というよりも、昼間から雷が鳴って、激しい雨が降り、まるで嵐のようでした。夜は夜で、「変な夢」を見ないように音楽を聴きっぱなしで寝ています。
ローマの思想を調べれば調べるほど、「奴隷は死ぬまで働かせて、死んでから神として祀って、気持ちの上でだけごまかせば良い。」という思想が透けて見えてくる気がします。そうすれば、死んでいく人にとっても「死んだら神のようになれる」という気休めになりますし、遺族も「無くなった人は神のようになったのだから」と考えて誤魔化されるからです。でも、生きている人にとって大切なのは、生きている時に、どれだけ人間的に充実した良い人生を送れるか、ということなのではないでしょうか。「死んだ後にああなる、こうなる」と言って、生きている時には惨めな奴隷のままで良い、と思わせることそのものが間違っているのです。それは人が人間らしく暮らすのを邪魔するための方便にしか過ぎないのではないでしょうか。そして、私の経験からいって、死んだ後のことを盾にとって、人を思い通りに動かそうとする連中に限って、ろくに働きもせずに遊んでいるような気がするのですが。
神というものが、どういうものなのかということは、私にもよく分かっていないのかもしれません。でも、神が人にとって「良きもの」であるならば、それは人の生活を惨めにするものではないし、「改宗したら地獄に落ちる」とか「改宗しなければ殺す」とか、そうやって死と抱き合わせで人を拘束したり、脅したりするようなものではないと思います。良き神であるならば、ただ、人間らしく幸せに生きるために、自分にとっても、他人にとっても、「神」なんてものにとらわれずに、よりよい生き方を模索して欲しい、と願うのではないでしょうか。
例えば、自分の信者がどこかで迫害されていたら、良き神であったら、改宗でも何でもして生きて幸せになって欲しい、と願うものだと思う。自分の信者を助ける努力もせずに、ずっと後になってから「殉教者」とかいって、良い者のように表向きだけ扱ったとしても、それで亡くなった人の生涯が、惨めなものではなかった、ということにはなりません。彼らがどんな立場であれ、人間らしく生きていけるように配慮する義務を「神」の方が怠っており、それを誤魔化すための「殉教者扱い」なのではないかと思わずにはいられません。
そして、もし「神」というものが、国家の大歓迎を受けるような存在であるならば、表向き「弱者の施設」を訪問して「弱者によりそう」なんて言うのもおかしな話です。それだけ「権力」というものに近いところにいるならば、政府を、そして政治を動かして、「弱者のない社会」を何故作ろうとしないのでしょうか。もちろん、そういう弱者の中に信者がいれば、彼らからの「善意の献金」は受け取って憚らないのでしょう? どんな少額でも? と思うわけで。
弱者を奴隷のように搾取して幅からない。死んだら神にしてやる権利が我々にはあるのだから。と、それがローマの言い分なのではないでしょうか? 2000年前も今も? と思うわけです。そして、それをアプレイウスが私に教えてくれているわけです。