありき」だったと思われるわけですが。でも、時代が下ると「教義の統一」みたいな時代になって、ローマ教会が中心になって、他の派を「異端」として弾圧したり、自分達が相応しくないと判断した文書を聖書から外したりしていたわけで。地中海周辺地域では、イシス・オシリス・ホルス的な母子神信仰も盛んでしたから、そういう信仰は、「聖母マリアと幼子イエス」に受け継がれたわけですが、ローマは基本的には「男系中心」の思想なので、母子神信仰は形式的なものに留まり、教義の上で、女神信仰的な要素の強いものは、「外典」として「聖書」からははじき出される、ということになったと思うわけで。で、おそらく、ローマを中心にして布教していたペテロなんかは、元々男系の思想の持ち主であり、逆にトルコのエフェソスで勢力を誇ったと思われるマグダラのマリアの一派は、女神信仰を元にした原始キリスト教を展開していたと思われるわけで。後の時代のローマ教会の中で、「マグダラのマリア」の地位が非常に低く設定されているのは、元々彼女の打ち立てた派閥が、母系文化的で、ローマ教会の思想と対立していたものだったからなのではないか、と思うわけですが。ともかく、そういうわけで、ローマの定めた「聖書」から外れてしまった「外典」もある程度集めた方が良い、その方が古来よりの「母系」の文化を強く受け継いでいるものだから、ということのようで。

しかし、物事がある程度大きく動く時には、どうしても敵がそこにつけこんで来ようとするので、渦中にいる人達は気をつけていても、思っていたよりも敵に多く持って行かれがちになる、って言われる気がするわけで。そういう時に、状況を冷静に見て判断できる「目」は貴重って言われた気がするのですが。別に私も誰かさんの「お仕事」に対して、差し出がましい口はききたくないわけですが。でも、確かに昔、某石井に対して、そういうことをしょっちゅう言っていたのは事実であって。一応、微妙な難局?に対して、どう思うのか? ってこともたまに尋ねられる気がするのですが。でも、私が書いたことって、すぐに2ちゃんねらーとかに、ダイレクトに反映されるから、昔からそれがイヤでねえ? って思うわけで-;。で、昨夜は、いろんな状況に対して、私がどう思うのか、私に直接聞くように、ってアドバイスをあちこちから受けた誰かさんがいた気がするのですが。その結果、私は「同情しやすいタイプ」って言われた気がするわけで。そして、それ以外にも、左手と右手が両方、同じように使える人は、そもそも左右の脳を繋ぐ脳梁の発達が人並み以上であって、状況の分析は、その気になればけっこう得意かもしれない、ということをいろんな人が思い出したらしいのですが。たいしたことはなくても、割と微妙な一日ではあった気がするわけです。

ええと

本日は「打ち合わせ」ということで出かけて来ました。で、帰りに現場の写真を撮ってこようと思って忘れてしまいましたー;。(でも、設備工事が終わった時に一応撮ってはあるのですが-;)玄関の土間コンの高さとかは、皆さまと相談しながら位置を決めて、印をつけてきました。後はパイプの位置を微妙に修正したり。で、朝晩の寒暖の差が激しいので、そういうことで疲れてしまうというか、そんな一日だったわけですが。まあ、それなりにうまく話が運んでいてくれれば良いな、と思うわけで。

で、福山君の結婚報道は、報道そのものはやっと下火かな、という気がするわけで。だいたい、そろそろ約3週間ということで、そんなにいつまでもそのネタで引きずっていてもねえ? ということで。で、昨日辺りからネットを検索している内に、某匿名掲示板とか発見して。私も昔は、こういうのを見て、応援している人の評判とか見てたな-、とか懐かしく思ったわけで。まあ、その相手は例によって福山君ではなかったわけですがー;。で、愛しの誰かさんは、某夫妻が「お似合い」とか書かれている記事を、私が読むと怒ってるわけですが、匿名掲示板の方は読んでも怒らないらしい、というか関係者の多くは、私もストレスが多くて大変だろうから、「そのくらい読んでストレス発散すれば」って言う人が多い気がするわけですが-;。まあ、松本君のスレとかもあるよね? そのくらい楽しく読めるほど図太い方が良い?? と思うわけで(苦笑)。

で、まあ、「表向きな世界」ではありがちですが、そろそろ福山君の結婚ネタは、あんまり関心のない人にはどうでも良いネタになりつつあって、どうでも良くない、のは「熱心なファン」という感じに移行しつつある気がするわけで。まあ、独身の芸能人が結婚を機に急に人気がなくなる、というのは割と良くある話であって。だいたい、私が一番身近で良く知っていた例に「石井竜也」っていうのがあるでしょ、と思うわけで(苦笑)。この人も「表向きな世界」では、結婚→米米解散で、ライブの動員数も激減して、その後も離婚→再婚で、更にファンを減らした、という過去があった気がしてならないわけですが。でもまあ、何故か今でも芸能界で生きてるしねえ?? という感じな人なわけで。だいたい、こういう場合に表に現れてくる「ファン心理」としては、「今まで自分達が食わせてやっていたのに、嫁まで食わせて贅沢させてやる気はない」っていう言い分というか、そういうものが多い気がするわけですが。でも、私自身はあんまりそういう考え方も好きでないというか、娯楽だけを誠実に提供して貰う代わりに、応援するのが当たり前、ってむしろそういう考えの持ち主なので、応援してるアーティストとかタレントとかアイドルとか、いたとしても、その人が結婚したから応援をやめる、ということは個人的にはない、というか、そうじゃない典型的なファンだったみたいな過去がありますものでねえ、と思うわけで-;。まあ、だから「表向きな世界」だけのことを言えば、こういう場合に「ファン」というものが、どういう反応を示すのかといえば、「裏切られたっていう気分になってファンをやめる」っていうか、「アーティストとして応援してるんだから応援を続ける」っていうか、どっちかだと思うわけで。「裏切られた」って思う人の多少の罵詈雑言とか、離反はある程度はいたしかたないよね、その手のモノも昔散々見たわけで、私が個人的にそういうのは理解できないと思っても、その人がそう感じれば、それはその人にとっては真実だから、としか言いようがないわけで。どうせ、人気商売で、プライベートは徹底して隠すべし、って割り切るなら、結婚して生まれた子供が大学を卒業するくらいまで隠し通すくらいの気合いがむしろないとねえ? と思うわけで。どちらかといえば、結婚前はほぼ完璧に隠し通しておきながら、結婚後に「目撃情報」が、「伊集院」という名前の人から出て来て、それがタイミング良く火曜日辺りにニュースとなって出回る、という状況そのものが、すごいな、と思うわけで。「伊集院」って、島津家の分派で、薩摩の名字なんですよねえ、それ? と思うわけで。プライベートは徹底して隠す、という方針で芸能人をやってきた福山君が、そういう「目撃情報」を露出させて、人気の低下と引き替えに「何を得ようとしてるのか」ということには、興味あります、というか、そういう気がするわけで。だいたい、そういう目撃ネタがどこぞにあっても、抑えようと思えば抑えられるだけのバックは充分に持ってるんだから、敢えて抑えようとしてないよね、って思うわけで。どこに、衝撃を受けるかといえば、そこまでの代償を支払ってでも、話を円滑に、そして私にとって「楽」に進めようとしている誰かさんの本気度に衝撃を受けるわけで。自分の収入に打撃を受けるって分かっていて、そこまでする人は滅多にいないんだあ、ってそれは思うわけで。まあ、これが「表向きの世界」だけの話であって、私がスタッフであるとすれば、福山君にはHPの更新も、twitterの書き込みも、プライベートの露出を徹底的に控えることも、すべて「今までどおりに」って進言すると、そう思うわけですが。まあ、客観的にいえば、そう言うしかないわけで、メディアに「お似合いの夫婦」なんて言わせるのは、関心のない人にとってはどうでも良い話だし、関心のあるファンにとっては、それだけでもむしろ「リスキーなネタ」だと思うわけで。だいたい、そう言ってるのが、桑田とか釣瓶とか伊集院とか? なんか、味方じゃなさそうな人が言っているのがイタイ気がするわけで-;。第一報が出た時に翔君が言ったのは、「社交辞令」でしょ? ということで、まあ、個人的にはそんな気がするわけですがーー;。