アモールとプシケー

今日は比較的暇な一日だったので、8日に放送されたMステをもう1度見てみました。だいたいどの放送も2回は見ますし、キスマイの回だけ1回見て終わり、というのも不公平な気がしましたので。
で、カナちゃんの普通にどうでも良さそうな自己完結的な歌を聴いていましたら、ふっと、「たまには抱っこ」と言って抱きついてくる白鳥さんの図が浮かんで来まして、「うっ」と思いましたが、こういう図はだいたい自分では選べませんので、とりあえずはまあ、抱っこしとけ、みたいな、そんな感じが浮かんだわけです。
で、湘南之風を見ていましたら、やっぱりどんなに迫力があっても、こういうのは、特に太めの殿方は苦手だわ~、と思って見ていましたら、ふっとマヨネーズのCMの福山君の後ろ姿が浮かんで来まして、更に「好きなのはセクシーな背中」とか浮かんできまして、ちょっと待って、「殿方のセクシーな背中を見るのは嫌いじゃない」とは言いましたが、「福山君のセクシーな後ろ姿が好きとは言ってないでしょ!?」というか、何故この場で浮かぶのが「セクシーなお尻が好き」じゃないの!? というか、そういう気分になりまして。さすがに虎の子もどっかで「図太いねー」と言っていた気がするのですがーー;。いったい何のためにMステ見たのかしら? という気分にはちとなりました。

 

神話のお勉強の方では「アモールとプシケー」の神話を軽く復習していたのですが、Wikipediaではアモールのことをクピードー(英語読みだとキューピッド)としていまして、ちょっと違和感があったわけです。私がこの話に最初に触れたのは「アモールとプシケー」というタイトルで触れたのですし、その類話は世界各地の民話の中にたくさんあって「アモールとプシケー型民話」なんて言うものですから、こちらの呼び方の方が私にはなじみが深いのです。
アモールの名は、AMという子音が基礎ですから、メソポタミアの天の神アンあるいはアヌ、古代エジプト神話のアメンと近似性の高い名前です。
キューピー=クピードー=アモール=アメン=羊のコロン=ベス
って、繋がりますねえ、そういえば? それでカロリーハーフなんだ!? 生活感のなさげな独身貴族がなんで調味料のCMに? ってそういうこと?? みたいなーー;。
どうも世の中には、虎の子のセクシーなお尻を取り持ってくれるよりも、自分の背中をアピールするアモールがいるような気がしてならないのですがーー;。プシケーの名の方は「PSK」ですから、「蛙のベス」みたいな変な名前なのですが。
キューピッドというのは、「KPT」な子音ですから構成的にはテシュブの「TSB」に近い名ともいえます。クピードーとアモールの双神が取り持つ「愛」ですか。そうですか。それで以前見た、彼と福山君が送っていってくれるという夢に繋がるんだ、とようやく気が付いたわけですが。神話という者を読み解くのも意外とタイヘンです。(でも福山君が関わることは、たいていは分かる。何も知らなくてもアモールとプシケーとか調べたくなるわけですからーー;。)

 

<追記>要するに、厳密に述べれば「アモールとプシケー型」の神話は、2世紀のアプレシウスの小説に端を発するものであって、世界各地の同類型の神話かつ民話は、全てここから出たものといえる。要するに各地の「アモールとプシケー型」の神話の拡がりを見れば、それがいつの時代にローマの影響を受けて成立したものなのかがいえる指標となるものなのだと思う。なぜなら、このローマの小説は、ヒッタイトの「イナラとフパシヤス」の神話を男女逆転させたものだから、古い時代のものは「イナラ・フパシヤス型」に準じるものとなるからです。
朝鮮における鉢里公主の神話もその類話といえますが、日本における大物主神話もその類型といえる。そして、この神話における一大特徴は「妻」にあたる女性が一度は死なねばならない点にあり、その起源は更に「エンリルとニンリルの神話」にまで遡るものといえます。
要するに、大物主神話が成立した時には、このローマの文化が既に入ってきていたのだし、時代から鑑みて持ち込んだのは原始キリスト教だったのだと言わざるを得ない。(鉢里公主に至っては夫神が弥勒・ミトラスなのだから言わずもがなですし。)
ローマ神話におけるクピードーの母神はウェヌスですので、子音的には「BNS」、すなわち「BNK」に近い音であり、それはフェニックスと同じ構成ということになります。要するにアプレイウスは「殺す神」である「母神」をウェヌスとし、「殺される神」であるプシケーと分けていますが、ウェヌスの元は「蛙の太陽女神」であり、プシケーが「蛙のベス」であれば、それは両方とも「同じもの」であり、二つに分けたに過ぎない。そして、「蛙のベス」には死んだ後に神となれ(要するに「死ね」)という要求が突きつけられているわけです。
大物主神話で、大物主の正体を見て死んでしまう倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)の墓は箸墓古墳であると言われており、かつ近年では箸墓古墳は女王卑弥呼の墓ではないかと言われています。現実がどうであるのかは私には分かりませんが、そういう説が強く現れる背景には、卑弥呼が倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)、すなわちプシケーあるいはニンリルであるという暗喩も含まれているのではないかと思います。
弥生時代に、この国に水稲耕作を持ち込み、非常に早い時期に大和盆地に定住したのが、羌族の末裔であったとすると、彼らは伝統的な生きた炎帝の文化を有しており、その炎帝とは女性であり、「神と人との身分違いの愛」の神話がそこにあったとすれば、それは「イナラ・フパシヤス型」のものであったと思います。なぜなら、羌族の伝統文化は母系の文化であり、女神信仰が優位だからです。そして、そうすると彼らの女王であった卑弥呼とはその時代の「炎帝」のことであったのだと思う。
しかし、倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)を卑弥呼に見立てようというのであれば、それは卑弥呼をプシケーに見立てることであり、本来あったはずの「イナラ・フパシヤス型」の神話を「アモールとプシケー型」に書き換えようとするものだとも思えます。まるで、ローマ時代にアプレシウスが、蛙の女神をそうやって抹殺しようとしたかのように。お盆が近いだけあって、アプレシウスの飽くなき亡霊が目の前を通り過ぎたかのような、そんな気がした一日でした。
要するにアモールあるいはアメンを取れば殺されるぞ、というそういう警告ですかねえ。まあ、なびかないって分かっているから、全力全開で誘惑してくる白鳥さんもいるわけですがーー;。本当に毎度のことながら、福山君が関わることには無駄なことも、そつも全くないように思われます。

(そういえば、私は箸墓=卑弥呼の墓、ということにはあんまり興味を示さない人でしたねえ。事実はともかく、そこに作られている「伝承」がそもそもろくでもないものなわけだ 呆)