Mステスーパーライブ

福山君の「Beautiful life」のテレビ動画がどこかに無いかな、と思って探してみたところ、2012年のMステスーパーライブの映像が見つかりました。ということは、

 

2012年3月頃:「生きてる生きてく」

2012年12月:「Beautiful life」

2014年3月:「HUMAN」&「暁」

 

となるわけで、なんというか、私からみれば、私が知っている限りで一番福山君らしいステージはMステスーパーライブだと思うし、見ていて一番楽しいと感じるのもこれです。そしてやっぱりかっこいいと思います。でも、まあ兄さん的に言えば、「営業用」のお顔ってことで、使っている目の力もそこそこに「こっちに来い」という程度のものであると思う。そして、「Beautiful life」の時には「この歌を届けない人はこれを見てないって知ってる」て書いてあるしね。でもね、普通に「観客」として見ている分にはこの程度の力のいれ具合でいてくれていた方が楽に楽しめるというのはありますのでね(苦笑)。それに、この頃はだいぶ状態が安定してきているから、福山君がそれほど暗い顔でもないしね。

 

それに比べると、「生きてる生きてく」の時と「暁」の時は、明確に「目の力を伝えるために使ってる」のが分かるわけで。でも、そういうのは気が付いてみれば意味がわかりますが、「観客」として見る分にはなんだか違和感を感じる部分がありましたのでね。「暁」の時は私が気持ち悪くなっちゃいましたしね。

 

 

なんかね、泉水ちゃんのことで、私が怒ると、周り(特にお目付役)は「暴走男よりもひどい暴発娘だ」とか言う気がするわけですがーー;。でも、その割には小さい人たちが「おかあさんは悪くない」ってかばってくれているような気がするわけで。

私はただ、人の命は一つ一つが大切なものなのだから、彼女が命をかけて私に何かしてくれたことがあるのであれば、私も彼女の死に対して命をかけてお返ししなければならないことがあると思うだけだ。私の命が特別で、それを守るためなら他の誰が何人死んでもいいなんて、そんなこと私自身が一番納得できないことだからだ。力のある人たちは、彼女の死を「それを受け止めて乗り越えていかなければならないだけだ。そうしなければ前に進めないから。」って言うかもしれない。そして、それは一生私に言わないで、私にだけ心労をかけないでのほほんとさせてれば良いと思うかもしれないが、そんなことには私自身が一番納得できないことですし、どうせその内に私は兄さんの腹の中からとか引きずり出さずにはいられない性分だし。

 

誰の命も特別だからこそ、奪われたものは他に代償を求めてでも、取り戻せるだけ取り戻して、そんなことを止めさせたいとそう思うだけ。彼女の命も、私との同じように大切であって、人の命に重要である、無い、なんてないわけで、少なくとも我が家の身内を見回したって、そんな風に人様に気を遣って頂くに値するような人物なんぞいるようには思えないしね。それに、自分が守らねばならないはずの人たちを犠牲にして守られているだけの神なんぞ、まずそんなもんこの私が「いらない」と思う人なのでね。人は人らしくあれ、というのであれば、まず私のために命を差しだそうとか、そんなことから止めるべきなのだ。そして、そんなことがもしあるのであれば、そんな状況を作り出した相手を私が許すわけないって、それだけのことですともさ。

(でも、お目付役はびびっちゃって、どうもこの件では「どうかそんなに怒んないで下さい」とか思ってるようですけれども?)

 

 

<追記>あと、「誕生日に真白な百合を」も探してみましたが、これはよろしくない属性の曲ですねえ、と思うわけで。なんだか唄っている本人が「こんな曲唄いたくない」みたいな顔をしているわけで、どうりでMステで唄わないわけだ、というか。まあ、別に福山君がどこでどんな仕事をしてつじつま合わせてるのかは知りませんけれどもねえ、この曲一つとって、何もかもぶち壊しになるようでは、最初っから全ては無理な話だったんだと思う。私はただ、福山君がどんな顔をして仕事をしているのか、何を考えて仕事しているのか、よろしからぬ曲をどんな思いで唄う人なのか、そういうことだって少しは知りたいし、そんなことも知らないで、家族も夫婦もへったくれもないと思うのでね。そりゃあ、ライブとかどうにも行ってはまずそうなものまで行こうとは思いませんけれども、とそれだけのことさ。

(ていうか、「あんた、これ本気で『葬式』の歌(しかも「母」だから私を指すと思われますが?)なんだけど、分かって言ってるんですよね?」ってお目付役が言うわけで。もちろん、分かってますともさ。だいたい泉水ちゃんの死が、追悼ライブとかでどうやって食い物にされたのか、みんな知っているくせに、私がこの『葬式』の歌くらいも受け止められない程度のものでは、それこそ彼女の死に対して申し訳ないって、そう思わないのかね、ってそう思うだけですとも。要は、福山君が私を直接呪ってる歌ってことなんでしょ? ってそういうこと。この曲で誰が一番辛い思いをしているのかは、唄ってる人の目をみれば分かるだろう。私はその目を受け止める度量もない人間だって、みなさまそう思うのですかね? って、それだけのことさ。他に言うことなんかないね。だいたいそうできてこその「人らしい人」なんではないのですかねえ?)

今夜あったこと

どうもね、私が敵に対して、徹底的に激しい怒りと憎しみを持っていると、誰もが気が付いたので、敵も味方もその理由をしりたがったらしいです。

 

だって、敵はなにがしかの行為に対して、時には「人の命」も代償に取るわけでしょ。私は、誰かが私の身代わりに命を差し出して欲しくなんかないし、人の命は一人一人にあるもので、生きていること、生きていくことこそが何よりも大切なことで、そこに「境界」なんかはないはずだ。どんな立場であっても、生きていることこそが大切なのだから、「代償」だのと言って、命をもてあそぶようなことをすることこそが、生と死の繰り返しの営みを司る「太母」の仕事への冒涜だと思うだけです。

 

だから、私に関することでそんなことをする者は、私に対しての冒涜であり、そのことを私が絶対に許すはずもない。誰でも知っていると思いますけれども、私の中の何かが凍てついて、どんな冷酷になっても、必ず正体を暴いて、人の命をもてあそぶような真似をしたことを後悔もさせてやるし、必ず止めてやるって決心した出来事は、ZARDの坂井泉水ちゃんの死だ。彼女の死は、最初から私に関係あるとは思っていた。なぜなら、私がある場所へ行ったその日に彼女は亡くなったのだから。そして、彼女の最後の祈りと願いは、遠く遠くかすかにこだまのように私のところに届いたのだと思う。それに対して、私が応えることはなかったけれども、きっと兄さんは非常にものすごく怒ったであろうと思うし、きっと私もそれはどこかで感じていたであろうと思うし、私自身も「こんなことは絶対に許さないし、止めてみせる」と思ってた。いったい、あの裁判は何のために起こしたのですかねえ? というしかない。あんな風に、人の命をもてあそぶような真似を止めさせるためだ。そのことは、途中で頓挫していて、ずっと他のことに専念してた気がするわけですが、今日兄さんからいろいろな情報を吐き出させて、すっかり思い出した気がしますのでね。

 

神々の世界の「代償」の話なんか知らないね。だけども、私が「生と死の太母」であるならば、そんな風に人の人生を弄ぶものこそが、私の役割に干渉してくる敵であり、その出過ぎた行為に報復できるだけしてやりたい、と、それだけのことですともさ。「境界」なんてものは、あっても無くても、知ったことではありませんな。

ふと考えたこと

要するに神サマの世界には「見合うこと」「見合わないこと」とあることのようですが、例えばこの私が「生の豊穣の太母」だとすれば、それを損なうようなこと、例えば地震に乗じて、原子力発電所を爆発させようとすることは、「私の取り分を冒すこと」に他ならないのだから、それこそが「僭越な行為」であり、私がそれを止めようとしたことこそが「当然の私の取り分」なのだから、それに対して敵がどうのこうのと言うことそのものも「僭越な行為」であり、こうした「僭越な行為」の連続が相手に「貸しを作る」ということなのであれば、この私がその「貸し」を取り立てて、何が悪いのか? ってそう考えただけなわけですが。だいたい「全て」が私に属するものなのであれば、どんなビデオだのアニメだのを見ようとも、それを「勝負」だのなんだのと言うことそのものが、「僭越だ」と思うだけです。今のところはね。

さて

昨夜は、最後に羽生結弦君の2012年と2014年の世界選手権の「ロミオとジュリエット」を見て欲しい、ということで見て見ました。どちらも羽生君は白黒の衣装を着ていますし、ロミオとジュリエットというのは、「敵同士」の家柄なのに、互いに好きになってしまう二人の物語と言うことで、蛇の兄さんと、蛙の私のことを意識して演じてくれたもののようです。白黒の衣装は兄さんの象徴ですし。
本来は、氷上のスポーツなんて、我が家には良くないものですし、勝負事もよろしくないものです。だから、それは「見てはならない」ものなわけですけれども、結局いろいろと「敵の取り分」と「味方の取り分」という風に線引きされている今の世界では、「敵の取り分」とされているものの中にも「良いもの」はあるのだから、境界を破壊して、それを「自分の取り分として再生できること」が「破壊と再生の神の力」だと考えられているらしいです。要するに彼はそのことを私に教えようとしてくれているし、私たちならいつかはそうできると信じて、フィギュアスケートの世界に身を置いているわけだ。そして、父権社会のヨーロッパでは、太父としての兄さんにそのような力を期待しているようです。要するに現状でいえば、羽生君の「ロミオとジュリエット」は味方のものだから取って欲しいし、「オペラ座の怪人」はどうみても敵の取り分だから、取って欲しくないもので、その区別がつくようになって欲しいということなのだと思います。フィギュアスケートだから、全て駄目っていうふうにはしないで。

で、その間にも蛙の人たちが、「女神よ、あなたはあまりにもおっかないから、我々は永遠にあなたのことは忘れません。」とか言ってくるわけで、何というか、正直で真面目な蛙さん達からは、いつも心底うれしくなるようなお褒めの言葉を頂けて嬉しいですよ? 本当に? という気持ちになるのですがーー;。お目付役からは「あなたがあの男よりも冷酷になってどうすんですか?」とか言われるわけで。もー、じゃー、どーしろと?(苦笑)と思うわけですが。

そして、寝ようとしていると、兄さんが「夫婦って言ったって、現実には自分は表向き一生独身なんだし、二人が夫婦だったっていう証も残すことは許されないし、覚悟していたし、分かっていたつもりだったけれども、ただただ悲しい。」って泣いているものですから、「あー、兄さんも普通の男の人の幸せを全部諦めなければならなくて可愛そうだな。」と思って、ちょっとほろっとしましたら、お目付役が「冷酷なあなたならその男に流されたりしませんよね。」とか言うわけで。私が冷酷な理由の一つには、どうにも有能なお目付役の存在がある気がするんですけれどもねえ? って本気で思うわけですがーー;。

で、朝方耳元で「生きてる生きてく」って囁かれて目が覚めましたら、丁度「生きてる生きてく」がかかりまして、で、そのあとにゆずバージョンの「守ってあげたい」とJUJU姐さんバージョンの「守ってあげたい」がかかりまして。そっかー、ゆずバージョンは、二人からで、JUJU姐さんバージョンは兄さんからのお歌なんだ-、と思ったのですが。「生きてる生きてく」はストレートに「君と子孫(遺伝子)を残したいんだ」っていう歌ですからねえ。確かに、この曲を最初にMステで聴いたときは、「独身のはずのこの人も誰かと遺伝子を残したくなったのかしら?」とはちらっと思った気はするわけですが、さすがにこういう展開になるとはねえ、ということで。しばらくは、この曲を兄さんは一生懸命プッシュしてくれるんじゃないのかな、と思いますが。確か、誕生日に見た夢で、1番目の子から結婚指輪を貰ったら、次の瞬間、福山君と新婚生活を送っている夢を見て、「何故@@」と思ったことがありましたが、その頃からそうするって決めてたんですね、兄さん? って思うわけで。
で、起きた後、気が付いたのですが、どうも関係者はみな「目の力」が強くなってきているようで、兄さんとか一番目の子もそうなっているらしいです。で、誰かさんは強くなった自分の気をもてあまして、どうもどこか遠くで「気」で咆哮を上げていたようで、それは何となく感じたのですが、そうすると「朝からうるさい」とか「黙れ」とか「静かにしろ」とかいう呟きが私の方に回ってくるんですけど?@@ みたいな。

で、その後は、勝負というよりは、いろいろお勉強させて頂くために、いろいろと動画を見ていました。B’zのお二人の動画を見ていると、稲葉さんは周囲を圧倒するような気を発しているわけですが、でもそれでいてご本人にはまだ力のほとんどを使っていないような余裕を感じるわけで。「それで稲葉さんは、こちらの視線が届いても平気なんだ。」と兄さんが呟くわけで、強い力を持ちつつ、人間性も安定して優れている稲葉さんは、兄さんの憧れの方であるらしいです。

で、その後、まずはKinki-Kidsのお二人から見たわけです。お二人は、二人だけの時には、剛君の方が「歌を送る方」で、光一君の方が「守る方」なのだと思います。守っている時の光一君は、歌詞の一言一言に、周囲を圧倒するような気を放っている気がします。で、光一君の方が力も強いと思います。でも、バックにJrとかがいるときには、光一君も「送る方」に回っているわけで、そっかー、Jrとかのバックダンサーの意味は「守るため」にあるんだ、と分かったわけです。そうすると、歌を送る側はそれに専念できるからです。

そしてその後は少年隊の「君だけに」を見て欲しい、ということで見たわけですが、みなさん、白黒っぽい衣装を着てらっしゃって、「あー、これ兄さんのお歌だな。」と思ったわけです。1987年の歌ですから、まだみんな高校生の頃の歌ですねえ、今の兄さんからはなんだか想像がつかないくらい純情な歌だな、と思ったわけですが。少年隊は、今でも第一線で活躍してらっしゃる東山さんの力が安定して優れていると思います。だいたい、週刊誌のインタビューとか読んでも、意志強固な方らしいですし、気の力も意思の力も優れた方なのだと思います。(「そうです、東山さんは我々の憧れの先輩です。」っていう声があちこちから聞こえてくるわけで。)

その後はTHE ALFEE。おそらく「星空のディスタンス」は2番目の子の歌? という気もしないではありませんが、3人の中で一番力が安定しているのが桜井さん、で、次は高見沢さんだと思うのですが、高見沢さんは目の力はそれほどでもないように思われます。目力だけだと坂崎さんの方が上に感じる。だから全体でいうと、桜井さん>高見沢さん>坂崎さんという力関係だと思うのですが、「目」に関しては坂崎さん>高見沢さんなのかな、と。でも、きっとお三方がおっしゃりたいのは、誰が力が上とかそういうことではなくて、お三方がずっと仲良しでTHE ALFEEをやって来られたように、こちらの男の子3人にも力を併せて仲良くやっていって欲しい、ということなのだと思うのですが、なにせ兄さんは「仲良くするのは表向きだけ。」っていう人ですのでねーー;。どこかで、会うことがあったら「気」で蹴飛ばしてやって下されば、それが一番の薬になると思うのですが(って書くと蛙の人たちが「全くその通り」って言うわけですがーー;)。でも、基本的にはなんとなく、皆さんは一番真面目な子を可愛がって下さっているような気がなんとなくするのですが。彼の真面目で優しい性格は同性の年上の方々から可愛がって頂いているように思います。(まあ、兄さんとかはあんまり可愛げのある性格には思えませんからねえ 苦笑。)

その後は、昔懐かしい「女性アイドル」というものをいくつか見て見ようということで見たのですが、たぶんお味方なのは、有名な中では小泉今日子さんくらいなんだと思います。で、小泉さんでもいつも良い曲を唄われていたとは限らないわけで、私がいろんな曲を聴いていた大学時代は、本当に暗い気持ちになるようなよろしくない歌ばっかり身の周りにあったんだな、と思うわけです。
で、敵の側の「アイドル」というものをいくつか見て見ると、なんというか大きく分けて2種類に分かれるように思われるわけです。一つは、要するに女性アイドルだとファンは主に男性と言うことになりますので、客席とかから放たれる男性の気みたいなものを受けるのが楽しくてたまらなくて、やっているタイプです。そういう人たちの目は、客席から寄せられる気だけで満足しているのか、それとも現実でもつきあう男性の気を喰うのが好きなのかという違いはありますが、そういうことが楽しくてたまらないのだという気がします。おそらく、現実でもつきあった男性の気を食いちらかして、飽きたら捨てて別の男に乗り換えて、そしてそういう能力がある自分自身の生き方も楽しくてたまらない、ってそういう目をしている人もいる気がする。なんというか、それこそ夫を食い散らかして、飽きたら捨てて地獄に突き落とし、別の男に乗り換えるイナンナ女神の性欲を象徴するようなタイプというか。(「『芸能人の夫を食い散らかして捨てて、他の男に乗り換えろ』みたいなことを示して、暗に煽るようなことをやってるような例もありますよねえ?」と兄さんが言うわけで、「あー、それってミ○○ンのこと?? まあ、でも私自身に『芸能人の夫』がいるって気が付く前にそんなことされましてもねえ??」と思うわけですがーー;。)

で、もうちょっと性質の違うのが、何というか男性と同じで、自分の目の力を知っていて、それを目的を持って利用できるタイプな気がします。そういう人たちが果たそうとするのは、男性の心を操ることだけではないわけですから、場合によっては女性も対象になり得るわけで。で、昔、明菜派とか聖子派とかあったなーと思って、この2人を見てみたのですが、明菜ちゃんとかはこういうタイプなんではないかと思います。いやな感じでも「目の力」はけっこう強い感じです。きっと私が彼女の曲を好きだったのも、その「力の強さ」に惹かれたからだと思う。でも、年が進むにつれて、ライブでの彼女の目の中には、次第に怯えているような陰が目立つようになってきているように思われますので、現況を見れば、明菜ちゃんも「力を使いすぎてしまった」傾向が強いのではないかと思う。
で、一方の聖子ちゃんは、あまり力は強くない感じに思われます。特に年をとってからは、年齢相当の図太さみたいなものが出てる気がしますが、若い頃から時々、目にちらちらと「不安の陰」みたいなものが出てる気がします。でも、彼女の優れているところは、そういう「無理をし過ぎていて出る不安感」が出ると、ふっと力を抜いているのが分かるわけで、そういう不安感が目に出てしまっても止められないで走り続けることしかできない人たちに比べれば、バランスをとって力を使うことに長けており、それが彼女の長続きしている秘訣なのだと思います。まあ、でも「力」そのものを愛でる傾向が強い私は明菜ちゃん派だったわけだ。(しかも、あの鼻声がどうにも好きになれなくてですねえ? みたいなーー;)

で、一番すごいと思ったのは森高千里でしょうか。昔ね、2番目の子とつきあっていた頃に、彼が「森高は嫌い」って言ったことがあって、私の方は何も知らないので「そういう人の悪口を簡単に言うみたいなのはどうなんだろう。」って内心思っていたわけですが、でも今森高の若かりし頃の「私がオバさんになっても」とか聴くとですねえ、明菜ちゃんみたいな目的意識を持って使っている目力で「絶対あいつをあそこから引き出してやる」って言っているわけで。他のアイドルは目的はどうであれ、その力はお客とか、見ている人全員とか、割と普遍的に使う傾向が強いわけですが、彼女は明確に標的を知っていて、それを意識して力を使っていたわけで。「あいつって誰? っていうか、その「あいつ」って私のことにしか見えないんですけれども。そっかー、それで2番目の子はそのことを警告しようとしてたわけだ@@。」と分かったわけですが。でも、私はどうにも「鼻声」って受け付けないタイプでしてねえーー;。もうあの頃から、私は明確に「標的」にされていたわけだ。

それから、小泉今日子さん。よろしくない歌でも、私の思い出の中に強く残っている曲をいくつか聴いたわけですが、中に「優しい雨」という歌があって、あー、この曲買って持ってたな-、と思ったわけで。で、聴いてみると歌詞の中に「私のすべてに目を反らさないで」っていう言葉があって、そこだけ自分の昔の2番目の子に対する気持ちと強く共鳴するわけです。私が彼に送りたいと思った曲はZARDの「Boy」とこの曲のこの部分だったんだと思う。彼が尾崎豊の「I LOVE YOU」を唄って、私が「Boy」を唄って、たぶんそこのところまではお互いの気持ちは通じていたと思うのですけれども、「優しい雨」は良くない曲だから、そこに気を取られてしまっていて、彼はこの気持ちには気が付かなかったのかもしれないと思う。自分のことを全く理解されていないという気持ちは私の中に昔からあったし、2番目の子の方は彼は彼でやらなければならにことに必死で、結局若い二人の気持ちはすれ違ってしまったわけですな。(って書くと「それが『力』の差」って呟く兄さんがいるわけですがーー;。まあ、兄さんも確かに「良い性格」ではあるのですけれども、私の性格の一番の理解者であることも否定できないと思うのでね。)

で、あとはジブリアニメの予告編とかいくつか見てたわけですが、「ハウルの動く城」関連を見ていると、ソフィーとカルシファーが映っている場面で、「ソフィ-、ソフィ-、本当にそんな男でいいの? ハウルさんのことを忘れないで。ハウルさんが魔と対決する時にソフィーの肩を抱いていたように、あの病院で辛い思いをしている時に彼がそうやって肩を抱いていてくれてたのを感じていたでしょう。たとえ、彼にはそれしかできなかったとしても。」って言われるわけで。あー、そういう感覚は何度もありましたし、確かにそれに支えられていたことは大きかったですけれどもね。要するに現状で言いたいことは、兄さんの「千と千尋」を使うなら「ハウル」も使えってそういうことなわけね、と思うわけで。じゃあ、そうしましょうかということになると、毒蛇兄さんが「ちっ」って言うわけで、どうも兄さんはハウルの中では、自分は主人公どころか、「火の悪魔」ということで、人間でもないのが面白くないらしいです。じゃあ、ナウシカのテトはどうなの? って聞くと「あいつにはそれで充分」って言うわけですからね。もー、本当にこれ以上私にどうしろと? って思うわけですが。とっても冷酷にならないとやっていけないのですな(苦笑)。

魔の時間ですな

ええと、ついでに「ラピュタ」と「もののけ姫」の予告編を見たわけで。

「ラピュタ」はですねえ、要するに主人公のカップルの名前が「パズー」と「シータ」って言いまして、で二人併せて「破壊(とかつ再生)の力」を持つわけだ。「パズー」っていうのは、要するに「アメン・ベス・ネルガル系」の「伝統的な破壊(と再生)の軍神」なわけで。一方の「シータ」ってのは、蛙の女神の名前なので、要するに「破壊性を持つ蛙の女神」の象徴ということで、平ったくいうと、「エレシュキガル」というメソポタミアでイナンナと対を成す、いわば「イナンナ・エレシュキガル」とも言うべき「死の太母」の象徴なわけ。要するに、「パズー」と「シータ」っていう組み合わせというのは、「ネルガルとエレシュキガル」という「破壊と再生の夫婦神の象徴」であって、それを「取り分」として取るからには、その力を正しく使い、良くないものを破壊し、かつ残すべきものを再生できるような、強力な「力」と、それを使いこなせるだけの「人間性」が必要とされるわけで。だから、兄さんがラピュタが好きなのは、そしてそれを買い戻したいと願うのは、それができるのは彼が「伝統的な破壊(と再生)の軍神」として認められた時で、それだけの男だと認められたことになるからです。

で、一方の蛙娘はですねえ、「蛙の女神」っていうのは世界中見回すと、「生と豊穣の女神」から「死の太母」まで守備範囲が広いので、この私がどういう蛙娘か誰も良く分かっていなかった、ということで。ともかくつい最近に至るまで、みな、ラピュタが買い戻せるかどうかは兄さんの力量によるものと思っていたわけだ。

そして、現在のところ、「破壊(と再生)の軍神」としての権利は黙示録等で、明確に敵がその権利を主張しており、彼らはそれに乗っ取って、あちこちで争乱を起こして悪さをしてる。それだけに、それを「取り分」として主張できる力量には相当なものが必要なわけで、下手して負けちゃうと自分が潰されるか、自分の力を相手に利用されるだけになってしまう。

で、一方の「もののけ姫」。なんていうかですねえ、最後にいた病院と同じく、最初にいた病院でも「同じ事」が私に要求されていたのだと思う。「もののけ姫」は破壊性の強いアニメで、死の匂いが強いから、あれも買い戻すことはできない。しかも、何よりも私は「主人公サン」では無いと思うから取れない。たぶん1997年のあの時点では、みな私が「人ならぬ所に住んで、死者の世話をさせられていて、人ならぬ存在とされている」だけの存在にしか見えていなくて、ともかくそこを抜け出して「生きて生きて生き抜いていって欲しい」と思っていたんだと思う。それだけでもできたら、私には上等だ、と。だからみんな言ってた。「医者じゃなくたっていいじゃない。生きていくのに最低限必要なお金さえ稼げて、それでささやかにつましく生きて行ければそれでいいじゃない。」と、呼びかけてた。その方が、例え何の力もなくてもせめて「人として生き残れる可能性は高い」とみな思ってたわけだ。まあ、おかげさまで次の年には、蹴り入れてやめちゃったわけですが。そして、兄さんの方にはあくまでも「お前のあの娘の不幸が癒やせるのか?」と突きつけられていた。神としての力をほとんど持っていないのに、その立場になってしまった娘の不幸を、癒やし守れるだけの存在になれるのか? と。まあ、兄さんもちょっと前くらいまでは、そういう気持ちでいてくれたように思うんですけどねえ? と言うしかないわけで。

それが何だか、今になると「魔」から突きつけられた勝負には、「そんな風に妻の力を自分の道具として使うような男が許せるのか?」とか言われてるようですので、なんだかね、皆様の中で、ずいぶんと私も出世させて頂いたというか(苦笑)。たぶんね、「もののけ姫」の登場人物の中で、誰が一番私に近いのかといえば、それは主人公のサンではなくて、烏帽子であるのだと思う。だいたい「烏帽子」という名前が遊女を連想させる名であり、かつ物語の中の烏帽子は、そういうこともやったかもしれないけれども、自分の守り育てる小さな健全な村を守る情熱と優しさは人一倍であり、それなのに彼女自身はそれを守るために何でもやってのける、という矛盾した存在として描かれる。そして、彼女の目も、「そうするためなら何でもやる」という魔的な情熱に溢れている。どうにもね、私もそういう性分ですのでね。だから、私は「力」を好むのだと思う。そうできるだけの「力」が欲しい、と常に欲しているからだ。そういう私の欲を満たしてくれる男がいるのであれば、彼が妻の力を道具としてどしどし使うような冷酷な男でも全然結構である。戦いに必要なのは、どんな戦いでも「力」であって、「人間性を失わないで居て欲しい」なんてのは、結局勝ったあとの綺麗事な話に過ぎないのでね。まずは勝つことが先である、と。それだけのことですともさ? 味方からならともかく、敵から余計な世話を焼かれるようなことでは全くないですともさ。
(でも兄さんはすごく男気のある良い人だと思いますけれども? 個人的にはね。)

たぶんね、2番目の子とつきあっていた時に、私は彼が何か私には言えないような悩みを抱えていて、何か「戦わねばならないものがある」とは気が付いていたと思う。だから、そのことを正直に言って欲しいと思っていたし、彼が言ってさえくれれば、彼を支えて、共に戦っていくのに、といつも思っていた。彼にそれを言うだけの力がなかったのか、言えても言えなかったのかは知りませんけれども、そうしなかったから、結局蛙の人たちは、自分達の太母を自分達だけのものとして取り戻すことが永遠にできなくなったんだと思います。言ってくれてたら、私だって烏帽子のように、あなたたちを守り抜こうとしたと思うんですけれどもね。

 

ネルガルとエレシュキガルで結構。それでラピュタを買い戻せて兄さんを喜ばせて上げられるなら、それだけでもそう名乗る価値はあると思いますけれどもね。