雨が降ったら、ひまわりの種がこれみよがしに発芽しています。種が大きい花は発芽も早くて豪快で良い感じです。種の細かい花は、発芽するまでがドキドキですし、芽が出てもあまりにも小さいので、ある程度育ってくれるまで安心できません。
本日は次なる記事の資料を集めたり、作ったりしていました。壁画とかの図はそのまま載せるよりも、スケッチした方が見やすい気がして、せっせと描いております。ヒッタイト3神のうち、残るはテシュブですが、この神サマが複合的な上に、時代や場所によってかなり「見てくれ」が変わってきていて、少々複雑な気持ちです。それから有角獣の内でも「牡牛」に対する信仰というものにも、いろいろと考えさせられます。
トルコは洋の東西の文化の交流点と言いますが、古代世界においても同様だったと思われます。古代のアナトリア半島の信仰の歴史は、最初に新石器時代の有角獣と地母神の関係から始まって、その次にエジプトとメソポタミアの両方の影響を受けるわけで、ヒッタイトの時代にはアナトリア・ヒエログリフというエジプトのヒエログリフのアナトリア半島版ともいうべき象形文字と、楔形文字の両方を使用していました。従って「神」を示す言葉にも両方の書き方があるのです。でも、ヒッタイトも一応は印欧語族に入るので、もっとヨーロッパの古代の文化に近い要素も入ってきているのです。例えば、遊牧民の文化から発展した古代のヨーロッパでは
「豊穣の大釜信仰」
というものがあります。これは北欧神話に目立つのですが、要するに神話的には、中身を食べても食べても減らない、と言われる「魔法の鍋」みたいなものに対する信仰といえます。現実の祭祀的にはこれが「死と再生の象徴の釜」みたいな存在になるわけで、要するに生贄を捧げて煮て、その代わりに神様から豊穣とか永世というような御利益を得よう、というような信仰ではなかったのかと思う。で、どうもそれに似た信仰を描いた壁画があることはあるのですが、供物を捧げられている先の神サマが「アテフ冠」を被っているわけで、オシリスなんじゃないですか、それ? と思うわけです。どうも犠牲を捧げられる相手が、北欧のオーディンとかケルヌンノスとか言われると、ヨーロッパ系の神サマということで違和感を感じないわけですが、
オシリスが大釜で犠牲を捧げてもらっている図
というのはなんだかとっても違和感を感じるわけです。しかも、場所はヒッタイトで古代エジプトでもないわけですから。こんな感じで古代のアナトリア半島の文化は習合的な文化ですので、時代が下るほどに次第にギリシャ・ローマ化するのですが、それでも失われない
族長ヤコブ的な穏やかな豊穣を望む文化
がそこにはあったと思われるわけです。そのような思想を守ってきた人の心の強さとか、それをいかに残酷に潰そうとする人々がいるのか、とかそういうことを考えさせられるわけですが、まずは資料の作成に励みたいと思うわけです。
月別: 2014年4月
合成神サバジオス
トラキアの神サバジオスをアップしてみました。これを訳していた時、丁度ピレウス帽についても訳していたので、どちらの項も文章は多いし、ローマやギリシャの風物に疎い私には、1行毎に知らない事が書いてあって、訳しては調べ、調べては訳しの繰り返しで、本当にいつまでたっても終わらないのではないかと思いましたが、やっとアップすることができました。
この神は綴りを見ると、ヘバト(Hebat)とディオス(Dios)の合成神であることは分かるのですが、何故かなり性質の異なる2神、しかも女神と男神で性別も違うものを強引に習合させているのだろう? とまずそれが謎でしたし、その上にこれがローマのユーピテル、ギリシャのゼウス、ユダヤのヤハウェと各地で習合しているわけです。で、トラキアあたりではそれを「唯一の神」と称して「一神教」として信仰する向きもあったようですから、習合と合成を重ねて、神を一つに纏めてしまえば、確かに見かけは「一神教」かもしれませんが、それを「一神教」と言っていいのだろうか? とも思うわけで、これでは「一神教」も「多神教」も「言い方の違い」の問題でしかないようにも思うのです。
どこの「唯一絶対の神」も、それぞれの都合に併せて習合・合成されており、その取捨選択の微妙な違いに、宗教等を基にした民族差別が存在している、というのがなんとも嫌な感じがするわけですが。このような「合成神」の概念を初めて知ったので勉強になりました。文章は私にとってかなり難しかったので、今までで一番自身の無い訳となっています。拙い点は笑ってご容赦下さい。
あとは、ヘバト等の語源を調べて、論文もいくつか読んで思ったのですが、どうやら「Sius」というヘバトの別名と、「Dios」というゼウス系の神の名を「同じ語源」として纏めてくくろうとする傾向が強くて、若干呆れております。専門家がそういうこと言うなんて、誰もどっかのリケジョの論文に文句言うどころではない気がするわけで。要するに、どんな論文でも「論文なんて書いちゃったもん勝ち」というのが、いわゆる「専門家」の世界の流儀なのではないでしょうか、と思うくらいです(苦笑)。
また、簡単なイスタヌ女神をアップしてみました。ひげも無いし、スカートを履いているのに何故「男神」扱い・・・? というのはもう書き尽くしたように思いますので書きませんが。
我こそがアルバであり、オメガである。
たまたまタイミングが重なって、2日続けての更新となりました。「ヒッタイト3神」と私が勝手に呼んでいるヘバト、テシュブ、クシュフのうち、2神までも紹介できてうれしく思います。
こうして見てみると、人類の歴史の中で、宗教的に大きな変換点は2つあって、一つは
「農業が開始されて、農業共同体に関する祭祀が成立した時点」
であり、もう一つは
「鉄器の生産が開始されて、鉄器時代が始まり、祭祀が製鉄と関連づけられた時点」
なのだと思うようになりました。ヒッタイトが重要なのは、鉄器と祭祀の関連が整備され、そしてそれまでの複雑怪奇な神々の発生と分化が、とりあえず整理された点なのだと思うのです。でも、一口にヒッタイトと言っても広い国だったわけですから、首都に近いヤズルカヤ遺跡と、そうではない場所での信仰や神々とでは、人々の意識にも差があり、面白いな、と思うのです。特に「牡牛信仰」の強いルウィ系の文化では、ヒッタイトというよりはよりトラキア・ギリシャ・ローマ的な信仰文化がかいま見えるわけですが、そこの神話に登場する王だか神の姿はエジプトのオシリスの象徴である「アテフ冠」を被っているわけで、何故ここにアテフ冠があるのか? と自分でも奇妙に感じたりするのです。
「百聞は一見にしかず」といいますが、ヒッタイトの遺跡の写真をほぼフリーで使うことを許可して下さっているサイトを見ると、とても勉強になるわけです。例えば、太陽女神ヘバトと、太陽神系雷神と思われるテシュブの「天候」に関する役割分担って、どうなっているのだろうか? と不思議に思っても、壁画を見るとなんとなく想像がつくわけです。そして、肩から羽根が生えているはずの「月神」が両手に蛇を持ってかなり醜悪な図で描かれているのも見て「何故?」と思うわけです。図像から見て、「月神」であることも「水源の神」であることも分かる。でも、「蛇を肩から生やしているわけではない」のが不思議なのです。そしてこれも「月神」であるならば、蛇王ザッハークの起源がここにあることも分かるわけです。エジプトからやってきたこの神を探って、それがアテフ冠と豊穣の牡牛とどんな関係があるのかを考えた時に、本来「攻撃的な軍神」であったはずの「テシュブ」を一つに纏めて、太陽女神の夫に配したヒッタイトの人々の配慮がすごいな、と思ったのです。この神を理解するのはちょっと大変でしたが、うまく書き表して、その先に繋げていければ良いな、と思います。
それから、ここ1ヶ月くらい頭を悩ませていたフェニキアの「フェニックス」ですが、やっとここまで書けて、それこそ「大変」うれしく思います。おそらく、フェニックスは
「我こそがアルバであり、オメガである。」
と言うのではないかと思いますが(苦笑)。フェニックスとヘバトという名前の変化の過程もいつか書けたらと思います。
本日は午前中は資料採集、午後は記事のあっぷに励んでおりました。暖かくなってきたせいか、あちこちに蒔いてもいないひまわりの種が発芽しています。
クシュフと私
原文の本文数が4行しかないという量の少なさのため、比較的早く仕上げることができたと思います。古代メソポタミア(特にシュメール)では、とても重要な神であったエンキ(キエン)であったのに、ミン神が農業の豊穣の神から「労働者の神」へと変貌すると、次第にその地位が低下傾向になる「月神の群」が生じてくるわけです。なぜなら、古代社会でも「貧しい人がよりきつい労働力となって働かなければならない」点は現代とあまり変わらないからです。でも、ヒッタイト時代の神は、
貧しい人の神
というほど、その地位が低下して、時には軽蔑の対象とされるほどに嫌な変貌は遂げておらず、良いものを作り出すために誇りを持って働く職人や労働者の神として、まだ高い地位を誇っているように感じます(壁画の中でも男神の中ではテシュブの次に描かれています)。
ヒッタイトの月神クシュフは、このように「過渡期」の神として重要なのだと思われます。頑張って紹介できてうれしく思います。そして、この神を知れば、
「労働者こそが神」
という思想の源流が、この神と更にその古くはミン神にまで遡ることも分かるわけです。そう、これは「無神論」な思想などではなく、「月神信仰」な思想なのです。しかも、ローマ時代に入ると
「下層階級の月神信仰の神」
というローマの神々の階級社会を反映した神となるのです。下層階級の肉体労働者の神、奴隷の神。2000年ほど前に、ローマでこのような階級に野火のように広まった神があります。この「神」は最初はおそらく「自分達の神はあなた方の神と同じものです。搾取されている人々よ。」という具合に入り込んだのだと思うのです。そして「自分達こそが月の神の代理人なのだから、あらゆる人々の生殺与奪の権利を好き勝手に持つ」と説いて歩いたのだと思うのです。何故なら、当時は「王権者こそが神の代理人であり、あらゆる人々の生殺与奪の権利を好き勝手に持つ」と考えられており、それこそが「神の愛」でした。だから、人々は「好き勝手に人を殺す権利を持つ者が神の代理人であり、それが神の愛である。」と言われても全く違和感を持たなかったと思われます。要するに、貧しい人々の中にこうやってはびこったものを「原始キリスト教」といいます。
そして2000年後、
「労働者こそが神である」
という思想が突如登場して、ヨーロッパ社会に革命の嵐が起こります。労働力は確かに社会にとって貴重なものなのかもしれません。でも、だからといって支配者になって、それ以外の階級の人々の上に君臨し、好き勝手に生殺与奪の権利を持っているというはずはないのです。それでは、彼らはかつての専制君主にとってかわっただけの存在でしかなく、働くことを誇りに思い、労働者もそうでない人も含めて、人々全体の生活環境を良くしようという意志は無いように思われます。それどころか、実際には労働者ではなくても「我こそは労働者である」と述べさえすれば、誰でも「我こそは神である」と言って、好き勝手に人を殺せるようになる、ということになれば、それは「労働者主義」というよりも「労働者という言葉を借りた専制君主主義」というべきなのです。「原始キリスト教」は「貧しい労働者の神である」と説いて、暴力と弾圧を肯定した結果、しまいにはローマの国教にまで成り上がりました。そして、2000年の後には「貧しい労働者こそが神である」と説いて、暴力と弾圧を肯定した国家が生まれるようになったのです。それを「共産主義国家」というのではないでしょうか。共産主義というのは、宗教には否定的だと言われます。しかし、古代の人々が宗教や神に名を借りて、人々を強圧的に支配しようとしたのであれば、「共産主義」や「労働者」という言葉を借りて同じことをしようとするのも「同じ思想」といえます。古代ローマが「原始キリスト教」の名の下に人々を支配しようとした精神と、共産主義国家が「労働者」という言葉の下に人々を支配しようとしている精神は「同じ」なのです。そして、古代世界においては、ローマの「原始キリスト教」の神も「労働者の神」も「同じもの」だったのです。要するに、現代の「労働者信仰」は古代における「原始キリスト教」の焼き直しに過ぎないともいえる。
いったい誰が
労働者こそが神であり、あらゆる人々の生殺与奪の権利を好き勝手に持つ
などという思想を作り出したのでしょうか。可哀想なミン神、可哀想なクシュフ。彼らは社会構造に激しい階級制などはなく、みながほぼ同じように働いていた時代に、人々が農業の豊穣を求める神であったからこそ敬われたのです。そうして生まれた彼らの高い地位を、人殺しのために利用し、更に「彼らの真の民」と言うべき農業従事者を弾圧して滅し尽くそうとするものも世の中にはいるように思います。何故なら、農業の豊穣を大切にする文化は、けして「月神」とはそのような凶悪なものではない、と示していますし、原始キリスト教の神へと変化した凶悪な「父なるコロン・バチカン」は、古き農業の豊穣神の歪んだ焼き直しに過ぎない、とそれは調べればすぐに分かることだからです。
私はただ、偽りのねじ曲げられた月神の姿ではなく、本来のあるがままの彼らの姿を探していきたいと願っているのです。
執筆活動継続中です
いろいろと書いて書いて書きまくって、一段落ついたところですが、これから内容を整理して纏めなければなりませんので、アップするまでにはもう2、3日かかりそうです。Wikipedia本文には2行くらいしか記載が無い神サマのことで、なんでこんなに解説で書くことが多いのだろう? と自分でも思うくらい書いています。
本日、とある雑誌を読んでいたら、スマホ向けのアプリに「グノシー」という名前のものがあるという記事を読んだわけです。アプリそのものには興味が無いのですが、「グノシー」ってどういう意味なんだろう? なんで、そんな名前をつけたんだろう? と思ったわけです。
で、これに近い言葉でキリスト教関連の「グノーシス」という言葉があったな、と思い出したわけです。グノーシス(Gnosis)とは古代ギリシア語で「認識・知識」を意味する言葉だそうです。でも、これって子音で分解すると
G-no-si-s
となりますよね。前半のG-noというのは、お決まりのコロン(Choron)のことと思われます。ということグノーシスというのは
ジュピター・ゼウス・サバジオス・コロン主義
ということで、ここで述べられている「認識・知識」とは、オデュッセウス的
「悪知恵と奸計主義」
ということでしょうか? それ? と思うわけです。とっくに消え失せたと思っている「神」を示す言葉がこうやっていかにも「他のものの名前」みたいなふりをして復活する。それを「神のようだ」と思って人がはまれば、それはコロン神に「はまった」ことになるのではないですか? とも思う。こうして古き神々を全く別のもののような顔をさせて復活させているということが現実にあるからこそ、グノシーという名前のアプリは存在するのです。不思議なことです。