ヒエログリフとにらめっこしております。
だいたい、どうして「月」について書き始めたのかというと、西洋の信仰文化の源流は、古代エジプトとメソポタミアという2大文明だと思うわけですが、この2つは宗教的にはとても似通っている、けれども、微妙に異なる。そして、月信仰がとても強い、という大きな共通点があるわけです。で、メソポタミアで有名な月の神を
ナンナ(Nanna)
というわけで、一方エジプトには
ミン(Min)
という月神がいるわけです。で、時代がもっと下ったヒッタイトにはクシュフ(Kashku)またはアルマ(Arma)という月神がいるわけで、アルマ(Arma)の方は、ミン(Min)にArをつけたものだな、と分かるわけです。でも、クシュフ(Kashku)はどこから来た名前なのかがはっきりしません。しかも、信仰の形が似通っているのに、メソポタミアだとナンナ(Nanna)となって「N」から始まるものが、なんでエジプトだとミン(Min)となって、「M」から始まる言葉になるのも謎だったわけです。
そこで、まず「M」と「N」の違い、あるいは「変遷の過程」を明確にできれば、と思っていろいろと調べ始めたわけです。それで、エジプトでは、
単に「混沌としての月」を示すときは「N」
だけれども、
「人の運命を左右する月」を示すときは2倍体の「M」
を使う傾向があるのだな、と気が付いて、やっと自分の疑問の一つに答えをみつけたわけです。セネト・ゲームは名前の上では
「N」の月
が残っていますけれども、それがメヘン・ゲームになると名前の上でも
「M」の月
がつくようになって、おそらく両方のゲームの根源的な思想は、宗教的な意味合いが強くても、そうでなくとも、変わらないものなんだろうな、と思うようになったわけです。
でも、人間の一生はゲームではないし、それに
「勝ったものだけがいい思いができる」
なんておかしなことだと思うのです。
まあ、でもともかくとして、いろいろ調べていると、波状的に気が付くこともあるわけです。例えば、トールキンの指輪物語では「蛇の舌」と呼ばれる「グリモ」という人物が出てきますが、「グリマ」って
グ+マ
として、古代エジプト的に読めば、
「Great Moon」
という意味になるんだな、とか、Gが英語の古語Geseに繋がる言葉であれば、
「Gese Moon」 →「Gese Nun」→「Yes No」
という意味にもなるんだな、とか改めて思うわけです。「偉大なる月」こそが邪悪なるものであるのか、とか「Yes」と「No」を手前勝手に使い分ける者こそが「邪悪」なのか、とか、いろんなことを考えてしまうわけですが、トールキンはそれこそ
古英語の専門家
ですから、どういう意味を込めて登場人物の名前をつけているのか、ちゃんと承知していたと思うわけで。読者がここまでたどり着けることを願って名前を付けたのであれば、彼の願いも少なくとも一人の読者には届いたといえるのかな、とかそんなことを思ったりしたわけです。
そして、彼が「ローハン」に印欧語族の先祖の姿を投影していたというのであれば、そこに
蛇などに惑わされず、全てを知った上で、与えられた状況の中で、自らの生きるべき道、人間らしい道を自分で選んで定めることができるものこそが
「Man」
であるという彼の願いと夢もそこにあったのではないのかな、と思うわけです。でも、何も知らされないことは
「フェア」
なことではないと、きっとそう考えたのだと思うのです。そのような考えがあったからこその
「指輪物語」
なのではないでしょうか。ワステルジュを神と崇めることをするのも人間かもしれないけれども、そこから蛇の頭と尾を切り落として
セツ
を祖神とすることもできるのもまた人間であると。ローハンのセオデンとエオメルとエオウィンに託されたトールキンの夢とはそういうものであったのだと思うわけです。