微調整とすり合わせ

毎日、毎日、こればっかり、というわけで、どうやら本日の課題は、掟破りのビデオ鑑賞で「限界点」がどの辺りにあるのかの調査と、あとはまあ「女癖」周りの問題解消?というか、そんな感じだったと思うわけですが。
それで、またいくつかビデオを探して見てみたわけです。春分の日のMステの「家族になろうよ」が入ってる完全版と、いくつかのライブビデオを見てみました。
で、まず「MUSIC MONSTER」の「暁」についてのMCから。これを見ると、どうもね、「ニヤリ」としてしまうわけで、ええと何というか「手を放しちゃうんだ」とか言ってるあたり? 「ニヤリ」としてしまうあたりで、「Sめ!」っていう突っ込みが来るわけで、じゃあ、なんでしょうかね? 他にどういうリアクションをして欲しいのか、お好みのがあったら逆に言ってくださいな? みたいな(苦笑)。
で、次はMステ完全版。確かにこの日は、福山君緊張してましたし、少なくとも楽しそうではなかったと思うわけですが、「家族になろうよ」とか見ていると、なんとなく「もしかしたら、この人は最初からこの歌を『自分の歌』として贈りたかったのかな。」と思うわけです。まあ、あくまでも本音としてはね。本音は誰でもある意味、自分勝手なことしか思わないものだと思いますけれども、正直な人はそれがどうしても表情に出ちゃうところはあるような気ましますから。
で、あとはいくつかライブビデオを見たわけですが、「はつ恋」のビデオを見た時点で、歌ってる兄さんの目を見て、歌詞を見ていると、まるで地獄の底で苦悶にのたうち回るドゥムジを見てせせら笑うイナンナ女神の如くに、笑ってしまう自分がどうにもいるわけで。まあ、これがどうにも「限界点」かな、と思うわけですが(苦笑)。

「Beautiful Life」の歌詞ではありませんが、「諦めることと諦めないことの狭間で苦しむ」と言いましても、今回の件に関しては、誰もが同じように苦しんでいるわけではないと思います。まあ、結局たとえ話みたいになってしまいますけれども、人にはいろいろと夢見る理想の世界があって、黄河文明と長江文明の争いの歴史を、黄河の男神と長江の女神の和合で解消する新しい神話を構築して、かつての大中国、唐のように最先端の文化と知識と法整備と正義ある高邁な精神を、周辺諸国全てから尊敬されていたような、そのような理想を再び夢見る人々がいたとしても、その実現にはいろいろな問題があって(というか、これが事実上最大の問題点なのですかねえーー;)、特に、一妻多夫の文化を持つ羌族の側には、どのような事情があっても、黄河の男神を第三夫としてしか認められない、という譲れない思いがあり、その事情が分かっていても、そのバランスを崩しかねないほど率直で強い力を持っている黄河の男神の力を恐れる思いと、何とか纏めて欲しいという思いと、そういうものがいろいろとあると思うわけですが。
まあ、でも本音というものは誰でも自分勝手なものだと思いますのでね。彼の本音がどこにあろうと、春分の日に、やるべきであること以上のことは、彼はいくら不本意であろうと行わなかったし、その誠実さを結局は誰もが信じるべきである、と思いますけれどもね。そして、結局持てる力からいけば、彼は本当は「第三夫」なんていう地位に甘んじてはおれない力を持っているわけですから、それを敢えて受け入れると言うことは、結局いくら誰もが「諦めることと諦めないことの狭間で苦しむ」といっても、一番諦めなければならないことが多いのは彼自身であるので、そこをあまり懸念して攻めるべきではないと思う。
しかし、昨今の長江の女神は「蛙の女神である」という伝統文化なんか蹴飛ばして、どうにもどこでもすぐ「恐るべき蛇の太母・イナンナ」になっちゃう気がしますのでね。そういうところをちゃんと理解して、「金○を喰わせるくらいなら、自分が喰われた方がマシ」って言ってくれるドゥムジがいてくれるなら、どっちかというと、それはそれでありがたく感謝すべき状況だと思うわけですが(苦笑)。こういう気性を受け止めてくれることがきっと一番上手いのも彼なのではないのかな、と思います。

っていうか、遂に「はつ恋」を見てせせら笑うようになっちゃったよーー;。っていうのが、むしろ自分でも笑うしかない、というか。それに2006年のMステスペも見たはずなのですけれども、福山君のステージはまったくきれいさっぱり記憶に残ってないですし。申し訳ないですねえ、こんな状況で、って、もうどうにもそういう以外に言える言葉はないわけですが<(_ _)>。