6月の悪夢

20年前の6月27日に「松本サリン事件」があって、私の同級生が一人亡くなったわけです。当時、私は学3(要するに医学部の5年生ということ)で、事件のあった日は講義も休講になって、当初は何が原因なのかも分からずに、全体にピリピリした空気が漂っていたように思います。で、2コマ目の時間に、学3も学4の講義室に集められて、学4のクラス長が、泣きながら彼女の死を報告してた。あまりにも、突然過ぎて衝撃的な事件でした。(なんで、学4の彼女が私の同級生なのかというと、私が1年だぶってるからなわけですが)
ここ1ヶ月くらい、ハンナハンナに取り組んで、類話を考察して、どうも自分でも良く分からない点があって、なかなか前に進まなくて。で、アップして気が付いたわけです。6月27日っていうのは、だいたい夏至から5~6日のところにくるんじゃないのか、と。それが神話的に示唆することはただ一つ、曰「タンムーズの葬式」。
あの時、あの教室にいて、沈痛な面持ちをしていた人たち、泣いてた人たち、彼らは、もしこの世に「神」というものが実在するのだとしたら、その時神に何を願ったのだろうかと思う。タンムーズの死に嘆き悲しむふりをする人たちのように、死神の復活を望んだのか、それとも正義を願ったのか。それは私には分からない。私は「神」というものの存在は基本的には、信じる人ではなかったし、その後のマスコミと警察の迷走ぶりはまだ知らない段階だったから、もっと単純に「法治国家」というものの理性を信頼していたし、その内容に自分が口を挟めるような立場ではないと思っていた。そういうことは警察や司法に任せるべき問題だと思ってたし、民主主義とは、間違ったことがあれば、たとえ一人であっても、法律に則って誰に対しても正統に権利を主張できるもの、であると「悟る」ようになったのはもっと後のことで、だいたいあの時、私個人に何か主張できる「権利」みたいなものがあるとも思っていなかったし。だって、死んだのは私ではないのだし、彼女の死を悼むことはできても、彼女に変わってその権利を主張することはできない。
かくして、泉水ちゃんの時と同様に、死は私の近くを足早に駆け抜けていき、その後の警察やメディアの動きも含めて、「世の中ってこんなことが起き得るんだ!」という深い衝撃だけが残ったわけで。私の受けた衝撃と、その時に感じた孤独感を知っている人はいたかもしれないけれども、直接に私が話せた人はいなかった気がするわけで。当時、信大病院は、あの騒ぎの中、自分のところの学生以外は受け入れない、みたいなことをやっていて、確か一命を取り留めた同級生も、民間の病院に入院していたように思う。
私がこの件に関して、同級生達の言葉で印象に残っているのは、とある人が、同じクラスの某K氏が、事件の後、怯えて泊まりに来て困った、と愚痴をこぼしてたことと、誰かが、信大病院の姿勢を批判するようなことを言ってたことだけだった。実際、患者の治療を断るような真似しておいて、治療法を纏めるような場にだけ、主人公面して仕切ろうとする当時の信大病院の姿勢はどういうものかとは、私も思っていました。(でも、この「誰か」というのが、どうもちょっと正確に思い出せないというかーー;。大人しそうな人だけれど、時々こういう鋭いまっとうなこと言う人が言ったような気がするのですけれどね、違ってたらゴメンね、という感じなわけで。福山君の海月っぽい「暁」とか聴いて思うこととか無いですよ。それはきっと気のせいかとーー;。)
そして、20年たって、とかく最近の世の中は、神話的に暗喩的に思えて、どうも私にとっての「世の中」とはそういうものなのであろう、と悟るようになったわけですが、先週も先々週もMステには泉水ちゃん絡みのVTRが流れていて、「揺れる想い」も「負けないで」も好きな曲ですけれども、なんで今更泉水ちゃんなんだろう? とは思ったわけで。今の彼女の曲には「死の臭い」がどうしてもつきまとうように思うからです。それで気が付いたのですけれども、夏至の時期に彼女の曲を流すことにも「暗喩的な意味」があるのかも、ということに。泉水ちゃんの死に、何か暗喩的な意味があったのだとしたら、人々はそこに何を見たのだろうかと思う。
かつて、すぐそばにあった「理不尽な死」に対して、何の反応も無かった者が、怒りに目覚めた時に、そこにいたのは「正義と平和を愛するアテーナー」であったのか、覇王アレクサンドロス3世の胸に輝くのが相応しい「破壊と死の女神メドゥーサ」であったのか。でも、本当はそのどちらでも無いのだと思う。
「死が穢れ」というけれども、死は誰にでも訪れるもので、自然なもので「穢れ」なんていうのがおかしいのだと思う。神を「死神」にしたいから、「理不尽な死」を捧げるのだというのならば、それはその「死」が穢れているのではない、何の罪も無い人をそんなことに利用しようとする者の性根こそが「穢れて」いるのです。理不尽なことに怒りを覚え、正義を求めて、理性と理論で戦うことができるもの、それが「人間」だと思うから、ただ、そのように人としてありたい、と思うだけです。でもまあ、世の中にはいろいろな「目」があるということも分かってきた昨今ですので。そういうものに惑わされずに人としてあることも大切なのだな、と思います。
ここ2年くらいで、急変した生活の中で、「最初」と「最後」という言葉とか、「ありがとう」という言葉とか、なんだかキーワード的な言葉をあちこちで見かけたわけですが、遂にその場所でも「最初」とか「最後」という言葉を見かけるようにもなったのだな、と思う。夏至の季節を乗り越えて、神が誰かの死を得て、復活するものなのだという思想こそが消えて欲しいものだと思います。何年の時を経ても、神とはそのようなものではあってはならないと、人としてそう思うだけだから。それだけのことです。

20周年?

そういえば、昨日のMステではTOKIOがデビューして20周年記念とかで、3曲のメドレーを歌うし、昔の思い出話とかをしていたわけです。で、昔のテレビ朝日のリハーサル室の話とかしていて、MCの最後に「もう1度」とかという言葉を連発してましたので、「20周年」と「もう一度」って何か関係のある言葉なのかしら? と少し気になったわけで。
それで、寝る直前に某所のブログを見て、別の「20周年」もあったのだな、と改めて気が付いたわけです。それについて、「表向き」な感じでいろいろと述べることは、今の私にはちょっと難しいことでもある気がするのですが、なんというか、人によって物事というのはこんなにも感じ方が違うものなのだな、ということを一番強く感じたわけで。
なんだか、そのブログによると、信州大学はその前の年くらいから、某オとムのつく教団のポスターがあちこちに貼られていて異様な状態であったようですが、当時個人的にはそれはそんなに気になっていなかったように思います。当時は、その数年前から一種の「新興宗教ブーム」が世間で起きていて、たぶんこの教団だけでなくいろんな集団がいたように感じます。で、そういう人たちは駅前で勧誘したり、ポストにビラを入れていったりしていましたから、私にとってはこの教団もその内の一つに過ぎず、その内に誰の熱も冷めるだろう、くらいにしか思っていませんでした。もちろん、活発に活動していた様々な集団の全てが十把一絡げのいかがわしいものだとは思いませんでしたけれども、個人的には「神話」に興味はあっても「宗教」に興味は無い人でしたので。だから、「異様」であったのは、学内ではなく世間そのものであって、それはもう私が高3くらいの頃から始まっていたように思います。
確か、大学に入ってアパートを借りて引っ越しの準備をしている時にも、この教団の勧誘員がビラを配りに来ていて、とっととお帰り願ったわけですが、もうそんな頃から状況は「異様」であったし、事件の後も、警察やマスコミが一体となって、無実の人に罪を着せようとしていたことも「異様」だと感じていて、何もかもがただただ「ヘン」だと、個人的にはそんな感じだったわけです。だから、そういう「ヘンさ」に慣れてしまっていて、神経がある程度麻痺していたというか。
そして、「学園祭協力金」とか、そんなことはいっさい記憶に無い、というか、今改めて読んで「そんなものあったんだ?」とか思うくらいであって(苦笑)。まあ、私もこういう性格ですので、普通に払う何かの経費、くらいに思って何も考えずに払っていたか、さもなければ私にだけ請求が来なかったのかも? とか思うくらいなわけですがーー;。まあ、そこまで無頓着なので、教祖の講演とやらにも全く興味は無くて、見にも行かなかったわけです(確か見に行った人もいたはず。だいたいもし言ってることが本当だとしても、「空が飛べた」ら何かいいことあるの? とか、その程度の薄い興味・関心しかなかったわけでーー;)。
でも、今であったら、ああいう「新興宗教ブーム」で、勧誘を必死にしていた人達って、生活費はどうやって捻出しているんだろう、名もないような新興宗教がなんで急激に信者を増やして台頭できるんだろう、とか、
だいたい大学の自治会なんて、「宗教は麻薬」系の思想の人たちで占めることが多いのに、なんで「麻薬」の中でもうさんくさそうなのを特に呼ぶのだろう、いったい、どういうツテやコネがあるのだろう? 
と、客観的に見て、そういう突っ込みはすると思います。しかも、事件後急激に「オウムウォチャー」みたいな人たちが専門家みたいな顔をして、テレビにどんどん出るようになったわけで、
なんで、この人たちは閉鎖的な教団の中のことをこんなに知っているのだろう?
みたいにも思うわけで。某教団に纏わる件は、私にとっては何もかもが「異様」に見えてた気がします。でも、20周年のTOKIOを見ていると、今の私の方が、長瀬君が松本にドラマのロケに来ていた頃よりも、気が付けることは多くなったのかな、と思います。たかが20年、されど20年というところでしょうか。
それに、当時の私は、個人的にも悩みが多くて、宗教的な興味関心なんて、蚊帳の外、という感じでしたので。ゼミのネタはね、「何も言わないでしょ」って言われてしまった人と、言った人のことしか覚えていないわけですが(苦笑)。あれから、どうにも多くの人のわざとらしい後ろ姿を見てきたわけですが、こちらの方は20周年どころか、更にその8年も前から始まったことのように、今となっては思うわけです。最初に追いかけた後ろ姿と、最後に追いかけた後ろ姿というのも、忘れ得ないわけです。福山君の歌詞に「どれほど信じ合っても分からないことがある」云々というフレーズがありますが、信じるとか信じないとかそういうことじゃなくて、なんで「後ろ姿」なのかって、それは今でも最大な謎なわけですがーー;。まあ、こんな感じで、マイペースに生きている私は、他の人ともちょっと目のつけどころが違うのかも? とは、そんな風には感じたわけです。

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本日のMステ

ええと、「応援歌ランキング」ですか? いろいろと思うことはありますが、眠いので少しだけ。
2位が「栄光の架橋」で、1位が「負けないで」というのが全てかな、と。
あとは、高校の頃、爆風の曲が流行っていまして、友達にファンの子がいたわけです。私はどちらかというと面食いなもので、「どこがいいの?」という感じだったのですが、今改めて彼らの曲を聴くと、あの頃の太陽は「弱くて小さかった」のかな、と思う。で、あの頃の私はどうしてたのかな? とかふと思ったわけですが、そうするとどうも
「アリーズ」っていうペルセポネーが主人公の死神の漫画読んでたくせに
とかいうことが思い浮かぶわけで、まあ、それは事実なので返す言葉もないわけですがーー;。「アリーズ」って「牡羊座」のことで、「羊のペルセポネー」ってベスのことですか? アメンのことですか? ホルンのボスのこと? って今なら際限なく突っ込めるわけですが、それとも舞祭組的に「ハヌマンの尻」とか「キアンの尻」とかそんな感じ? となってもいいわけですが、昔はそんなこと何にも考えないで読んでいたわけですからーー;(アメンもハヌマンもキアンも語源的には同じですねえ、ううむーー;)。この漫画は、神話の神々が現代に人間として蘇って騒ぎを起こす、みたいな話だったわけですが、私が高校の頃に最初の「アリーズ」が描かれていて、けっこう最近「アリーズII」が出てたわけです。なんとなく昔懐かしくて「II」の方も途中まで読んでいたわけですが、「I」の方のアリーズではヘラがなんだか気の強いやな女だったわけで、それが「II」の方では結構優しげな美少女になっていて、むしろそちらが気になっていたりしたわけで。
それから、大学の時に、夜に諏訪までドライブに行ったことがあって、道中でずっと「愛は勝つ」がかかっていて、で、運転していた人がずっと「コン(紺? 今?)が勝つ」って替え歌で歌っていて、なんでなんだろう、って不思議に思ったこととか思い出したわけですが。当時から、自分の家系が諏訪神に連なる神家党であることはなんとなく知っていて、なんとか辿ってみたいと思っていたことも事実だったわけです。でも、今のように資料が豊富な時代ではありませんでしたから、難しいだろうな、とも思っていました。辿る過程で、丹後半島まで行くことになるとは思ってもみませんでしたが、柱立ての祭祀を持ち、軍神である諏訪神は、むしろ黄河文明的な破壊神であり、青龍的な神なわけです。要するに、諏訪神の性質は、イザナギ、黄帝、青龍に通じるもので、祖神であり父神であっても、取り扱い要注意な神サマだったんだな、と今になれば思うわけです。死神青龍は、西欧のミン神、怒れるナルメル、プタハ、オシリス、ハーデース辺りに直結する神といえます。
要するに、女性器を持つイザナギも、男性器のないオシリスも「同じ神」ということでーー;。私もずっと人と争うことが嫌いで「弱くて小さな人」だったかもしれないと思います。でも、ある人の死をきっかけにして、こんな現実ではダメだと思い、戦う力を望んだし、その力を諏訪神に求めて、毎週日曜日に諏訪神社に通ったのも事実なわけで。
おかげで、いろんな事に向き合って戦う力は得たように思いますが、
諏訪神と結縁しすぎ!
とも思うわけでーー;。
そういえば、AKBが「フラゲ」を唄っていましたが、この頃には「鉄板」という言葉が流行っていて、なんで、そんな言葉が流行るのか不思議に思っていたわけです。福山君のお薦めも「鉄瓶」ですし、結局はそういうことだと思うわけですが、ようやくイザナギ・イザナミの神話と、三貴子の神話が意味するところまでたどり着いたわけです。「月読」は「命」とつくんだから、「男」に決まっているでしょう、と思う。だいたい、銅鐸を見てもそんなようなことしか描いてないわけですし。これからも頑張って、少しずつ前に進めたら良いな、と思うわけです。そう思わせてくれた今夜のMステだった気がします。

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非常に久しぶりの更新です

ヘバト女神の別の姿であるハンナハンナの項を増やしたわけですが、前回の更新から2週間以上経ってしまいました。ヒッタイトの神話は、エジプトやメソポタミアの古い神話から、ギリシア神話へと神話が変遷する過程で、中間的な位置にいるのですが、書いている内に、古いものとの比較、ギリシア神話との比較をしている内に、書く量が膨大になってしまったわけです。
書いていて、一番悩んでいた部分は、ハンナハンナの神話と、キュベレー・アッティス神話の違いでした。キュベレーがヘバトと同系統の名前を持つ、同系統の女神であることは分かるわけです。ヒッタイトの時代、ヘバトとテシュブの息子神はシャッルマといって、軍神であり、テシュブと一緒に悪竜と戦う神話なんかがあったわけです。でも、ギリシア神話の時代に入ると「アッティス」という息子神が登場して、しかもこの神は軍神でもなく、女神を怒らせて、自ら去勢して死ぬ、という神なのです。そして、アッティスは穀物神に見立てられていて、死んだ後、数日経って生き返る、というような祭祀が実際にあったらしいです。このアッティスに「軍神」らしい要素はあまり見られず、どうもシャッルマが起源とは思えないわけです。ギリシア神話時代のキュベレー信仰は、トラキア系の神サバジオスとキュベレーが習合した後の神話に基づいていますから、サバジオス信仰と関連性が深く、ヒッタイトの時代にみられなかった要素については、「トラキア側から入ってきたもの」とみるしかないと思うのです。そうすると、「キュベレーの荒ぶり怒り狂う姿」もサバジオス的姿であるとも言えるのではないでしょうか。(本来のキュベレーは穏やかな豊穣の太陽女神であったと思われます)キュベレーはアッティスの死に大きく関わっており、彼女がアッティスを「とり殺した」みたいになっています。アッティスが人工的に「作られた」神であるとすると、まるでアッティスは、「女神に殺される」ということを前提として作られたように思うのです。そこで、
「植物だって、実をつけて枯れるものに、枯れないものがある」
のに、なぜアッティスは再生の前提として死なねばならないのか、しかもなぜオシリス的に「去勢」しなければならないのか、どうもその辺りが自分でも良く分からなかったわけです。でも、神話における「親子」とは、単に出自の異なる神々を一つに纏める際に、力関係の強い方を親、弱い方を子にしただけのもの、とすれば、弱い方の神(と、それを信仰する人々)を犠牲として、社会的に上位にいるものが肥え太る、という思想が根底にあって、「親子」というのは、どちらが「喰う神」で、どちらが「喰われる神」なのかを明かにするための「暗喩」に過ぎない、と気が付いてはっ、としたわけです。「子神が親神と同じもの」というのは、子神が親の餌であって、食べられて親神に同化する存在であるからに過ぎない、となれば、死するアッティスは「餌のアッティス」であって、再生するアッティスはアッティスという名の「キュベレー・サバジオス」で、そもそも「別の物」と考える方が正しいのだと思うわけです。そうすると、毎年豊穣のために、「喰う神」にアッティスを捧げる「犠牲の祭祀」が行われる必要性が出てくるわけです。アッティスを神として祀るのは、「喰われる側」の人々をも納得させるためだけの方便のようにも思えます。
こう考えていくと、西欧の神学を論じる際に、「父と子」が「同じもの」なのか「違うもの」なのかということが、非常に重要な問題であることが分かるわけです。「同じもの」であれば、子孫を残さずに犠牲となる神と、それを喰らって繁栄する神とをどうやって「同じもの」として論理的に纏めることが可能であるのか、「違うもの」であれば、親が子を喰うような神々の親子関係をどうやって論理的に正統性のあるものとできるのか、という問題が生じてくるからです。こういう矛盾を解消するために、
表向きは息子は独身で子孫を残していない
けど、
裏では、実はやることやってて、肥え太っていて、子孫もいた親神であった
みたいな流言と、建前を使い分けるような奇妙なことを始める人たちも出てくるのではないかな、と、そう思うようになったわけです。「イエス・キリストに子孫がいた」という伝承とか流言はあちこちにあるわけですが、大切なことは「それが事実なのか否か」ということではないと思うのです。表向き、彼は人々のために犠牲となった「犠牲神」であり、「子神」とされています。でも、裏ではやることやって、肥え太っていて、子孫もいた「親神」であった、と噂することで、「父と子は一体のものである」という矛盾した論理を何とかまとめてようとして、もがいた結果がそうなっているに過ぎず、「流言」の方からは、
イエスこそが犠牲を喰らう「親神」である
という暗喩が浮かび上がってくるわけです。この場合の「親神」とはもれなく「死神」ですので、言い換えれば
イエスこそが死神である
と言っているも同然なわけです。全くもって、剣呑なことと言えましょう。

コツコツと

執筆活動を続けております。
昨夜は、医学部時代の夢を見て、なんだか医局員全員が掃除を言いつけられて、
「こんなの俺たちの仕事じゃないのに」
みたいに言いながら、いやいや掃除をしているような、そんな夢を見ました。でも、その夢のどこかで、とても会いたい人に会えて、なんだか目が覚めたときに、ほんわかとうれしかったような、そういう夢だったわけです。こういう夢はたまにしか見れないので、うれしかったです。