いろいろと

毎日暑いので、いろんな植物が芽を出したり、育ったりしています。最近では桃色月見草が咲き出しています。それから害虫もけっこう発生していますので、毎日せっせと毛虫退治に走っております。
順番に書くと、稲葉さんと福山君の対談をやっと見終わりました。プロレスとか格闘技とか、さっぱり分からなくて、時々出てくる「鶴田」とか、「長州力」という名前に、「あー、そういえばそんな名前のプロレスラーを聞いたことがあるかも?」というくらいなわけで、内容は個人的にどうでも良い感じなのですが、饒舌でも、ものすごく考えながらしゃべってる福山君と、こういう対談に慣れてなさそうな稲葉さんの初々しそうな感じが面白かったかな、と。まあ、確かに「大物ミュージシャン」二人の対談なのに、音楽の話が全く出てこないというのも珍しいわけで、特別企画ならではのマニアックさ加減はたっぷりであったかな、と思います。福山君、最後の方で、格闘技の歴史に触れるところで、さりげなく「ローマ」とか言ってましたし、さすがにそういう何気ない所に「ホルンのボス」らしさが溢れていたかな、とーー;。稲葉さんの方が年上なはずですが、落ち着き払って言うこと言うという点では、福山君の方がよっぽど慣れている感じに見えました。3月のMステ出演の時には、さすがの福山君でもずいぶん緊張して見えましたので、まあ、それよりもリラックスした姿が見れて良かったかな、と。
それから昨夜はMステを見たせいか、相葉ちゃんが出てくる夢を見ました。女友達と、映画だかを見に行ったわけですが、なんだかそれがやたらと長くて、一晩中上映してもまだ終わらないような話で、途中に休憩時間とかがあるわけです。で、
「まだ終わらないんだ~」
とうんざりしながら、休憩時間にご飯を食べに行って、何故か相葉ちゃんもその場に居て、で、また映画に戻って見続けるのですけれども、終わりそうになると、いつの間にかまた最初に戻ってしまって、ループして映画を見続けてうんざりする、というそういう夢でしたーー;。
それから「ムスカリ(Muscari)」について。ムスカリの名の由来はギリシア語だそうですが、「Mus-cari」という構成の言葉ですから、前半の「Mus」はアッカド語の「蛇」を意味するわけで、後半の「cari」は「K-K」という子音から派生した、ククやフフ的な「蛙」を示す言葉なわけです。
これが、インド方面へ移動すると、前半と後半が入れ替わって「カーリー・マー(Kali-Ma)」に変化して、けっこう剣呑な名前になります。夫であるシヴァの腹の上で踊るカーリーの図が有名ですが、大地に横たわっているシヴァは、古代エジプトのゲブ的な「大地の男性神」として現されているわけで、そう考えるとカーリーは「ヌト」的な「天空の女神」として現されるわけです。印欧語族は、女神を「地母神」的に扱う傾向が強いので、カーリーとシヴァはそれよりも古い文化の影響の強い神々といえます。
で、このムスカリの「蛇・蛙」という名前ですが、「Mus」というのは、メソポタミアでは「イナンナ」のことですので、例によって、蛇と蛙の女神を習合させた、イシュタルとかイナンナの系譜を引く名前となります。イナンナ(Inanna)を「I-nanna」として、「I」が「K」より変化したものだとすると、メソポタミア的に「ニンキ(Ninki)」として、「蛇」という言葉を先に持ってきた方が、ギリシアに近い名で、「イナンナ(Inanna)」と「蛙」を先に持ってきた方が、インドに近い名といえます。
ですので、「ムスカリ」とは、「ニンキ(ニンフルサグの別名)」に近い名となりますが、西洋の女神達は「蛇」とつけば「蛇の太母」としての性質が非常に強まりますので、「イナンナ」という名も同然ともいえます。イナンナの名はヒッタイトの女神ハンナハンナ(おそらくヘバトの別名)の語源となっていますが、ハンナハンナはミツバチを愛する農業神的な女神ですので、性質的には古い時代のニンフルサグに近い女神ではなかったかと思います。だから、「ムスカリ」が2つ続くと、イナンナではなくてハンナハンナになるわけで、しかもこの花はニホンミツバチと非常に相性の良い花なわけです。ミツバチと相性の良いハンナハンナの名を隠す人もいれば、後ろに3つのヒマワリの花を隠しているのに、その一方でなにげなく「ローマ」がどうとか言っている人もいるわけで、まさにMステの嵐ではありませんが、鏡合わせに写した姿のように、どちらも良く似ているのに、似て非なるものであるゼウスとテシュブがいるわけです。だから、結局世の中には、この2つを同じものにしてしまいたい人々と、その違いを明確にしたい人々がいるように思います。まあ、起源的にかなり似通っていても、端的に述べれば太陽鳥を喰らい尽くすゼウスと、太陽女神と共に歩むテシュブですので、違いは明確といえば明確なのですが、時代が下ると結局は互いに習合してしまって、福山君的に「まだやり直せる気がする」とかそういう状態になってしまっていることも事実なわけですがーー;。
ともかく、今日もタマネギ戦士とナルメルに追われて、ハンナハンナがまだ仕上がらないわけです。でも、獅子頭女神には明日あたりから、また取りかかれるのではないでしょうか。
あとは、大野君が「最初、最初」って言った意味ですかねえ。メソポタミアのイナンナは「地上に降臨すると荒廃をもたらす明確な死に神」であり、トーテムは「蛇」が非常に強い女神ですので、彼女が「最後」の女神であれば、「最初」の女神は「蛙」の女神の性質なのであり、だからこそカーリーなんかもそうですが、これらの「蛇・蛙」女神は「豊穣をもたらす性質」と「荒廃をもたらす性質」という二重の性格を持つように思います。その性質は、両極的なムスカリの花言葉にも表れているように思う。「最初が大切」ということは「蛙の女神」の方が大切という意味でもあるのかな、と思う。あとは、大野君は嵐のリーダーですので、まあ、ホルンのボスとは似ているけれども、違っている「天候神」を示しているのかな? とも思いますが。まあ、私の神話の理解も拙いので、考えつくことはその程度なわけですが。まあ、でも他の4人も言うように、「最後」もある意味では大事かと(苦笑)。
というわけで、嵐のすごさは、毎回積極的に小ネタを推していくチームワークにあると思うわけです。SMAPは「オリジナルスマイル」とか「世界に一つだけの花」とか「ありがとう」とか、曲をきっちり前面に出してくるタイプというか。まあ、「ハウル」のキムタクと「輝く季節の中で」の中居君がいるだけで、他に何もなくとも彼らの存在感は大きいわけで、そういう点ではSMAPもすごいなと思うわけですが。

父なる牡牛

9日ぶりの更新となりましたが、やっとアップできました。9日もの間更新できなかったのは、パレットの絵を分かりやすくしようと思って写していたから、です。
双頭の牡牛プタハ(Ptah)というのは、分かりやすく言うとピター(pitā)、すなわち、デャウシュ・ピター(dyauṣpitā)、「父なるデャウス」というわけで、印欧語で述べるところの「father」という意味の普通名詞の語源と思われます。逆に述べれば、「牛神の名」を「父」という普通名詞にして使っている人々は、当然「牛トーテム」の人々ということになります。闇に住む神・プタハ・オルクスを「父」と呼ぶ人々は、ちょっと言語学とエジプト神話を勉強すれば、すぐに「自分達の父なる神が牡牛であるミノタウロス」であると分かるわけで、プタハなんて、青銅器時代の鉱物神どころか、少なくとも新石器時代にまで遡る、古い「大地と冥界の神」なのです。当初は、「妻なる神・セクメト」の方が「天空神」であったと思われるのですが、時代が下ると、メソポタミアで、「父神」の方が「天空神」に変えられていくので、印欧語族は古代エジプト的牡牛信仰と、メソポタミア的天空神信仰を折衷的に取り入れて、「天空の父神」である、ユーピテル、ゼウス、サバジオス等々を作り上げていったのだと思われます。
そして、現世と来世の「境界神」である双頭の牡牛や、双子のアケル? という存在は、ローマ神話に入って、ヤヌスという神へと変化していくのだと思われます。ヒッティのヘバトの象徴である「双頭の鷲」も意味としては似たようなものなのだと思う。
メソポタミアの印象も、この「狩人のパレット」も、「現実の学者の解釈」とやらが、どうにもねじ曲がり過ぎだと思うのです。「アテンの手」に至るまでの「蛙の手」は、「蛙の太陽神」が、凶悪な蛇の死に神と無理矢理習合させられて作り替えられていく過程で、エジプトでもメソポタミアにも見られるのに、それについては誰も触れようとしないように思えます。
おそらくこの「手」は、太陽神が軍神へと変化していく過程では、アッシュール神の持つ「弓矢」のように、「神の持つ弓矢」へと変化しているわけで、本来は「神に刺さっている矢」ではないのでしょう。でも、「神に刺さっている矢」にすり替えて、かつての太陽女神を「殺したい」とでも思っているかのような解釈はあちこちにみられるように感じます。
そして、同じようにプタハとミノタウロスとヤヌスの関連を述べる人も少ないように思います。プタハは、オシリスと同じように「緑色」で描かれて、植物神としての性質もあるのです。そして、古代エジプトの人々は、プタハ、オシリス、セケルを習合させて、同じような神として祀っており、セケルのトーテムは「タマネギ」でした。要するに、古代エジプトにおいて「来世での永世を約束する父なる死に神」はオシリスでもあり、プタハでもあり、セケルでもあり、牡牛でもあったけれども、「タマネギ」でもあったわけです。土の中で育つから「日の当たらないところの神」とされたのではないかと思うわけですが。しかし、何故現代の印欧語族は
「父なるゼウス・ユーピテル・サバジオス・コロン・ヤハウェ」
が、タマネギ・プタハであることを隠したがるのでしょうか? だって、それは今でも「父なる神」なんでしょ? となるわけです。
ということで、今日は福山君のHPを見ましたら、なんでも稲葉さんと格闘技について対談してるとかで、稲葉さんのHPに見に行ってみたわけですが、どうやら稲葉さんのソロ活動を記念して、普段やらないようなことをやってみたい、ということでやった対談だったらしいです。1時間近く内容があるので、まだ途中までしか見てませんが、司会のアナウンサーと福山君と稲葉さんの3人が話していて、3人で写っている時は、後ろに隠れているセットとか小物とかあるわけで、福山君の後ろに、緑色のクッションで、ひまわりの花が3個描いているものが隠れていて、福山君が一人で写される時だけ、それが写るわけです。
「なんで、ひまわりの花が3個?」
とか思ったわけですが、そういえば、諏訪大社の三つ梶も「3つの太陽」ですし、長崎にも諏訪神社ってありましたっけね、というわけで、背中に三つ梶を隠して背負っている福山君ですか? とか、ちらと思ったわけで。まあ、私にとっては、「Beautiful Life」&「Dear」の福山君、卒業式で私服着用&「裸足の女神」の稲葉さんなんでーー;。ちょうど、これに気が付いた後、「狩人のパレット」をアップして、その時にB’zの「ハピネス」と「JOY」がBGMだったものですから、歌詞がちと心に染みました。
それから、恒例のMステですが、メインがコブクロで、小ネタが「影の薄い子を忘れないで」でしょうか(苦笑)。相葉ちゃん、ちょっと可哀想でしたが、私も思わず笑ってしまって、すみませんです、という感じでした^^;。福山君も、新曲のキャンペーンもツアーもひとまず終わったことですし、しばらくお目にかかることも少ないだろう、と思っていましたら、けっこうあちこちで見かけるようです。なんというか、当分誰のことも忘れられそうもないようですーー;。

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毎日の夢日記

ええと、出かけなければならないことがあるという夢を見て、「一人で出かけるのもちょっと不安?」みたいに思っていたら、KAT-TUNの亀梨君がお供してくれる、という夢を見ました。CDの一枚も買ったことないのに夢に見るなんて、なんだか申し訳ない気がしないでもないですが(汗)。何故こんな夢を見たのかは自分でも謎です。
今日はいろいろとやる事があって、執筆活動はお休み中です。
「○○の梯子」とか言われると、「蛙の手?」とか言いたくなるわけですが。「狩人のパレット」を仕上げる暇が欲しい~(泣)。とむしろそんな感じだったりするわけです<(_ _)>。
ムスカリについてもちょっと気になるのですが、今日は疲れましたのでまた明日。

本日も

ナルメルとタマネギ戦士を描いておりました。あとは執筆活動もちょっとずつ。
昨夜、ヘンな夢をまたまた見たわけで、どうやら夢の中でMステを見ていたようです。で、タモリさんが
「次は福山雅治君で、曲は『ふくやのまさはる』です。」
と曲紹介したので、
「そういう新曲出したんだ~」
と思って目が覚めたというーー;。けっこう前ですが、某週刊誌でこの「言い間違え?」みたいなネタを読んだことがあって、その時インパクトが強くてずっと覚えていたらしいです。こんなところで唐突に出てくるとは。でも、なんだか妙に短いけれどもはっきりとした夢で、印象深かったのでしたーー;。

コツコツと

執筆活動を続けています。
ええと、今日は「狩人のパレット」について途中まで書いて、ナルメルのパレットと、タマネギの神サマを描いていました。いろんなことが佳境に近づきつつある気がしますが、最後まで気を抜かずに頑張りたいと思います。
後、今朝方見た夢は、なんだかものすごく広い会場で女子会をしている夢で、中学とか高校の同級生が女子ばっかり集まっているという夢で、私は中学の時に仲の良かった子とフラフラしながらいろんな人たちと話をする、という感じでした。
それから、昼間見た、白昼夢? というか何というか、今日は暑かったので、ちと涼しい所でうたた寝でもしようかな、と思って横になりましたら、
「○○ちゃん、こんなところで寝てると、冷えちゃうよ。起きて、起きて。」
と言われて、ゴロゴロと揺さぶられる? というか転がされる? という夢? だか何だかで眠れませんでしたーー;。まあ、こういう分かりやすいのは、うれしい、といえばうれしいですが。というか、日常生活的には「愛してる」とか言われるよりも、こういうお世話を焼いて貰える方が、愛を感じるかも、とかそんなことを思った日でした。
あとは、某所のBGMで、尾崎豊の「I LOVE YOU」がかかりまして。この曲を聴いたら、何を思い出すか? と言われたら、あれだけ聴かされたんだから、「一つのことしか思い出さないでしょう」ということを思い出すわけですが。なんだか、いろいろと「濃い」一日だった気がします。