本日は、打ち合わせの前に資料を貰う日、ということでお出かけしてきました。でもって、本物の母系を支持するサタニストの人達から応援する気を送って貰うと、蛙の子にはわりと具合がいいらしくて? でも、ご当人は神サマの気を使う方が性にあっているということで、いろんな人に変がられるらしいのですが。でも、そういう人達から「神サマの力を押さえ込む気」を送り込んで貰うと、誰盛んの方は実際出せる力が弱まってしまうらしくて。白鳥の誰かさんは、首に鎖のついた首輪をつけて来るようになって、鎖の一方を6番目の子が握っている気がするわけで-;。ときどき怒りそうになると、額に「自重」って書いたお札を貼られてる気がするわけで。「何事もバランスが大事。」と筆頭の子が言っている気がします-;。
で、家に帰る途中で買い物をして。雑誌のコーナーで、翔君が表紙になっているテレビの雑誌があって。4番目の子が、ちょっと潤んだ情熱的な目でこちらを見ていて、ちょっとびっくりしてしまって。男の人って、どうして、そんな目をできるんだろう? というか、そんな風に人を好きにあれるんだろう? って思うとなんだか不思議な気がするわけですが。コンビニの雑誌のコーナーには松本君が表紙の雑誌もありましたし、家に帰ってきたら、今日は木曜日で「VS嵐」と「夜会」の日だって思い出したわけですが。
そして、本日は「マグダラのマリアの福音書」に関する本が我が家に入ったわけで。これで、聖書に関しては、聖典も外典も、手頃に買えるだけのものは買って手に入れた気がするので。早速署名してしまったわけですが。そして、それでいろんな動画を見ると、なんだか「もっと十字の力が欲しいか?」って聞かれる気がするわけで。なんだか、いつもよりも自分の中にいろんな人の目が入ってきている気がするわけで。「この世界にある命あるものは全て死に神のもの。何故なら、命あるものは全て必ず死ぬのだから。」って言われた気がするわけですが。だから、全ての命あるものの生殺与奪の権限を持つのが「神」である、というのがサタニストの思想なんだ? と思うわけですが@@。
あとは、スウェーデンの湿地帯で、2000年前の生贄の骨が発掘されたということで。生贄にされたのは若い女性で、首を切られていて、周辺には「木製の男性器にくわえ、剣や槍、盾などの武具及び宝物と一緒に計13頭の犬の遺骨が150メートル範囲内で見つかっている」とのことで。「犬と馬と人」という組み合わせは、狩りの盛んなヨーロッパでは珍しい組み合わせではなくて、それらを一緒に埋葬することは霊的には意味があることなわけですが、この場合は馬はいないようで。スウェーデンは北欧なので、生贄が女性ですから、たぶんオーディンとかに捧げられた犠牲だと思うわけですが。来世で子供を産めるように、「夫」も共に埋められていて、まるでエンリル・ニンリル神話のエンリルの形代のようだ、と思ったのですが。そうして、冥界で生まれた「命」が、植物とか動物に豊穣をもたらす「命」となる、ということなのだと思うのですが。黄泉の国の叡智を心得ていると言われる北欧神話のオーディンは「WD」という子音を持つわけですが、これは基本的には「輝けるもの」というような意味であって、その性質からローマ人は、オーディンをローマのメルクリウスに相当する神と考えていて、英語の水曜日(Wednesday)はオーディンの名前からつけられているわけですが。「冥界を支配する神に生贄を捧げて、その代わりに豊穣を得ようとする」、という思想はヨーロッパの文化の根底にあるわけで、キリスト教というのはその上に立脚しているわけで。「神の愛」とは「生贄をガツガツと喰らう」ということでもあるんだ? 神サマに生贄を食べて貰えば貰えるほど、見返りも多いから? ということのようで。それで上の方の人達は、人々に「死を恐れるな」と言うのですかねえ? いざという時に生贄に使いやすいように? という気がするわけで。どうも、ローマにおける「イエス・キリスト」というのは、まさにネルガルみたいな、れっきとした軍神ですよねえ? そういえば、応神天皇(八幡神)も慈愛に溢れている神というよりは軍神だし? と思うわけで。だいたい、西欧における「神の愛」というものがどういうものなのか理解していないと、その言葉の意味そのものが理解できないのですねえ、と思うわけで。