しかし

バビロニアの軍神かつ太陽神といえば、マルドゥクの他にネルガルがいたはず? と思うわけで。いろいろ調べると、要するにネルガルはクターの主神、マルドゥクはバビロニアの主神、ということで、どちらも「蛙」という名前の女神を妻にしていますから、根本的には「同じ神」が2つに別れたものかと思います。マルドゥクはメヒトから派生した「太陽神」ですが、その一方ネルガルは「偉大なるN」という意味なので、メヒトの子音の「t」はそもそも「女神」を意味する言葉ですので、男神に変更されれば、使用する意味がなくなってしまうので、外れてしまっても不思議ではないわけで。かくして、印欧語族の助力を得て、行ったこともない祇園の頂点に君臨した「印欧語族の神」である「ミトラ・ヴァルナ」に対して、正式に「ローマの主神を誰とするのか?」という問い合わせが来てるんだから、その質問には明確に答えておいた方がいい、って言われるわけで。じゃ、それはマールスということで、って言うしかないわけで。

じゃあ、ついでに八坂神社の主神は、頗梨采女と諏訪社の建御名方富命ということで、って言っても良いわけで。「そこまで言うと、関係者から微妙に苦情がくるぞ。」って言われるわけですが。でも、質問が「印欧語族の神」に対して来ている以上、印欧語族の意思を尊重せざるを得ないし、彼らは力のない神サマを認めてくれないから、素戔嗚尊と櫛稲田姫命って言えないでしょう。彼らが好むのは、夫神に守られているだけの女神ではなくて、自分で八岐大蛇を狩り出すような狩人の女神なんじゃないの? と思うわけで。なんか、農耕の豊穣の女神のはずが、どう見てもトラキアのベンディースとか、ケルトのエポナみたいな方向性になってしまうわけで;。だいたい、蛇の兄さんから「琥珀の目」は「可愛らしい表現で、ケルトのエポナ」って言われるわけで、でも、その女神は馬に乗って男と共に戦場を駆け回り、戦の熱狂を煽って、男達を戦死に追い込んだ後、彼らの魂をあの世(要するに一生懸命戦ったのなら、行き先は「天国」的なところだと思うわけですが)につれて行くっていう系統の女神ですよねえ? 「可愛らしい表現」で「ケルトのエポナ」って言われても、それは男を死においやって、あの世につれて行く死に神女神という、「可愛らしくない女神」な気がするんですけど?;; って思うわけで。というわけで、返答はこんななわけです。祇園における、主神が武塔天神と頗梨采女であることは変わらず、ただ、その「神」の名前を貰った人が入れ替わっただけなら、誰も文句言えないでしょ? 実力でその地位を得たんだから、って言われるわけで。まあ、そういうことなわけです。

「八」の意味

あちこち山奥をさまよい歩いて、微妙に花粉症気味なわけですが;。

松本にある石清水から別れた八幡宮に行った時に、帰る道中で、そこに残してきた私の気が、本殿の神域の中に入り込んで、誉田別命を自分の持っているハンマーでボコボコに殴っているって言われるわけで@@。何それ? というか、出てくる時にですねえ、千曲の八幡と同様、「鳥居から出ないで、気を残していけ」って蛇の兄さんに言われたわけで。で、どっかの教授からは直接「ちゃんと出口から出ろ。お前は昔から行儀の悪い女だった。」って言われたものですから、当然鳥居じゃないところから出たわけで、しばらく「出口から出ろ;」ってけっこうガアガア文句は言われたわけですがーー;。で、私の気が、人の目には見えない神域に放った神火が石清水の本殿にまで飛び火してるって言われるわけで。「自分の目にはそういうことはできないし、それは「火付け強盗の目」」って兄さんから言われるわけでーー;。で、誉田別命に対してそういうことができるのなら、鹿島の神にも同じ事ができますかねえ? とお尋ねしましたら、「さすがにあの男は力が強いから、そんなことさせないでしょ。」って言われたわけで。

で、毎日工事は進むわけですが、いくら頑張っても、どこでどんなゴミを入れられるのか分からないので、これからはどう頑張っても敵が入れた呪いをどうやって喰いきっていくのかという力をつけることも大事、って言われるわけで。ゴミは最小限に、呪いも最小限に、ということで。で、昨日寝る前にいろいろと検索していましたら、複数箇所に「鉢伏」とか「八布施」という地名があることを発見して。これって、「同じ意味」だと思うわけですが、そもそもどういう意味なんだろう? と思って。「八」がそこにいる、っていう意味? とかって思うわけで。気になったわけです。で、朝になって出かける道中で、牛頭天王と結縁したので、祇園の八坂神社では、女神の気が強まっている、と言われるわけで。祇園の女神といえば頗梨采女(波利采女とも書くらしくて、はりさいじょ、と読むわけですが)で、南海の海神の娘と言われるわけで。で、頗梨采女の朝鮮版は? って聞かれるわけで。それは「鉢里公主(バリ公主)」でしょ? って、そこに「鉢」の字がありますねえ??@@ って思うわけで。ミトラ・ヴァルナが1対の夫婦神とすると、夫の弥勒がミトラで、妻の鉢里公主がヴァルナなんだ?@@ って気が付いて。ということは、「鉢」とか「八」とか「波」って、ヴァルナを象徴する言葉であって、「八」ってヴァルナのことなんだ?? と思うわけで。それが隠された「ヴァルナ」の聖数って言われるわけで。ミトラ・ヴァルナは1対の神であるので、どちらが男神で、どちらが女神であっても、それらの名前を貰った女神は、女神としての力を行使できる、って言われるわけで。「八」の字の秘密を見破ったということは、頗梨采女認定ですか? って思うわけなのですが。ともかく、そうすると「八」に関わる呪いが減ることになるということのようで。なにせ鉄製品は「八幡製鉄所」系列の製品が非常に多いので、「八」の呪いを軽減するにはこれが一番、ということらしくて。(というか、職人さんたちには、「それだけ呪いの効かない目を持ってれば充分だろ;」って嘆かれるわけでーー;。でも、蛇の兄さん的には伝統の「切り込み」を入れても鉄製品の呪いを抑える力が、私の場合けっこう弱い、って言われるわけで。もっと強い力が使えるようになるために、今夜は大幅な組み替えが必要、って言われるわけで@@。いろんな封印が解けてくると、そうやって自分の弱い力を他の人の力を借りて補えるようになるようで、そうやって力をつけなければいけない、って言われるわけですが。)結局、古き印欧語族の神ヴァルナは、インドの神話なんかでは新興の神々に押されて、次第にその地位が低下し、役割も減少しているように言われるわけですが、現実にはそんなことはなくて、ローマにつかまり、最大限にその本来の力を利用され、ローマとほぼ一体化しているかのように扱われているのがミトラ・ヴァルナということで。「八幡」の「八」というのもヴァルナのことなんだ? と思うわけですが、でも八幡は軍神なのに、ヴァルナにその性質は乏しい気もするし?? とも思うわけで。

で、よくよく考えてみると、「ヴァルナ」という名前は、地中海東岸地域の神の名で、「女神」を示す名なわけです。だから、本来的には女神であってもおかしくないわけで、実際西アジアの古い時代の太母ピニキルは「女神」なわけで。「じゃ、ローマにおいては?」って聞かれるわけで。ローマにおいて同じ子音を持つのは、もしかしてウェヌス(英語読みのヴィーナス)のこと? って思うわけで。ウェヌスって、ギリシャのアプロディーティー的女神でしょうが? って思うわけですが、ローマ的にはヴァルナは女神であるのが正しいんだ? って思うわけで。で、ウェヌスの愛人は、軍神マールスということで、これがギリシャ神話のアレースに相当すると言われる神なわけで。で、ウェヌスとマールスは愛人関係にあって、ウェヌスには別に夫がいたと言われるわけですが、その一方で、この2神は古くから花婿と花嫁の象徴だと考えられていた、とのことで。火星に象徴される軍神マールスって誰です? って思うわけですが、これは本来ローマではなく、エトルリアという北イタリアに住む人々の神だったらしくて。エトルリアは、非常に早い時代にローマに同化した民族なわけで、ローマの有力な貴族にもエトルリア人は割といたようなのですが、エトルリアはそもそも、メソポタミア方面から北イタリアに移動した人々で、メソポタミアの文化を割と受け継いでいて、動物を解剖して占いをしてたりしたわけですが。で、バビロニアの主神はマルドゥクということで、マールスってマルドゥクのこと? って思うわけで。紀元前2000年前後に、メソポタミアにいたバビロニアの主神マルドゥクは、確かに男神であり、軍神でもあるわけですが。でも、その起源は、名前から見て古代エジプトに有史以前から存在していた死神女神のメヒトだよねえ? って思うわけで。で、気が付いたのですが、荒ぶる死神メヒトは、古代エジプトではれっきとした女神なわけですが、エジプトから外に出ると「男神」として現されることが多くて、女神の名残を残すのは古代ギリシャくらいであって。メヒトとオヌリスは、印欧語族的「結婚契約」の神の性質を保ちつつ、男神と女神が入れ替わってしまっている地域がけっこうあるんだ@@、って思うわけで。だから、どちら男神で、どちらが女神の役割を果たすかは、地域によって違って、でも二人で果たす役割はどこでも似たり、よったり、ということになるようで。じゃあ、軍神「八幡」とは何? って思うと、そもそも「幡」を「まん」と呼ぶのがおかしな話、それは「ヴァルナ・ミトラ」という意味、って言われるわけで。では、印欧語族の神の名を騙って、その後ろにいるのは誰? って思いましたら、それはローマの主神・雷帝ユーピテルって言われるわけで。「ヴァルナ・ミトラ」の名をユーピテルから切り離して、取り戻すことが印欧語族の悲願、って言われるわけですが。でも、ローマも一応印欧語族の一派ではあるので、彼らには彼らの「ウェヌス・マールス」がいるわけで。ミトラスというのは、原始キリスト教的には医薬神の性質も強いわけですが、ローマ的には火星に象徴される本物の軍神なんですねえ? って思いましたら、「だから、その目は「火付け強盗の目」って言ってるのに」って兄さんから言われたわけで@@。それはマールスのことかい! って思ったわけですが。

こうして、巡り巡ってローマの神の名にまでたどり着いたわけですが。諏訪神の神妃の名は八坂刀売というわけで、「八」の字がついているわけで。で、八坂刀売は海神・綿津見命の娘とされていて。頗梨采女も海の神の娘とされていますから、要するに八坂刀売、頗梨采女、女神としてのヴァルナは「同じもの」ですよねえ? って思うわけで。そうすると、いろんな人から、諏訪神の神妃の名前には呪いがかけられている。「九頭竜」の名を取れば、味方と繋がれるけれども、「八坂刀売」の名を取ると「八」の数字に引きずられて、力が弱ければローマに取り込まれて食い殺されるから、って言われるわけで。それでせっせと、敵は女神を「八」の方向に取り込もうとしていろんな呪いをかけてくるんだ? と思うわけですが。しかし、ともかく「八」の名前の秘密を見破って、祇園で最上位にきたのは、雷帝系列の神であるインドラではなくて、こちら側の「ミトラ・ヴァルナ」ということで。で、ローマにおける彼らの名も見つけ出した、ということで。

かくして、「ローマにおける主神は、ユーピテルなのか、それともマールスなのか?」と尋ねられる気がするのですが。「マールス」と答えたらどうなるのです? と思うわけですが。かくして、敵が頑張って呪いを入れても効果はどんどん薄くなり、こちらは頑張ってできる限りのゴミ拾いと、神家党伝統の「切り込み」をする、とそういうことのようなのですが。

(で、麻績部の神明宮と結縁したわけですが、麻績部は善光寺とも繋がりの深いところですので、善光寺から直接伊勢神宮の気が吹き出してくる、って言われるわけで。伊勢神宮は、女神の宮というよりも「斎宮の詰め所」という性質が強いので、本来斎宮の力が発揮しやすいところだから、そこと結縁した斎宮の宮も「天武天皇から託された斎宮の力を最大限に発揮するべき時は今」って思って、頑張って力を送り込んでくれている、って言われるわけで。)それやこれやで、いろんな人達はがっかりした顔をしてるんだ? と思うわけですが。でも、油断しているとけっこうゴミを入れようとしていることも事実ですので;。できるだけのことができれば、と思うだけなのですが。

そして

「狩り」の結果、山の中から「八幡の大蛇」を引きずり出してきたでしょ? って言われるわけで。「八」のつく「大蛇」とは「八岐大蛇」のことですか? と思うわけですが。ミトラ・ヴァルナの名前を得て、千曲の八幡サマに行き、筑摩の八幡宮に行き、戸隠に行った結果がこの成果? とは思うわけですがーー;。誉田別命の力をせっせと弱めた結果があれなら、それもまた不思議なことだとは思うわけですが。「略奪主義の目」って言ったって、実際にやっていることはゴミ拾いでしょ、「八幡なんでゴミ」ってことでさ? と思うわけですが、それでも敵の気の力を喰ってしまわないと、見つけられるはずのゴミも見つけられなくなるんだ? と思うわけで。こうして、再生の神事は続けられ、超常現象的なゴミ拾いも続くということなのかもしれませんがーー;。

山は秘密を隠している

昨夜はとっても眠かったわけですが、「SmaSTATION!?」を見なければ、と思って起きていたわけです。でも、眠いのでちょっと仮眠していたら、すでに番組が始まっていて;。で、慌てて見たわけですが、昨夜は「最新のウェディングソングランキング」ということで、結婚式で良く使われる曲のランキングをやっていて。見ていると「結婚契約の神サマは誰?」って聞かれるので、きっと福山君の「家族になろうよ」もランキングに入っているんだろうな、とは思ったのですが。この曲は2位に入っていて、で曲紹介のVTRは5大ドームツアーの時のものが使われていたのですが、最初に福山君の背中が映し出されていて、「おや」と思ったわけで。この頃のことは、せっせと心の中にやってきてプラカードを持って口説いてくれた白鳥兄さんのことを、今も懐かしく思い出して、「背中の君」のお歌ですねえ、と思うわけですが。「SmaSTATION!?」は香取君の番組ですので、親切ですねえ、と思って。

で、なんというか、夢で大学の寮みたいなところに住んでいて、でも「寮」というほど大規模なところではなくて、8人くらいで暮らすシェアハウスみたいな感じなところに住むという、そういう夢を見て。で、3日連続でそういう夢を見たわけです。で、あまり毎日見るので、ふと、「8人で一つ屋根の下に住みたい」って思っている人達が7人いるのかな? と気が付いて。別に私はいいんですけれどもね、あなたたちさえ良ければね? というか、住む場所はそちらで用意してね、と思うわけで。

そして、朝起きて、早速メインの神明社へ出かけたわけです。なんというか、ここだけは最優先で、できるだけ早く行って欲しい、って言われたから。で、聖の山というのは、山岳修験道の聖地ですので、そこの中心地にも行っておくように、って言われて、昨夜はせっせと調べていたわけです。で、福満寺というお寺を見つけて。どんな山の中なんだろう? と思ったら、割とそれなりに車で上れる程度のところにあって。で、あのあたりというのは、「聖」という名前の通り、過去に誰か高名なお坊さんでも住んでいたのかも? とか、あとは山岳修験道の聖地とか、月神信仰の地とか、そういう漠然とした印象を持っていたのですが、具体的に何がどうあるのか、ということはよく知らなくて。で、そういう情報も割と調べにくいというか、あんまりネットにも載っていないわけです。で、天台宗の古刹で、檀家がいなくて村の人が守っているお寺、ということは分かったわけですが、行ってみたら「薬師如来」がご本尊と言うことで、平安時代のご本尊で、東日本最大級の薬師如来であることを謳っていて、「薬師」ということがものすごく強調されていて。で、なんとなくその点にまず違和感を感じたわけです。だって、「薬師」というのは薬師寺とかに見られるように、誰かの病気平癒を祈ったり、疫病の流行を鎮めたりする際に重点的に祀られるものであって、山岳地で修行するお坊さん達が通年で信仰するものとしてはちょっと違和感を感じる、というかそんな風に思うわけで。で、普段はご本尊はしまわれているらしいのですが、事前に連絡すれば拝観できる、ということで、連絡も無く行ったのですが、丁度管理人さんらしき人に会いましたので、お願いしたらものすごく丁寧に案内して頂いて。で、ここがこのお山で最初に開かれた修行のためのお寺と言うことで、「聖」という地名の由来、みたいな説明をして頂いたわけで。で、ご本尊を安置しているお堂が「瑠璃殿」といって、「瑠璃」というのは「青」のことですし、堂内に入るためのスリッパがことごとく青いのに、二組だけ赤いのがあって、で、お賽銭を上げるのにもお賽銭箱と仏様の前に直接上げるお皿があって。非常に意味深だったように感じたわけですが、「久須斯(くすし)神」の名前を貰ったということで、ここの薬師様に結縁するのが、まず久須斯の神の初仕事? って思ったわけですが。管理人のおじさんからは「当代の久須斯神は青い目の人喰い女」って呟かれた気がするわけで、「それはいったい誰のこと?」って思うわけですが、まあ言うも虚しい話なわけでーー;。で、久須斯神というのは、割とあちこちに祀られているわけですが、それに相当する神は諏訪神であったり、天照大神であったり、大国主命であったりして、一柱には定められていないわけで。「なんで?」って思うと、ともかく「医師免許を持っている神サマで一番力の強い人がなるものだから。」って言われるわけで。じゃあ、青い目の久須斯神がその地位を奪取するまでは、久須斯神の地位は誉田別命のものだったらしいのですが。同じ医者でも誉田別命と天之日矛ではどちらの力が強いの? って思うわけで。そうすると、「私学出は、私学出の馬鹿って言われて、力が強くても認められにくい。」って言われるわけで@@。「何それ?」というか、そういうものなんだ? というか、結局職能的な神サマは、いろんな人がその地位を「認める」って言ってくれないと認められないもののようでーー;。そうなんだ、月読命と大国主命は私よりもヤブ医者ではないだろう、と思うわけですが誉田別命よりも力が無いんですね? と思うわけで;。妙なこともいろいろと言われるわけで。そして、戸隠でも見た通り、護摩を焚いて加持祈祷を行うということは、薬師如来を煙でいぶして調伏しようとしてるんですよねえ? と思うわけで。とても親切にはして頂いたし、興味深い場所でもあったのですが、不思議なところでもあって。

で、その次に「天王社」というところに行ったわけです。ここで祀っているのは祇園の牛頭天王なわけで、牛頭天王は元々インドの雷神インドラの一形態らしいのですが、東アジアに入ってきていろんな神々と集合した結果、医薬の神としても扱われるわけで、日本では武塔天神や須佐之男と集合しているわけで。そして、牛頭天王(武塔天神)と妻の頗梨采女(はりさいじょ)というのは、朝鮮における弥勒と鉢里公主(ばりこうしゅ)のことでしょ? ということで。新訳聖書に「医師としてのイエス・キリスト」の奇跡の話がたくさん載っているように、牛頭天王はそっち系の神サマなのが、須佐之男に取り憑いているのが「問題」なわけでーー;。祇園とは繋がっていなければいけないところだから、行ってこいって言われるわけで。行ってみると、地元の人しか知らないような細い道が入り口で、きっと単独で行ったのなら入り口が分からなかったと思うのですが、その付近に、いかにも「道を聞いて」って言ってる風情で立っているおじさんがいて、教えて貰えたわけで。そして、神社を出てくると「遠いご先祖と正しい結縁ができて良かったですね。」って、誰だか知らないですけれども言ってくる人がいるわけで@@。良くないですよ? その先祖のおかげで2000年の間、世界は混乱し続け、子孫の私まで大迷惑、って思うわけですがーー;。そして、家に帰ってくると「ヤブ医者のくせに久須斯神なところは2000年前の先祖にそっくり」って毒を吐く人達がいる、って言われるわけで;。大きなお世話というか、その先祖は目の力が強いだけの嘘つきの詐欺師で、私は一応医者の免許を持ってるのに;、と思うわけで。(でも、お味方は「医者としては運がなかったけれども、真面目に一生懸命仕事してたのはみんな知ってる」って言ってくれるわけで;;。)

で、本日のメインの目的地の神明社ですが、ここはかつて伊勢神宮の荘園であって、麻績氏が荘官を務めていたところ、ということで、伊勢の麻績部と強い繋がりがあり、私は一度伊勢神宮に行ったことがありますし、斎宮の宮も伊勢に参拝したばかりなので、私が結縁したら、伊勢神宮から直接強い力が流れ込んでくる、って言われるわけで。で、丁度そこを参拝している時にウォークマンでかかっていたのが「青空の下、キミのとなり」であって。そして、「水内の神」は所詮一地方の土着神に過ぎないけれども、伊勢神宮の力はその比ではない、と言われるわけで。

そして、帰りにとても気になった「桂宮」という小さな鳥居もない神社が気になって寄ってみたわけで。で、そこは「聖山権現」の雨乞いするための祈祷所って書かれていて。「聖山権現」って何だろう? と思ったわけです。一応、山岳修行の霊山なわけですから、かつては名のある神の聖地であってもおかしくないのですが、その本態がなかなか見えてこないわけで。「桂」という言葉は「月」に関連するものですが、月読命を大々的に祀っている神社もないのも不自然に感じるわけで。で、家に帰ってきて調べたわけですが、「聖山権現」というのは、おそらく神社的には山中にある樋知大神社のことであろうと思うわけで。ここは、延喜式の武水別神社に相当すると言われていると言うことで、千曲川のほとりの八幡サマが里宮とすれば、奥宮に相当するのがここなのか、とも思うのですが、祀られているのは諏訪系の武水別命と水神の女神であって。で、この山も麓の住民のとっては、水源の山なわけですが、結局深い山ではあっても万年雪を頂くほどの高山でもないので、地元の人達は「水源」としては「降雨」が非常に重要であるということを知っていて、「雨乞いの聖地」みたいな扱いになっているらしくて。だから、古くは縄文古来の水源の女神と、蛇の月神の夫婦神が君臨していた山だと思うわけです。でも、そこに後から入ってきた諏訪系の男神が、先住の月の蛇神の地位を奪ってしまったので、「月神信仰」は名残程度にしか残っていないわけで。でも、水内郡下では、「月神信仰」は名残程度にもあんまり残っていないくて、犀川流域の男神はほぼ諏訪神一色なわけですが。更級郡の武水別命はそこまでの力は持たず、古い「月信仰」が微妙に残されていて、で、東信の生島足島なんかに至ると、地主神の夫婦神と諏訪神は今でも別々のものとして扱われるわけで。東信に行くほど、縄文古来の石神信仰が強く残されているわけです。で、聖の山は、縄文古来の信仰と、諏訪系の信仰が微妙に絡まり合っている中に、山麓に36の寺院があるという複雑怪奇な状態なわけで。「山麓に36」なんて駄洒落ではなくて「弥勒」でしょ、と思うわけですが、要するにこれらの寺院が本来の水源の神を封印しているのでは、と思うわけで。聖の山は、南側は麻績の水源なわけですが、北側の水は犀川に流れ込んで「犀竜の頭」の一つになっているわけで。薬師如来と犀竜は一見して何の関係もないように見えるのに、なんで平安時代の人は犀竜であり、かつ久須斯神である者の到来を知っていたんだろう? っていつも不思議に思うわけで。

そして、縄文古来の「月の蛇神」と、水源の女神に対する信仰というのは、羌族の穏やかな日月信仰ではなくて、エンリルとニンリル型の、夫が妻を食い殺す信仰であって、実際両者の起源は、「東洋の遊牧民の信仰」ということで「同じ」なわけです。だから、縄文古来の文化を受け継ぐ人達の考え方は2つに別れて、1つはローマも自分達の信仰も起源が同じなのだから「同じもの」と考える人達で、もう1つはトラキアの如く、いくら起源が同じでもローマはローマ、自分達は自分達って考えるって言われるわけで。だから、独自の道を望む人達は神官長家のように、在来の縄文の女神信仰と、諏訪信仰の混合並立で良い、と思うこともあるようで。まあ、どんなに敵の力につかまっていても、1番目の子に私を食い殺す力なんかないでしょ? って自分でも思うわけで、その点については誰の意見も同じことのようでーー;。だいたい、縄文古来の「雨乞い」なんて、池のほとりでどんな祭祀をしたのか、何の記録も残って無くたって想像つくでしょ? って蛇の兄さんにも言われるわけで。まあ、そういう血なまぐさい祭祀を禁止して、せいぜい動物の犠牲に留めたことが、当地における諏訪神の大きな業績の一つですものねえ? と思うわけで。(エンリル・ニンリル型の信仰であれば、だいたい女神を水の中に放り込むのが「お約束」ということで、実際「黒姫伝説」とか、その手の信仰の名残を残す伝説・民話はあちこちにありますのでねえ、と思うわけで;。)というわけで、いろんな人達は、私が動けばどこへ行って、何を見て何を知って、何を選ぶのかを見ている、と言われるわけで。親切にしてくれる人も、そうでない人もそういうことのようで。それにしても、「聖」という名が「樋知」でも良いのであれば、「日知」でも良いのではないかと思うわけで。で、いろいろと調べていたら、山中に「小聖神社」という神社もあって、そこでは湧き水が湧いていて、で某酒屋さんもそこの水でお酒を仕込んでいるってあったわけで。はっはっはっ、人はあんまり「無駄」なことはあんまりやらないものだから、その酒屋さんがそこの水源から水を取っているということも「意味があること」なわけで。その山はかつては、日輪の女神の山で、かつ水源の山だったと思うわけですが。それこそが、羌族の伝統的な太陽女神信仰、ということで。聖の山の名前の由来を知りたい、とは子供の頃からずっと思っていたわけですが、一応ヒントは一族郎党がくれていたわけで。それでも、その意味を知るのにこの年までかかったわけですから、同族の人達はことがここに至るまで、その意味を気づかせるだけの力もなくて後悔しているって言われるわけで。もっとも、年の若い人達は、どうせ私の目は水内郡の小さな水の女神で終わってしまう目ではない、って言ってくれるわけで。神々の「境界」は弥生の人々が定めたものだから、そんなものがなかった縄文時代の神の気質が強ければ、境界の力の効力が弱まるのも必定、ということで印欧語族と手を組んだ6番目の子は、馬ならぬ自動車を駆って、水内郡の神域の外にまで女神を狩りに出向かせる、ということで、どちらかというと水内郡よりも更級郡の人々の方が、こちらの動向に興味津々だって言われるわけでーー;。おかげでこちらは疲れ果てているわけです。

トラキアの目

神官長家が、お味方になったということで、なんというかゴミ拾いをしていると、諏訪では、「当代は神妃と神が並立すべき。」って言ってる、と言われるわけで。女神の神域である水内郡では女神の力が優位だけれども、諏訪では男神が優位なのが慣例って言われるわけですが、縄文古来の「目」に近い目は、諏訪の縄文古来の神である「ミシャグジ神の目」だって、どうも思われているようで@@。それって、「石神井(しゃくじい)」という地名にあるように、石神サマのことですよねえ? と思うわけで、石が禁忌のはずの我が家なのに、「目」的にはそちらの人達の一部に受けがよろしいようでして。で、Mステを見ていると、私の目から「神官長家の十字の目の力を感じる」って言われるわけで。で、神官長と神との絆は強いから、互いの相性が良ければ、それぞれの力を互いに協力して使えることもある、って言われるわけで。蛇の兄さんは信濃国の出身ではないわけですが、私の方は一応地元っ子ということで、その点からも、自分の知らないところで受けが良いらしくて@@。「そうなんだ?」と思うわけですが、でもその一方で、単独で諏訪に行くときは、諏訪は男神優位の地でなければいけないので、女神の宮には必要以上に近づかないように、って言われてるんですけれども? って思うわけですが。一部には縄文古来のミシャグジ神と諏訪神の並立を望む人達も未だ多いんだなあ、と思うわけですが。(でも、逆にお味方の人達は、神家党由来の「翡翠の目」が最後まで出てこなくてがっかりしている人達も多いようなのですが;。私の目に合っている「石」は、アフガニスタン産のラピスラズリと北欧産の琥珀だって言われるわけで、確かに東アジア的では全然ないわけですがーー;。)

そして、もう一方のトラキア・ダキア方面ですが、だいたいトラキアというのは、民族的にはローマとほぼ「同じ」というくらいローマに近い人達なわけで、でも「近親憎悪」的にローマとは仲がよろしくないわけで。彼らの中にも一応応援してくれる人達はいるようなのですが、それは単に「ローマが大嫌い」ということで、彼らの目を見ると「吸血鬼の目」って言って蛇の兄さんは嫌がるわけですがーー;。でも、トラキアは「ヴァルナ」という地名があるくらい、ミトラ・ヴァルナの潜在的な信仰が強い地域ということで、異種族の目を持つ誰かさんは「お前は水神としての仕事だけしてればいい。」って言われて、更に面白くないようなのですがーー;。

しかし、なにせ土地にかけられている呪いが強くて、どうしてもゴミを完全に拾いきれるわけもないわけで、残ってしまったゴミの「気」を押さえ込むためには、より多くの人の助けが必要、ということで、印欧語族や「よろしくない目」を持っていても応援してくれる人達とは仲良くした方がよいということで。印欧語族の人達は、「どんな目を持っていても、異なる目の人達を差別したり、偏見を持ったりしない、公平かつ公正な神であることが大切。」って言ってくれるわけで。で、彼らの目の奥底にある本性がどのようなものであっても、知性と意思の力で、良い人として生きている人は大勢いるのだから、彼らの目の力も恐れることはない、って言われるわけで。彼らは、とても強い目の力を持っているのですが、どういうわけか彼らの中から「神」が誕生することはとても希だって言われるわけで。それに対して、日本人からは何故か神さまが多く生まれるので、それでこの国は特別に「八百万の神の国」って言われる、って言われるわけで。だから、印欧語族の人達は、目の力はとても強いのに、神サマのことについては異種族の神サマに頼る必要があることが多い、って言われるわけで。しかも、彼らは彼らで個性的なので、たまに神サマが誕生しても、個性的過ぎて「普遍的」な神サマがあんまり生まれない、って言われるわけで@@。蛇の兄さんは、割と保守的で印欧語族の人達とか、どうしても好きになれないタイプなので、同族の信頼は絶大でもそちら方面の受けが今一ということで。その点、6番目の子は、私と同じで「差別しない目」を持ってるって言われるわけで。そういう点で彼の方が、余所の人達の信頼感が高いので、蛇の兄さんよりも力が劣っても「筆頭」なわけで、兄さんの方も異種族の人との折衝は、6番目の子に任せておいた方が気が楽、って言うわけで。いろんな人から「近い名前を持っているということは、ちゃんと意味があること」って言われるわけですが。明日は明日で、微妙に修験道の聖地巡りです。いろんな目の力と強く結縁するためには、それもまた必要、ということで、しばらくは忙しいわけです。