アフラ・マズダ

ちょっと前に、某所から「大姥サマの鎌」の気を貰ってきて、写真を蛇の兄さんに送りましたら、それは邪気が強すぎて、自分には直接取り扱えない、と言われてしまったわけで。で、紆余曲折の末、その「気」は「月型の髪留め」に変換して貰えたわけですが。その後も、古い同盟の約束に従って応援の気を送ってくれるのはいいんだけど、東国の縄文系の人々の「気」は雑気が多すぎて使いにくい、って嘆かれるわけで。どういうこと?? と思っていたわけですが。

で、ゾロアスターのアフラ・マズダがヴァルナのこと、ということはあちこちに描いてあるわけです。で、「アフラ」というのは「イシス」の名が変形したものですので、ゾロアスター教のヴァルナとかミトラは、アフラ神族(要するにイシス神族)のヴァルナとかミトラというべき存在なようなのですが。ではなんで、アフラ・ヴァルナと言わずにアフラ・マズダなの? と思うわけで。マズダとは「Mazdā」と書きますから、エジプトのメヒト女神、ギリシャ神話のメドゥーサに相当する名前ですよねえ、と思うわけで(ギリシャの北にあるマケドニアの名前の由来もメヒトですよねえ? と思うわけですが)。イシス・メヒトは同系統の女神ですから、習合して扱われていてもおかしくはないと思うわけで。そういえば、メヒトと同系統の名前を持つサイスの女神ネイトは、ほぼイシスと同じ扱いじゃなかったっけ? と気が付いて。この2神を習合させるような信仰がどこかになかったっけ? と思っていろいろと調べたのですが、答えは意外なところにあって。旧約聖書によると、エジプトに奴隷として売られたヨセフの妻は「アセナテ」という名前の、エジプトの神官の娘ってありまして。「アセナテ」っていうのは、「イシス+ネイト(メヒト)」を併せた名前ですよねえ? ということで、ヨセフとアセナテの息子とされるエフライムとマナセが、後のエフライム族とマナセ族の先祖とされるわけで。で、Wikipediaには「初代北イスラエル王国の王ヤロブアム1世はエフライム出身であったので、紀元前745年頃から、北イスラエル王国はエフライムと呼ぶようになった。」ってあるわけで。北イスラエル王国の歴史はクーデターに次ぐクーデターの連続ですので、初代の王の子孫がそのまま王家として残っているのではないわけですが、国名が「エフライム」というのは、それなりに意味があることであって、要するにそれは、「ヨセフの子エフライム」がユダヤの正統な「嫡子」であるっていう思想の表れだと思うわけで。そもそも旧約では、ユダヤの太祖アブラハムから、その息子イサク、そのまた息子のヤコブへと家督は受け継がれて、このヤコブが神と相撲を取って勝ったのでイスラエルという名前を貰った、という展開になるのですが。(そもそもよく考えたらイスラエルの「エル」とは「神」という意味ですから、イスラエルとは「イスラ神」とでもいう意味になるわけで、それは立派なイシスの別名、ってはたと気が付くわけなのですが。)で、ヤコブの父イサクには「イサクの燔祭」という有名なエピソードがあって、神がアブラハムの信仰心を試そうとして、一人息子のイサクを燔祭に捧げるように命じたところ、アブラハムがそれを実行しようとしたので、神はそれを止めて、アブラハムの信仰心を称え、子孫を繁栄させてあげよう、と約束した、という内容なわけで。で、イサク、ヤコブ(イスラエル)と続いて、ヤコブにはラケルという最愛の妻がいたのですが、その妻が産んだのがヨセフとベニヤミンなわけで、ヤコブがヨセフを寵愛するので、彼は兄たちに妬まれて奴隷として売り飛ばされてしまうわけで。それでエジプトに売り飛ばされたヨセフは逆にそこで出世して成功したので、故郷のカナンが飢饉に陥ったときに家族をエジプトに呼び寄せた、ということで。たぶん現実的な真実味はあんまりなくて、みんなエジプトに攻め込んだヒクソスの子孫なんじゃないの? と思うわけですが、これが十ニ支族の起源譚になっていますし、人間の燔祭禁止の起源譚にもなっているわけです。だから、後の時代にある意味、全部対等で平等でなければならないはずの、十ニ支族の中にも「誰が正統なイスラエルの後継者なのか?」という意識がもしかしてあったんだ? と思うわけで。で、ともかく北イスラエル由来の人々はゾロアスター教を興し、アフラ・マズダ(イシス・ネイト、すなわち彼らの伝説的な先祖である合成女神「アセナテ」)の名をとって、周辺の異民族と混血習合していったんですよねえ? と思うわけで。ということで、ゾロアスターとはエフライム族の末裔だったんだ? と思うわけですが。で、そこまで思うと、「ユダヤの正統な王家は、エフライム族の王家か、それともユダ族の王家か?」って聞かれるわけで@@。そんなことを今更論じることに意味はあるの? って思うわけですが。

そもそも、南の王国の人達がバビロンの虜囚から戻ってきて、長い時間をかけて纏めあげたのが「旧約聖書」ですよねえ? と思うわけで。でも、旧約というのはダビデ王家の正統性を強く謳っている書であって、それがキリスト教時代に入ると、「ダビデとソロモンの子孫」を自称するイエス・キリストの興したキリスト教の正統性へと変貌していくわけで。で、今になっても北と南の人達の間には、相容れない「何か」があるとしか言えない気がするのですが、それに気が付かなければいけないということで。

で、いろいろと調べていたのですが、旧約には「エステル記」というのがあることを思い出して。「エステル記」というのは「不思議なことにこの書の中には神、主という言葉が全く見られない。」という話なわけですが。これは、アケメネス朝の時代に、ペルシャに住んでいたユダヤ人モルデカイと、その養女エステルの物語であって。エステルはその美貌から、ペルシャ王クセルクセス1世の妃の一人になったわけですが、ユダヤ人であることを知られたくなくて(差別を恐れて?)、素性を王に隠していたわけです。で、王には悪い臣下がいて、ユダヤ人を皆殺しにしようとしたので、エステルは遂に自らの素性を王に明かして、同胞を助け、逆に悪い大臣とその一派を皆殺しにして、で逆にその大臣の財産をエステルとモルデカイが手にした、という話なわけで。どうにも史実ではないようなのですが、エステルはユダヤ人の危機を救った女傑ということで、彼女の故事に倣ってプリム祭というお祭りがあるわけで。で、彼らの名前を見るに、エステルというのは、アセトと呼ばれた「イシス」のことですよねえ? と思うわけで。で、一方のモルデカイというのは、バビロニアのマルドゥクに由来するということで、モルデカイというのは現在でも一般的な名前らしいのですが。で、マルドゥクのアッカド名は、「アマルトゥ」で「太陽の牛」を意味した、ということでマルドゥクは立派な「牛トーテム」の神サマなわけです。

また、ソロモン王はモレクの祭祀を行った、ということで。これは人間の子供の燔祭を伴う祭祀ですので、一応表向きはソロモン王はそのために神の怒りを受けたことになっていますが、旧約にはそれ以外にも、人間の燔祭を捧げた記載がいくつもありますし、全体の構成そのものがダビデ王家に連なる人々を褒め称える構成になっているわけで。そして、アケメネス朝はバビロン捕囚で苦しんでいたユダヤ人を解放した王朝であって、ゾロアスター教を信仰していましたが、宗教が自分達とは異なる異民族にも寛大な国家であったので、逆にユダヤ人を皆殺しにしようとした陰謀があったりとか、それを逆手にとって敵対者を皆殺しにした、とかそういう話の方が奇妙に感じられるわけであって。そして、ゾロアスター教の神話においては、牡牛をトーテムとする人間の燔祭を好むデーヴァの神々は、ダエーワという「悪魔」とされて善神と対立することになるわけで。これを「善悪二元論」と呼ぶわけで、この考え方が後の西洋の思想に大きな影響を与えた、と言われるわけですが、それまで「神」であったデーヴァの神々を「悪魔」として、人間の燔祭を行うことを明確に「悪」としたのがゾロアスター教なのだと思うわけです。そして、アケメネス朝の首都であったペルセポリスに残る壁画には、獅子が牡牛に食らいつく絵が描かれているわけで。こういう絵は「象徴」ですから、アケメネス朝の王権者は「牡牛トーテムの思想を敵と見做す」という意思表示なわけで。ゾロアスター教は時代が下ると周辺地域の神々を取り込んで多神教へと移行しますが、そもそもの始まりはアフラ・マズダーだけを唯一の神として信じる、というものだったわけで。ユダヤの民の信仰は、公式にはずっと一神教だったわけで、HWHYというのは、おそらくホルアクティのことですから、イシス女神の民の擁する唯一のホルス神といことで、おそらくその性質には夕日の神アテン神的なものも含まれていたことと思うわけで。彼らのHWHYの神は、父であるオシリスと、子であるホルスが習合したものであって、女神にしてかつ母神であるイシス女神を暗に隠し、守っているというものだと思うのですが。でも、カナンの地は本来多神教ですから、周辺地域の信仰とも接触があるわけで、聖書でも非難の対象になっているバアル(印欧語族のヴァルナ)とか、モレクの神とかが信仰の対象にされたわけですが。結局、どんな名前の神を信じようと、「牡牛トーテムの神を祀って人の燔祭を行うか否か」ということが大きな分かれ道になっていて、結局それが略奪主義とか搾取主義を容認するのか否か、ということに繋がっているわけです。何故なら、人食いの牡牛の神サマは略奪と搾取の神サマで、それを「悪魔」としたのがゾロアスター教の人々だから、ということで。だから、3000年も前に失われてしまった王国の真の後継者が誰なのかと言うことを人々は神に問い続けずにはいられない。牡牛トーテムを容認する人々の子孫の中から登場した過激な略奪思想を持つイエス・キリストが興したものが原始キリスト教であり、一方牡牛トーテムを否定したゾロアスター教の流れを汲むものが仏教とカアバの信仰だから、と言われるわけで。

で、旧約聖書はバビロン捕囚から故地に戻った人々が時間をかけて纏めたもので、ゾロアスター教の影響なんかも受けて成立した、と言われているわけですが、「そもそもそれはゾロアスター教に対抗して、ダビデ王家を正統化するために書かれたものなんだよ。だいたいアフラ・マズダ(イシス・ネイト)という名前はイスラエル(イシス女神)と同じ名前なんだから、十支族が失われた、なんて言うのがあり得ない話で、みんな誰がどこで何をしてたのかお互いに知ってたんだよ。」って言われるわけでーー;。それで家に旧約聖書も新訳聖書も入れてはいけないんですねえ? と思うわけですが。しかし、それならそれで非常にシンプルにこう言うしかないでしょう。アブラハムとイサクの末裔を名乗り、子牛に対する信仰を禁じたモーセの教えに従うと述べる者であれば、ただその教えのままに従うエフライムの王家を選ぶべし、と。ということなわけですが。

それにしても、デーヴァの目を持っている人の魂の姿は片目であったりするわけで。なんというか、西洋の人達は自分達の信じる神サマに併せて、それに特化した気を使うやり方を磨き抜くことで力をつけてきたから、デーヴァの神サマに併せた力ばっかり磨いてくるとそういう姿になってしまう、とそういうことのようで。で、一応西方社会では、「MK」の子音で現されるメヒト系の神々と、「MB」の子音で現されるモレク系の神々は厳密には区別される、ということで。その差を見つけて欲しい、と言われるわけですが。でも、この2群の神々は起源的にとても近くて、本来は「MKBT」という子音で現されていたと思うわけで、一番原型に近い名前の神はエジプトの女神ネフティスだと思うわけです。そして古代エジプトとメソポタミアの両方にまたがって、ムシュフシュという神獣がいるわけですが、これが「毒蛇の頭とライオンの上半身、鷲の下半身、蠍の尾を持つ。」という怪物なわけで。で、ナルメル王のパレットと呼ばれる古代エジプトの古い時代のパレットにその姿が描かれていて、それによると2体のムシュフシュが向き合って、その長い蛇の首が互いに絡まって「8」の字型になって「永遠」を意味する象徴となっていますので、これは他の神々が台頭する以前の古い時代の「始めと終わり」を意味する権威ある神であったと思うわけで。これが時代が下ると、阿吽の相を示す2頭の獅子神であるアケルとかに移行すると思うのですが。で、ともかく「ムシュフシュ」という名前ですので「MB」系の神だと思うわけで。で、この4つの獣を併せた合成神が、時代が下るとどうなるかというと、「死者を守護する4柱の女神」へと移行するわけで、それがイシス(鷲→鵄)、ネフティス(蛇)、ネイト(獅子)、セルケト(蠍)へと変化し、これらの女神達が「死者の復活と再生」に重要であると考えられていたわけで。みんな大雑把にいえば、ムシュフシュの名前や性質から分かれたもので、元はムシュフシュなんでないの? と思うわけですが。更に時代が下ると「MB」とか「DB」の子音を持っている神とか、牛をトーテムに持つ神々が「人喰い」の神々として特別な存在になっていくわけで。で、彼らの一部はなりふり構わずいろんな屁理屈をこねて自分達のやっていることを正統化しようとする、ということでーー;。だから、元は「MB」とか「DB」の神々も他の神サマ達と起源は似たり寄ったりなわけですが、デーヴァ信仰の人達はそれに合わせた目の力を磨いてきたし、そうでない人も自らの信じる力を使うように心がける、ということで、あまり自らの信じるところとは異なる「気」というものは使わないし、使えないし、そういうやり方を西方の人達は「洗練された気の使い方」と言うって言われるわけで。でも、縄文系の人々からみれば、ミサクチの神サマも、モレヤの神サマも「同じもの」ということで、しかも、古い時代の同盟によれば「漏矢の神(MBの神)も、諏訪神も同じものとするのがお約束」ということで、西方の人達がするように、「この神サマにはこういう気を送る」ということがなくて、いろんな気を送りつけてくるのでやりにくい、って言われるわけで@@。しかも、漏矢の神の気を送って来られると白鳥の姿を取れなくなって、ハゲワシのヌト女神の姿になっちゃう、って嘆かれるわけで@@。それは「MB系の神」である武藤天神を食い切れ、という陰謀では? と思うわけですが。そういう気を送って貰うのを止めて貰うと、また白鳥の姿を保てるようになるらしくて。しかも、昨日辺りから、白鳥の姿を取る時には「王冠」を被った姿で現れますよねえ? と思うわけで。みんなに「お前が王様だろ」っていう気を送られると、自分でそうなりたいと思わなくても姿が変わっちゃうんだよ、って言われるわけで@@。確かに3000年も前に無くなった王国の主権者が誰かなんて、今更言っても意味が無いことなんだけどねえ、とは言われるわけですが。なんだか、そういうだけでは済まされないことも世の中にはあるということのようで@@。

で、昨日辺りから、時間的にちょっと余裕ができたので、ネット上でいろんな動画を見ていたのですが、某所で「Heart」を出した頃の福山君の動画をみつけて。もっと若い頃の「Hello」とかを出してヒット曲をけっこう出してた頃の動画もけっこう見れる分は見たのですが、一時期2年くらい音楽活動をお休みしていて、で活動を再開して出した曲が「Heart」ということで。私が大学時代に出していた曲の頃は、まだ少年らしいあどけなさとか気楽さが表情に残っている気がするわけですが、「Heart」の頃はもっと大人っぽくなって、厳しい表情になっている気がして。この後もいろいろと大変なことが続いたし、たいへんな思いをしていた2年だったんだろうな、と思うわけで。で、今日は今日で、「Beautiful life」のPVを見たわけですが。アカペラのCMバージョンってまるでプロポーズしているみたいな感じですねえ、と思うわけで。「Beautiful life」は2012年の曲なわけですが、この頃もなんだか心配そうな顔してますねえ、と思うわけで。私の中の福山君のイメージって、パーマをかけていて、ちょっと飄々とした人という感じであって、だいたい「生きてる生きてく」をリアルタイムでテレビで見てた頃のイメージが強いわけですが。でも、「生きてる生きてく」の後は髪をストレートに戻しちゃいましたね、って思うわけで。でも、PVを見ていても最近福山君の目の力も強くなった気がして。それもなんだか不思議な気がするわけですが。

で、日本の国では、古来から6月末に大祓という祭祀があって「茅の輪」というものをくぐると、無病息災になるという考え方があるのですが。これは、神社の境内とかに大きな輪を作って、その中をくぐるというもので、しかもお作法があって「8の字」を描くように廻らなければいけない、ということで。蛇の兄さんからは「関わっちゃダメ」って言われるわけで。で、なんで? って思うわけですが、「8の字」を描くように茅の輪をくぐるというのは、ムシュフシュに代表されるような人食いの死神が永遠たれ、っていうことだからダメ、というか、それは「黄泉の国」に生まれ変わるという儀式なんじゃないの? という気がするわけで。

そして、ヤコブが神と「相撲をとって勝った」というエピソードは、古事記の建御名方富神と建御雷神のエピソードに流用されて、勝者である建御雷神の方が、「正しいから勝った」みたいな感じで使われていますよねえ? と思うわけで。これっていやがらせ? と思うわけですが。まあ、どうせそんなところだろう、ということでーー;。