追加と言うことで、福山君の「わたしは風になる」のビデオと「笑っていいとも」の3/26日の回の分のビデオを見てみました(福山君がゲストのやつですね)。
「いいとも」が入るとは全然思ってなかった人が約1名、「大英断」だと思ってる一部の人々と、そんな感じでしょうか。ま、でもタモリさんのお歌も1曲くらいあっても良いと思いますし、そういえば春分のMステ以来、割と普通にテレビに出てる兄さんを見たのは初めてな気がしますので。
まあ、やっぱり明るく笑ってる福山君を見るのは良いものだと思います。暗い顔をして「milk tea」を歌ってる兄さんとかばっかりを見るのは、やはりこちらもあまり良い気持ちにもなれませんので。
この直後に5大ドームツアーが始まりますので、まあ、その先は白鳥兄さん大活躍ですのでね。春分の放送も終わった後ですし、明るいお顔が見れて良かったです。
で、何故これを見てはいけないかというと、煙草のネタと、「胃カメラと内視鏡」の辺りだと思いますが。「胃カメラと内視鏡」って聞いた瞬間に、ニヤリと笑ってしまう私がどうしてもいるわけですが(苦笑)。でも、それ自分でやったことはないんで、どっちにしてもあんまり自分的には「振り返る後ろ」っていう感じでもないわけですが。まあ、感想としてはそんなところでしょうか。
月別: 2014年9月
微調整とすり合わせ
毎日、毎日、こればっかり、というわけで、どうやら本日の課題は、掟破りのビデオ鑑賞で「限界点」がどの辺りにあるのかの調査と、あとはまあ「女癖」周りの問題解消?というか、そんな感じだったと思うわけですが。
それで、またいくつかビデオを探して見てみたわけです。春分の日のMステの「家族になろうよ」が入ってる完全版と、いくつかのライブビデオを見てみました。
で、まず「MUSIC MONSTER」の「暁」についてのMCから。これを見ると、どうもね、「ニヤリ」としてしまうわけで、ええと何というか「手を放しちゃうんだ」とか言ってるあたり? 「ニヤリ」としてしまうあたりで、「Sめ!」っていう突っ込みが来るわけで、じゃあ、なんでしょうかね? 他にどういうリアクションをして欲しいのか、お好みのがあったら逆に言ってくださいな? みたいな(苦笑)。
で、次はMステ完全版。確かにこの日は、福山君緊張してましたし、少なくとも楽しそうではなかったと思うわけですが、「家族になろうよ」とか見ていると、なんとなく「もしかしたら、この人は最初からこの歌を『自分の歌』として贈りたかったのかな。」と思うわけです。まあ、あくまでも本音としてはね。本音は誰でもある意味、自分勝手なことしか思わないものだと思いますけれども、正直な人はそれがどうしても表情に出ちゃうところはあるような気ましますから。
で、あとはいくつかライブビデオを見たわけですが、「はつ恋」のビデオを見た時点で、歌ってる兄さんの目を見て、歌詞を見ていると、まるで地獄の底で苦悶にのたうち回るドゥムジを見てせせら笑うイナンナ女神の如くに、笑ってしまう自分がどうにもいるわけで。まあ、これがどうにも「限界点」かな、と思うわけですが(苦笑)。
「Beautiful Life」の歌詞ではありませんが、「諦めることと諦めないことの狭間で苦しむ」と言いましても、今回の件に関しては、誰もが同じように苦しんでいるわけではないと思います。まあ、結局たとえ話みたいになってしまいますけれども、人にはいろいろと夢見る理想の世界があって、黄河文明と長江文明の争いの歴史を、黄河の男神と長江の女神の和合で解消する新しい神話を構築して、かつての大中国、唐のように最先端の文化と知識と法整備と正義ある高邁な精神を、周辺諸国全てから尊敬されていたような、そのような理想を再び夢見る人々がいたとしても、その実現にはいろいろな問題があって(というか、これが事実上最大の問題点なのですかねえーー;)、特に、一妻多夫の文化を持つ羌族の側には、どのような事情があっても、黄河の男神を第三夫としてしか認められない、という譲れない思いがあり、その事情が分かっていても、そのバランスを崩しかねないほど率直で強い力を持っている黄河の男神の力を恐れる思いと、何とか纏めて欲しいという思いと、そういうものがいろいろとあると思うわけですが。
まあ、でも本音というものは誰でも自分勝手なものだと思いますのでね。彼の本音がどこにあろうと、春分の日に、やるべきであること以上のことは、彼はいくら不本意であろうと行わなかったし、その誠実さを結局は誰もが信じるべきである、と思いますけれどもね。そして、結局持てる力からいけば、彼は本当は「第三夫」なんていう地位に甘んじてはおれない力を持っているわけですから、それを敢えて受け入れると言うことは、結局いくら誰もが「諦めることと諦めないことの狭間で苦しむ」といっても、一番諦めなければならないことが多いのは彼自身であるので、そこをあまり懸念して攻めるべきではないと思う。
しかし、昨今の長江の女神は「蛙の女神である」という伝統文化なんか蹴飛ばして、どうにもどこでもすぐ「恐るべき蛇の太母・イナンナ」になっちゃう気がしますのでね。そういうところをちゃんと理解して、「金○を喰わせるくらいなら、自分が喰われた方がマシ」って言ってくれるドゥムジがいてくれるなら、どっちかというと、それはそれでありがたく感謝すべき状況だと思うわけですが(苦笑)。こういう気性を受け止めてくれることがきっと一番上手いのも彼なのではないのかな、と思います。
っていうか、遂に「はつ恋」を見てせせら笑うようになっちゃったよーー;。っていうのが、むしろ自分でも笑うしかない、というか。それに2006年のMステスペも見たはずなのですけれども、福山君のステージはまったくきれいさっぱり記憶に残ってないですし。申し訳ないですねえ、こんな状況で、って、もうどうにもそういう以外に言える言葉はないわけですが<(_ _)>。
真打ちネタ登場?
ええと、朝方ふと目が覚めて、「ASKA容疑者の裁判」は、「女癖の悪い芸能人の旦那には愛想をつかせ」っていう、なんというかそういう「意図」のものなんだ? と気が付いたわけです。確か奥さんは、ASKAさんが逮捕された時には「支える」とかって言っていたけど、彼の女性関係が明らかになるにつれて愛想を尽かし、裁判には出廷しなかったとか。なんだかね、これ変なニュースな気はしていたわけです。ASKAさんも奥さんももうけっこう「いい年」なわけですし、最初からある程度浮気していたことは分かっているわけですから、そういうことを乗り越えて「大人の判断」で奥さんが「夫を支える」と決めたのであれば、他に100人くらい愛人がいても、そんなことちょっとは予想がつくことだし、それをも込みで「支える」って決めたんでないの? と思うわけで。一人の愛人が二人とか三人に増えたからショック、っていうのは、なんだか「変」と思ったわけです。
で、なんでしたっけ? 「女癖の悪い芸能人」でしたっけ? 誰のこと言ってるの? っていうか、私がまだ何が起きているのかも良く判断できてない内から、こんな攻撃ネタを仕込まれても、それこそ「何を言ったらいいのやら?@@」という感じなわけですが。
まあ、これに関しては、いろいろな面があるわけですが、例えばなんというか、相当変則的な縁談話?(っていうか「縁談」に関するネタなんだよね? これ? ってそこのところがどうにもまだ半信半疑なわけですが 苦笑)であっても、周りの人たちの気持ちというものもけっこう伝わってくるわけで、福山君という人は知らず知らずの内に、周りの人を巻き込んでしまうくらい強い力を持っているし、その気持ちに個人的に共鳴して、役割分担の域を踏み出して応援したいと思うほどに、好かれているし愛されている人だと思う。
例えば、個人的にプロモーションに来てくれた亀梨君とか、7月から8月にかけて心配そうな顔をしながらMステの司会をしていたタモリさんとか、彼らは役割がどうのというのとは別に友人として、福山君の幸福を心から願っている人たちなのだと思う。でも、その気持ちがどうしても前面に出てしまうから、その代償に失ってしまったものも他の人たちよりも多いという気がします。タモリさんは「笑っていいとも」という大きな仕事を失ってしまったし、KAT-TUNはグループとしては何度も存続の危機を迎えるような、大きな波に翻弄されながら頑張って踏ん張ってる。彼らは、そういうことの責任が「誰かにある」なんてけっして言わないで、自分のこととしてそれ以上のことなんか表に出さないだろうけれども、そうやって大きなものを失ってしまってもなお、「友人の幸福はここにある」と示してくれている人たちの気持ちが見えないほど、私は子供じゃないと思うわけですが。
こうやって、いろんな人たちの期待と願いがかかっていることは、私からは壊せない。壊す権利があるのは兄さんだけで、彼はその気になれば、どんな女性でも落とせるし、そうやって自堕落に生きてもそれを周りを巻き込んで納得させて自分の味方にさせてしまうだけの「力」は持ってるし、「禁忌」というものを超えて踏み出してしまった時に持っている耐性も、きっと私同様けっこう強い人だと思うので、そうしたければいくらでもそうできるだけの力は持ってる。彼は自分が思っているほど弱い人間ではないです。その力は私が知っている誰よりも突出しているから、その点でバランスを取るのに油断がならないと思うほどだから。
だから、この件に関しては、まあ、他にも理由はいくらもあるわけですけれども、亀梨君がこの件に関して心をどれだけ砕いて頑張ってくれたか、ということに感謝の気持ちを示したいですし、誰をどのように信じるのかといえば、亀梨君の一途に頑張ってくれた姿を私は一番に信じてる、とそういうことにしたいと思います。
(あとは、「金爆を喰うよりも、福山雅治を喰ったほうがよっぽどマシ」って、言えってリクエストが某所よりある気がするので、書いときますけどもね(苦笑)。まあ、これもちょっと福山君に対してヒドイ言いぐさなわけですが、この手の毒は一部で受けがいい気もしますので。妙な攻撃ネタは、なんでその方が「マシ」なのか、よく勉強して理解してから出直してきて頂ければ、それが一番かと。)
<追記>あとは、「パフォーマーもお客さんも、両方とも楽しんでいるような、福山君のそういうライブを見るのが好き」って書きましたら、芸能チームに喜んで頂けたようで<(_ _)>。でも、ライブってそういうものなのではないですかねえ、やっている方が「やらなければならないからやってるだけ」のライブなんて、見ている方が辛くなるだけなのが当たり前な気がするわけなのですが。(まあ、でもそういう私だったら見たくないようなライブを見て、残酷に喜ぶ人もいるのかも知れませんが。そういや、ライブではありませんが、一年ちょっと前くらいにどこぞの病院でそんなような講演を見た気もしないわけでもないですが。客がいっぱい入っているからって、何でも必ずしも良いことなわけではないわけだーー;。)
さて
今日は、「誕生日に真白な百合を」のPVを見て、2010年の「FNS歌謡祭」のビデオがあったので、それもついでに見てみました。確か、この頃から「FNS歌謡祭」ってコラボ的な企画モノみたいな曲が多くなって、で、客席でゲストが他のゲストのステージを見ている、という感じになっていて、それも何だか変だなと思ったのですが、この時、福山君だけソロで、しかも3曲も歌っていて、どうもそれが「この人いつから、こういう特別扱いみたいなのを受けるような人になったのかしら?」って、その時にとても不思議に感じたことを、今でも鮮明に覚えているわけです。たぶん「FNS歌謡祭」なんて見ちゃいけなかったのでしょうけれども、見ちゃったものは見ちゃったわけですし、当時は何も分かっていませんでしたから。で、歌われた曲は「HELLO」「桜坂」「心color」だったわけで、確かこの時、全体にどうにも前向きじゃない歌ばっかりだったというか、そんな感じがしていて、「心color」だけが唯一ちょっと前向きという感じで心に残ったので、確かそのことを日記に書いた覚えもあります。(でも、この曲もちと危うい感じなので、今なら取りませんけれども。)
でも、今見直せば「桜坂」を歌っている時の福山君の目とか、とても気の毒で見れたものではないわけで、しかも、今になって気が付いたのですが、このビデオを見ているとちょっとなんだか腹が立つというか、そんな感じになるわけです。そこにすかさず「だから見ちゃダメなんだってば」という突っ込みが来るわけで、よく考えてみれば歌っている人はともかくとして、客席は芸能人ばっかりいて、みなそれなりに「目力」を持っている人々ですから、まあ、そういう人たちが纏まればそうなるのかな、というか、「もしかして、そのための番組だったんだ、これ??@@」ということが分かりまして、こんなビデオでも効力があるなんて、すごいな、と改めて思ったのでした。確か「FNS歌謡祭」は面白いと感じなくなって、次の年から見なくなりましたが、その次の年は2012年ですから、まさに、けっこうギリギリな時期だったんだな、と思います。
で、その後はDUNLOPの新CMを見に行って、午後になってから週刊誌を買いに出かけました。そうしたら、なんというか、白黒まみれになっていまして、すごいな、と。表紙のSexy Zoneの中島健人君、BIG BANG、美輪明宏様、吉田鋼太朗さん、吉高由里子ちゃん、小沢真珠さんあたり。で、白黒の兄さんはといえば、目力全開で
「ふりかへらない道をいそぐ」
ですか。なんというか、確かに前に行ったときに比べれば、何もかもが違う、と感じます。(以前は「悪役だけど本当はいい人」ってそればっかりであった気がーー;)
ゆずの「よろこびの歌」がかかった時にも、なんだかよろこんでくれた方々がいたようですし、本当に「千と千尋」のようだと思ったのでした。エネセーブのタイヤは本当にいろんなところで役にたってくれているもののようです。
どうにも
夜中に「squall」でたたき起こされて眠れないので、いろいろと考えていたわけです。
この5,6年、いろんな状況を先頭きって牽引してくれてきてたのは、やはり「嵐」であって、彼らに代わる存在はいませんし、送る力も安定してると思います。それで、なんで彼らがそれだけ突出して安定感が高いのか考えてみたのですが、それは彼らがデビューしたのは1999年であって、「声がどの程度届くのかさっぱり期待できない絶望的な状況」だってはっきりしてからのデビューなんて、彼らはそこから始めてるし、自分たちの能力もものすごく客観的に理解しているし、状況的にどれだけのことができるか、ということを一番計算するのが上手だからだと思います。彼らは皆「気」が強いですけれども、中でも松潤の気の強さは突出していますし、知性と理性という点ではやはり慶応ボーイの翔君の力が強いと思いますので、力を計算して使うことに慣れてるし、こちらの反応もきちんと冷静に分析できてると思う。私は、嵐に関しては、彼らの主演したドラマとか全く見たことがなくて、純粋にMステとかで見た範囲でしかご縁がないわけですが、それでもこれだけの力が発揮できてるのは、彼らのチームワークのバランス力が非常に優れているから、なのだと思います。
で、嵐の次に、この状況を引っ張ってきたのがSMAPと福山君で、SMAPは良く「SMAP×SMAP」を見てましたし、「輝く季節の中で」の中居君と、「ハウルの動く城」の木村君がいますし、「ロングバケーション」も見てましたし。それに「Top Of The World」で実感しましたけども、香取の神と草薙の剣の名を持つ者の力も伊達ではないと思います。でも、彼らは1988年デビューで、福山君と芸能界デビューは同じ年らしいですので、おそらく「声が届かない」という絶望感に関しては、まだ期待値が高い時点でデビューしただけに、福山君と同じくらいにきつい思いを共有してた時期があって、結局その姿を見て、覚悟して登場してきた「嵐」と彼らの違いはそこにあるのだと思う。
そして、結局何というか、現在考えられている状況というのは、たぶん、「最初の子」はともかく私から自主的に背中を追いかけさせることに成功しているわけですし、GLAYの曲と非常に親和性が高くて、「HOWEVER」を頂点とした楽曲群が後見についているも同然ですし、ともかく一番安定した仲が保たれていると判断されてるのだと思います。結局一番心配されているのは、兄さんに「それ行け」って言われて追いかけられただけの子と、夢の中で強引に追いかけさせただけの兄さん自身だ、と。で、そこをフォローして、補強すべきと考えている人たちはいっぱい居ても、困る点が多い、と、そういうことなのかと思います(苦笑)。どうもSMAPはじめ、芸能チームは役割とは別に、心情的に兄さんに同情的な人が多い気がして、「『ギザかわゆす』はねえべ。」って突っ込まれて、私の方が大びっくりなわけで、だいたい、いろんなことがありすぎて、私の心の中の太陽が「燃え尽きそう」というよりは、驚きのあまり「沈んだり昇ったりするのを忘れそう」という感じなのに、突っ込まれても本当に困るのですが。
もしかしたら、私が石井のファンなんかになって、のほほんとしてたのは「芸能人」という人たちの立場や生活習慣や環境をある程度知っていて欲しい、という意図もどこかにあったのか? と今になれば思うのですが、たぶん、それはそういう点では成功していて、だいたい私は自分が医者のくせに、臨床医の立場や生活習慣や環境とかは、むしろさっぱり分かっていませんから、そんなに気にすることは無いと思います。(石井という人は、ファンクラブの掲示板にはこまめに書き込む人でしたので、そこから垣間見える仕事のやり方とか、生活習慣とか見えるものはかなりあったわけで。少なくともtwitterで見た限りでは、兄さんはけっこう健康的な生活をしてる方だと思うのですけれども??)
そして、いろんなライブをたくさん見た結果、純粋に「きゃー」なんて言って喜んでいられるだけの「誰か」のファンなんかには絶対になれないのが今の私なわけで。誰かのライブを見たら、それが自分にとって楽しいか、そうでないか、というだけでなく、お客さん全体をちゃんと楽しませているのか、とか、そもそもパフォーマーの人たちも楽しくやれてるのか、とかそういうことを冷静にチェックしてしまう癖がもう身についているので、それ以外の見方は誰のライブであってもできないと思います。送ってもらうお歌も、そういうチェックをしている上で、ありがたく受け取らせて頂いているわけで、なんというか、そういう癖がもう「職業病」みたいに身についてしまっているものですから。
だから、昨日は、本当なら見てはならない映像をけっこう見た気がするわけで、だいたいそもそも「冬の大感謝祭」なんて、よろしくない名前ですし、「MUSIC MONSTER」なんてのもそうだと思うのですが、本当に誰もが必要だと思うのであれば、ライブビデオの一つや二つは買っても良いと思うし、そのくらいの余裕がないわけではありません。でも、2011年以前の「冬の大感謝祭」の兄さんのあの目は正直言って見たくないです。
カトリック教徒であっても、全カトリック教徒の良心を代表するかのようなトールキン教授は、どのような思いと願いを「指輪物語」の登場人物達に託したのだろうかと思います。ピーター・ジャクソン監督が「指輪物語」を映画化したときに、どんなに絶望的な状況であっても、絶望することすら許されない孤高の王アラゴルンを演じた役者さんは、ともて上手だと思ったし、どの役者さん達もみんな役柄にぴったりであったと思いましたけれども、でも「冬の大感謝祭」の福山君の目を見て、結局映画の中の役者さんの目は「演じていたに過ぎない」ということが分かった。
絶望的な状況の中にあっても、絶望しないでいるのは、そうしたら、それこそ何もかもが終わってしまうことが分かっているから、絶望しないでいるだけの「目」。そんな「目」でやってるライブは福山君のものに限らず、誰のライブでも見たくはないわけで。でも、そんな「目」になっている原因のどこかに私が関わっていたとするのであれば、もしかしたら他の二人にもそういう目をさせてたのかもしれないと思いますが、まあ、そちらとは大学を卒業して以来、目を見たこともなければ、見る気もなかったわけですから、どんなに遠く離れていても、誰よりも最初にその「目」を届けることができたことを忘れないで頂ければと思う。私もこの「目」のことは忘れないし、世の中には動画のキャプチャーソフトとかそういうものもいろいろとあるわけですから、本来であれば手元にあってはならないはずの過去のMステの映像と冬の大感謝祭の映像は、私のPCの中にとっておこうと思います。あの「目」を忘れないために。(そして、それを見るときには「最後の子」は右目で見ることしか許してくれないでしょうから、結果的にはどっちも忘れなくて済むかな、と。なんていうか、こういうことに「バランスをとる」ことが必要なんて、今まで考えたこともなかったわけですがーー;。)
あとは、なんでしたっけ? なんというか、「劣等感」的なこととか? と思うわけで、そういうことはゆずの歌で全部解消済みという気がしたので、一番意外というかそんな気がするわけで、こういう点ですりあわせが必要になるとは余り思っていなかったわけですが。だいたい、私の生き方がそもそもそんなに優等生的な生き方でもないわけで、別に自分のことはそれで良いと思っていますけれども、医学部を7年かけて出たこととか、専門医の資格を何も持っていないこととかに、私だってコンプレックスが無いとは言わないし、普通にまっとうに生きてたら、そういうコンプレックスを背負わずに済んだだろうとは思いますが、まあ、でも、誰が見ても「普通に100%真面目なだけの人」なんて、きっとあまりそれほど面白くない人であろうと思うので(苦笑)。生き方は人それぞれです。だいたい、石井のファンをやっている時だって、私は石井のことを「専門程度の馬鹿」とかそんな風に見下したりとか、馬鹿にした記憶は自分の中にはないわけで、あまりそういう点を心配されると、はたから見て、どう見えていたんだろう、とむしろ心配になるくらいなのですが。
どうも、ここのところの福山君とチーム福山のスタッフの皆様の頑張りぶりは、「届けたい」という思いと「(ファンにならずにバランスを取りつつ)忘れないでいて欲しい」という思いが表裏一体となっている気がするわけです。そういう点に関しては、私はそれほど鈍感な人間ではないのではないか、と思うわけですがーー;。まあ、たぶん何もかもインパクトが強いことばっかりですので、他にもやらねばならないいろんなことと同時並行させて頂ければとは思うのですが。
<追記>全くのところ、どうにも黄河・遼河の神は、現実的にどうなるのか目に見えていても、気持ちの上では「友人」なんて言葉に満足できない正直なタイプと見えますのでね。大人しい長江の男神にとっては、確かにそれは脅威かと思うわけですが。「家族になろうよ」の次に「My Voice」がかかったりすると、きっと「あなたはそんなに『弱く』ないでしょ。」って唱和して突っ込む長江の夫婦神がいる気がするわけですが(苦笑)。