ええとですねえ

お昼を食べていた頃とか、なんとなく兄さんが泣いている図を送ってくる人が居て。髪型からいくと「残響」の頃かなと思うわけですが、要するに「呪いの歌」には反応するのに、肝心の「送った歌」は一顧だにして貰えないし、兄さんも切なくて悲しくて泣いてた時期もあったんだな、と思うわけで。気が付かなくて、悪かったな、と思うわけで。

それでですねえ、来し方をもう一度振り返って整理して欲しいという要請が来てですねえ。おそらく、三沢さんとかさだまさしさんから、だと思うわけですが。(長崎出身のさださんはお味方だと思うわけで。良い目をされてますし、お名前も「雅志」さんということで。しかも諏訪にお住まいなので、それもヒントの内なのだと思うわけですが。)

ということで、気合いを入れて思い出してみますと、私が大学に入ったのは1989年で、福山君がデビューしたのが1990年ですから、私が大学2年の時のことだったわけで。で、1990年11月7日に発売されたセカンドシングルでMステにも初出演していますので、その頃に目にする機会はあったはずなのですが、当時はあまり歌番組に興味がなくて、そもそもMステを見た記憶も定かではないので、見てなかったかもしれないと思うわけで。ドラマもそれほど見る子ではなかったですし、割と学校生活だけでいっぱいいっぱいだったと思うわけで。でも、この年に一番目の子と二番目の子も大学に入学したわけですから、一応三人とも出発点は同じだったんだ? と思うわけで。二番目の子のことは知っていたわけです。高校の時に見かけてますし、1989年の入試の時にも見かけてましたので。

で、歌番組とかそういうものに興味を持ったのは、学1になってから、要するに1992年になって、兄さん以外の3人がめでたく同じ学年になった頃からで、この頃はCDがものすごく売れて、ミリオンヒットが連発されるような時代であって、ドラマの主題歌なんかは大ヒットしていまして、1991年にはCHAGE and ASKAさんの「SAY YES」が大ヒットしていましたし、1992年の春に放送された「素顔のままで」の主題歌の「君がいるだけで」が最終的には300万枚を売り上げるような空前のヒットを記録して、これにまんまと引っかかったという形にはなるわけですが。でも、これは一応「こちらの取り分」にはなるわけですので、学1になって、私が急にいろんな音楽を聴きたくなったのは、他の2人と同じ学年になって、彼らの声が届きやすくなったこととも関係があると思うわけです。彼らは彼らで、「送った曲」を聴いて欲しかったわけで。で、「君がいるだけで」が発売された当時は、米米CLUBは、なかなかこの曲をテレビで唄わなかったわけで、私はずっと唄うところを見て見たいと思っていたわけです。で、シオノギ製薬のミュージックフェアで唄うということで、今だったら、よろしくない番組と言うことで、見ないか、見ても注意していたと思うのですが、当時、見ましたら石井が歌い出す直前に思いっきりカメラ目線になってこちらを「見た」わけで、今から思うとこの「目」に巻き込まれてしまったのだと思うわけです。で、ファンクラブに入ったりしていたわけで。

1993年、学2になった直後の春に「ひとつ屋根の下」というドラマが始まって、このドラマを見て始めて「福山雅治」という人の存在を知ったわけで、最初の頃は役者さんだと思っていたわけです。で、どうにも思うわけですが、このドラマで、福山君の演じた医学生は、血の繋がっていない姉妹と良い雰囲気というか、そういう展開になるわけで、で、だいたい福山君の出てるドラマというのは、現在に至るまで「女優さんとの絡みのシーン」が出る頃になると、何故か私の方に「見る気が失せる」という現象が続いているわけで(苦笑)。で、このドラマの終盤の頃に、福山君の「MELODY」という曲が発売されているわけで、この頃はいろいろな歌番組を見ていましたので、Mステで見た記憶がうっすらとあるわけです。で、どう思ったかというと、当時というか今でも役者さんが、趣味的にバンドとかやることがたまにありますので、そういうたぐいのものかな、と思っていましたし、正直「この人、歌で長続きするのかしら?」と思った記憶があるわけで、石井との落差が自分でも、すげーっと思うというか、兄さん可哀想すぎ、と思うわけで。であとは、1994年の「IT’S ONLY LOVE」も見た記憶はあるわけで、1995年の「MESSAGE」も見たはずだとは思うのですが、あまり印象には残っていないわけで。で、1996年には大学を卒業して、全くめでたくなく、某医局に入局ということで。私が医局に入ってからの2年間は、福山君の音楽活動は停止、翌1997年の始めには米米CLUBが解散、ということになるわけで。で、数ヶ月後の1997年9月25日には石井竜也のソロでのファーストシングルが発売され、石井のソロ活動が本格的になったわけで、私は自動的にそちらに流れたわけで。(ちなみに宮崎監督の「もののけ姫」が公開されたのは1997年の7月なわけで。)で、秋には石井の最初のライブツアーもあって、この時はライブハウスでのツアーだったので、チケットが取れるかどうか分からなくて、日程的にも行けるのは大阪でのライブだけだったわけで。結局チケットはファンクラブの誰かから譲って貰って見に行ったわけですが、でも、そのことは職場の誰にも言っていなかったわけで。で、その当日に大阪で甲状腺病理学会の勉強会みたいなのがあって、上司から「そこに行ってくれば」みたいに言われていて、たぶんこの時に、「え? 誰にも言っていないのに、ライブのことをこの人は知っていて言っているのかしら?」って思ったのが、仕事と芸能界との関係性についての最初の違和感というか、疑問だった気がします。(余談ですが、石井は米米の解散からソロ活動に至る当時の状況について、「自殺寸前」だったとか最近言っているらしいですが。いったい何の冗談なの、それ? って当時を知っている私は思うわけですが(苦笑)。)

で、その後は石井の本格的なライブツアーも見に行ったりしたわけですが、どうにも職場で保たなくなって、めでたく辞めたのが1998年の4月30日付だったわけで、この日にめでたく音楽活動を再開した福山君が出した曲が「Heart」であった、と。この曲を買ったのは去年ですよ、届くまでに15年もかかっちゃいましたね、と思うわけですが。しかし、何というか、当時の福山君のライブの映像とか見ますと、どう見ても「ヤンキー」なわけでですねえ、正直言って、今でも、「この青年と石井を比べるんだ? どうにも勘弁して下さい。」とか、思ってしまうわけででしてねえ。兄さん、本当に可哀想、とか思うわけですがーー;。
しかし、音楽活動を休止していた、この頃の兄さんの気持ちというのは、何とか、あそこから私を引き出すことに心血注いでいたのだと思うわけですが。ともかく、外から見てたら、歌なんて送ってるような場合でも状況でも無かった、と思うわけで。

で、一方1998年12月の石井のライブの「ART NUDE」の動画を見てみますと、「抱いて」という曲とかですねえ、ライブも禍々しいわけですが、どうにも明確に「私を標的にして呼んでいる」のが分かるわけで。で、1998年の夏に、石井は「サアカス少年團」というライブをお台場でやっていて、この頃までは、ファンクラブもそれほど居心地は悪くなかったわけです。で、この頃、石井に宛てて「医者は辞めてしまったし、戻る気もない」というメールを書いて出した覚えがあるわけで、私に対する石井の態度も、ファンクラブの仲間の態度もはっきりと「変わった」と感じたのはこの時点からで、これにもかなりの違和感を感じてはいたわけです。いったい、私の仕事と、石井にどういう関係が? と思うわけで。で、ファンクラブの知り合いの中にも「大学の教授は偉い人」みたいなことを言う人が現れて、どうにも私のことを「大学に戻したい」みたいな空気を感じるわけで、なんで? とは思っていたわけです。私のことはあなたには関係ないでしょうが? ということで。

で、1999年には、たぶん関係者のほとんどにはめでたくないことに、東京での私の仕事がなんとか見つかり、石井のファンは続行、誰かさんの私生活は暴走、GLAYは「HOWEVER」を唄いながら泣いてるし、という状況に陥ったようで。あそこの職場には明確にカトリックの人がいましたので、そこを実行支配していたのは社長夫妻では無く彼だったのだと思います。そして、その彼は「宅地建物取引主任者」の資格を持ってそこで威張っていたので、職場の人たちの本音としては、私がその資格を取って、彼に対抗してあそこで勝ち残って欲しかったのだと思いますし、今だったらそうしてあそこで頑張ったと思うし、実際資格も取ろうと思っていたわけですが、結局それを阻止するべく敵は「病院での仕事」を餌にして、そこから私を引き離してしまいましたので。そっから先が誰にとっても本当にいやな状況だったのだな、と思うわけですが。でも、この最初の職場でも、大学のこととかけっこう当てこすられましたし、それも何かヘン、とは思っていたわけで。私の学歴が気に入らなければ、採用しなければ良かったじゃん? ということで。この頃の福山君の曲で記憶にあるのは1999年11月17日に発売された「HEAVEN」と、2000年の「桜坂」くらいなわけで。それ以外は全く「記憶にございません、申し訳ありません<(_ _)>」ということで。「HEAVEN」と「桜坂」はMステで見た記憶があるわけですよ。「HEAVEN」は「HEAVEN」で強烈な曲なので、「あー、この人ってこういう人なんだ。」と思って、それっきり、という。おかげさまで、その後福山君のスキャンダルめいた記事とか見ても、全然動じないというか、気にしたこともなかったですよ、正直言って、と思うわけで。でも、この辺りは流石に私が謝る必要ないですよねえ? と思うわけで(苦笑)。

でも、石井のファンクラブでの言動もどんどんヘンになっていきますし、ファンクラブの仲間との関係も何だかヘンでしたので、遂に嫌気が指して、ファンクラブを辞めたのが2004年の前半だったと思うわけで。2003年の年末までは、石井のライブを見に行った記憶があるわけです。でも、最後に行った時に、「石井のライブを見るのはこれで最後になるだろうな。」と思っていましたし、何故か実際にその通りになったわけで。で、辞めた時に、「芸能人のファンになるとか、そういうこととはもうこれで卒業だ。」と思ったわけで、まあ、幸いにもそれは現在まで続いているわけですが、でも、音楽そのものは嫌いではなかったので、Mステは見続けていたわけで。
で、石井のファンを辞めちゃいましたら、職場の人に「芸能人の誰のファンなのか?」と執拗に聞かれて、どうでもよいので適当に「イ・ビョンホン」って答えたら(当時、この人が主演のドラマをNHKで放送してましたので)、その年の紅白にイ・ビョンホンがゲストに出て、目が点になったということがあったわけで。

 

で、この時期の最大の違和感は2006年7月に、石井が米米CLUBを再開したことで、それまで「米米はもうやらない」みたいなことしか言っていませんでしたので、これを餌に私を呼び戻すつもりなのではないか、と思ったわけですが、別になびきもしなかったわけで。で、2006年5月のに福山君の「milk tea」が出たわけで、これはMステで見た記憶があるわけですが、確かに「どう思うか?」ってなんとはなしに思うというか、誰かに言われた気がしないでもないわけで、「どうも私にはしっくり来ない」って言った記憶があるわけですが。Mステでは「福山雅治最大のラブソング」とかって紹介されて、なんだかずいぶん持ち上げてるな、と思った記憶があるわけで。ごめんなさいね、別に「背の高いとこ」は嫌いじゃないですよ? と今なら思うわけですが。

で、新しい職場では露骨に「大学に戻れ」ってやられたわけで。で、この頃には「この状態で戻ったら殺される」って、誰が言っているとは思いませんでしたけれども、自分では明確に自覚していたわけで。で、しかもしまいには職場でも殺意を感じるようになるし、身の周りをヘンな人たちがうろつくということで、最後には「なんで私はこんなに有名人なの?」と思うに至ったわけで。最初の職場が、この現象と関係しているであろうことは想像がついていたわけですが、しかし、こんな大勢の人を動かして、私を呼び戻したところでどういうメリットがあるの? とはずっと思っていたわけで。で、このヘンな職場をクビになって、裁判とか起こしていたわけで、その間、2008年6月25日にまず出たのが嵐の「One Love」であって、当時から良いラブソングではあるとは思っていましたけれども、でも、私もそろそろいい年ですし、ラブソングともほど遠い年になったな、と思っていたわけで。で、2008年10月1日に出たのがKOH+の「最愛」、10月22日に出たのが福山君の「想」というわけで、「最愛」をMステで演った時のことは、動画を見たら思いだしたわけで、たぶんこの時、親も一緒に見ていて、柴咲コウちゃんのことを「大酒飲みなんだ」って言っていた記憶があるわけですが。どうにもこの曲はGLAYの「HOWEVER」と対になる「呪いの迷曲」なのでですねえ。聴いていて、福山君のことを「この人、私のこと知ってるのかしら?」くらいには思った記憶があるわけですが。でも、この頃にはいろんな人が私のことを「知っている」という自覚がありましたので、別に福山君のことを「悪い人」だとは思いませんでしたけれども、報酬目当てに敵の手先のような曲を作ってるのかしら? くらいには思っていましたし、まあ「手先」だったのは事実だよね? と思うわけですから、今見ると福山君は暗い顔をしているし、コウちゃんは兄さんに押さえつけられて「目の力」を発揮できないでいるし、タモリさんは悲しそうにため息をついているし、タモリさんに一番申し訳なかったな、と思うわけです。で、「想」の方はどこかで見たことがある気はするわけですが、どうにもこれも「しっくりこない」って言った記憶があるわけで。本気でお気の毒な兄さんだったと思うわけですが。

で、2009年5月20日発売の「化身」は「HEAVEN」系の曲、2009年12月16日に発売された「はつ恋」は「呪いの迷曲」ということで、どうにもね、「よろしくない歌」の内でも、単純によろしくないものはあまり印象に残っていないわけですが、あからさまに「呪ってる曲」はよく覚えているわけで(苦笑)。でも、この頃はこんな感じの曲が多かったので、みんな敵からの報酬目当てに、当てこすりみたいな歌を作らずに、自分の唄いたい歌を唄えばいいのに、って単純にそう思っていたわけで。「化身」の方もうっすらと見た記憶はあります。でも、それっきり、みたいな。

で、2010年5月19日には嵐の「MONSTER」が発売され、2010年8月11日には福山君の「蛍」が発売されたわけで、これはどちらもよろしくないお歌なわけで、「蛍」の方はさっぱり印象には残っておらず。年末のFNS歌謡祭で福山君が唄った「心color」が、前向きで良い曲だな、と思った程度であって。でも、この年の年末に、嵐の曲でどの曲が好きか、と聞かれて「MONSTER」と答えたら、紅白でこれをめいいっぱい唄ってくれたわけで、この時にはっきりと確信を持ったわけです。嵐とSMAPは「私のことを知っている」と。なんで、とかどうして、ということはとりあえずおいておいて。

で、時は無情に流れて、2011年。3月11日にあった「東日本大震災」。福山君のライブで、「誰もが立ち止まってしまった1週間だった」ってあって思い出したわけですが、少なくとも私は立ち止まっていなかったし、あの時ほど私が走り抜けていた1週間はなかったな、と思うわけで。で、ライブでは「それでも福山雅治は歌い続けることを選んだ」ってありまして、それで出たのが2011年8月31日発売の「家族になろうよ」ですか。しかも「Beautiful life」もこの頃にはできてたんだよね? と思うわけで。「家族になろうよ」は微妙に引っかかる部分もありましたが、「自分には全然関係のない曲」だと思ってむしろ安心していたわけですが。まさか、こういう展開になって、福山君の動画を見ると、「この顔と一緒に暮らすことになりますんで、宜しく」って言われるようになるとはですねえ? 今でもびっくりしすぎで言葉が出ないわけですが。まあ、こんな感じであったということで。いろんなことがうまくいけば良いな、とは思うわけですが<(_ _)>。