神社/鹿蒜神社
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解題
解題2
解題3
''鹿蒜神社''(かひるじんじゃ)は福井県南条郡南越前町字南今庄にある神社である。鹿蒜川のほとりにある。式内社。現在の祭神は誉田別尊、伊弉諾尊、武甕槌命。社号「鹿蒜」は「かひる」と読むが「かえる」とも「かいる」とも呼ばれているようだ。昔の資料には「帰村」とある。島根県松江市にある秋鹿神社の秋鹿日女命(あひかひめのみこと)との関連が推察される。 鶴賀郡の式内社に所在不明の「加比留神社」があるが当社とも地名由来の社号であるという。 資料によると境内社は、秋葉神社、金比羅神社、稲荷神社である。 *私的考察 [#k3702a1f] #ref(1-h0141.jpg,right,around,,50%) 鹿蒜(かひる)神社とは、元は「''鹿日''」と書いて「''かひる''」と呼ぶ女神だったのではないだろうか。当然太陽女神である。福井県史によると鹿蒜郷に物部氏の名前が見える。物部氏系の女神と考える。「鹿日」とすれば文字通り「太陽」のことで「太」とは「鹿」のことを指す。 >「太占」とは、鹿占は鹿の肩甲骨を一定の作法で焼き、生じたひび割れによって吉凶を占う手法で、我が国では弥生時代に始まり、特に古代には盛んに行われていたことが知られている。かつては各地で行なわれた鹿占習俗も、現在では貫前神社(上野(群馬県)一宮)と武蔵御嶽神社で行われるもののみとなっている([[貫前神社の鹿占習俗>https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/199946]]、文化遺産オンライン(最終閲覧日:25-01-08))。 ** 最初の余談・妙義神社 [#q6b21ef8] 妙義神社(群馬県富岡市妙義町妙義)は妙義山にある。妙義山とは白雲山・金洞山・金鶏山の三山の総称で、妙義神社は白雲山を神体とする神社である。古くは波己曾(ハコソ)明神と称し、『三代実録』の貞観元年(859)三月二十六日に、「授上野國正六位上波己曾神從五位下」とあり『上野国神階帳』に「従二位 波己曾大明神」とある。 妙義山の中の白雲山周辺の地は「七波己曾」と呼ばれ、山麓に波己曾神社が分布して、''丹生都姫命''を祀っていたらしい。現在でも富岡市などに「丹生神社」が複数みられ、''丹生都比賣尊''(ニュウツヒメノミコト)を祭神とする神社もある。本来、妙義神社も波己曾神を主祭神としていたが、いつの頃か、別に妙義大権現が成立して、本社となり、波己曾神は境内社に遷された状態になったようだ。ということは、当社の元の主祭神、地主神は''丹生都姫命''であり、『平成祭データ』などには祭神の中に名が記されているのだが、境内の由緒では、豊受大神となっている。 群馬県は女神信仰が強く、一宮・貫前神社の祭神も女神である。おそらく、紀州(和歌山県)の物部氏が移住して開拓した地と思われる。物部氏の祖神は邇芸速日命(ニギハヤヒノミコト)というので、元は近い名の女神も存在し、波己曾(ハコソ)女神とは、「速日(ハヤヒ)子」という言葉から変化したものではなかったかと想像する。 ** 氣比神宮との関連 [#ua9f42a1] 氣比神宮(けひじんぐう)は、元は女神を祀っていたと推察される。 氣比神宮末社・林神社の祭神は''林山姫神''(はやまひめのかみ)という女神である。社伝によると延暦7年(788年)に参詣した最澄が林神社の霊鏡を比叡山に遷したとして、比叡山鎮守社の日吉大社で祀られる気比神は当社にあたるという(ただし、現在の日吉大社では祭神を仲哀天皇とする)(神社由緒書「氣比神宮」)。''平安時代初期''の最澄は''林山姫神''を「氣比神」、すなわち氣比神宮の祭神と考えていたのではないだろうか。 また、丹生都比売神社(和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野)では、第三殿に「気比明神」として大食津比売大神(おおげつひめのおおかみ)を祀る。この女神は承元2年(1208年、''平安末期'')に氣比神宮からの勧請と伝えられている。現在氣比神宮に大食津比売大神は祀られておらず、女神のいずれかを大食津比売大神(大宜都比売)に置き換えたものと推察される。「御食津大神」とは平安末期まで「''女神''」とされていたのではないだろうか。平安時代の初期から末期の間に、祭神はまず、 ''林山姫神''→''大食津比売大神'' と置き換わったものと思われる。 記紀神話によれば、 >太子(応神天皇)が角鹿(敦賀)の仮宮を営んでいると、夜の夢にイザサワケが現れて名を交換するよう告げられた(気比神宮(平凡社), 1981, p505)。太子が承諾するとイザサワケは翌朝に浦に出るように言い、太子が言われたとおりにすると浦には一面にイザサワケの献じた''入鹿魚''(イルカ)があった(気比神宮(平凡社), 1981, p505)。これにより太子はイザサワケを「御食津大神(みけつのおおかみ)」と称え、のちにその名が「気比大神」となったという(気比神宮(平凡社), 1981, p505)。 とのことである。イザサワケが献じた「''入鹿魚(イルカ)''」とは、「鹿日(カヒル)」を逆に読んだもので「''日鹿''」とも読める。この「日鹿女神」が「葉山姫神」のことをも指すのであれば、イザサワケは、魚に変じた太陽女神を応神天皇に献じて食べてしまい、「''御食津大神''(みけつのおおかみ)」の名を手に入れたのではないだろうか。平安初期に、「''御食津大神''」として''大食津比売大神''が祀られていたとすれば、「''鹿日女神''」を食物として献じていたのは''大食津比売大神''とされていたのかもしれないと思う。ただし、記紀神話を編纂する頃から、これを男神の所業に置き換えようとする動きがあり、まず国史にイザサワケが登場し、時代が下ると現地で祀られていた神々が記紀神話の通りに置き換えられていったのではないだろうか。 ただ、本来の祭神の名であった「鹿日(カヒル)」は神社の名として残され「''氣比''」となったのではないだろうか。要は ''葉山姫神''(鹿日女神)→''大食津比売大神''→イザサワケ(''御食津大神'') と、最初の祭神が「''応神天皇に食べられた''」という逸話を挿入することで、祭神を置き換えていったと考える。 丹生都比売神社は物部氏系の神社と考えられるので、氣比から神を勧請したのも、「同族の神」と考えていたかもしれないと思う。ただ平安末期には葉山姫神(鹿日女神)に対する信仰が薄れていたので、時の主祭神だった大食津比売大神を招いたのではないだろうか。 ** 出雲・秋鹿女神との関連 [#m18d9057] 秋鹿女神には大国主を治療した、という伝承があり、古事記ではこれはキサガイヒメ・ウムギヒメの仕業としている。秋鹿女神が「鹿日(カヒル)女神」と同じものであるなら、「カヒ」の音が「貝」と変えられ、「貝女神」が大国主の治療をした、とされたのではないだろうか。 「鹿日(カヒル)」=「貝(カヒ)」(古事記)=秋鹿(アヒカ)(秋鹿神社伝承) である。ということは「鹿日(カヒル)女神」は「日鹿(ヒカ)女神」とも呼ばれており、「秋鹿」とは「日鹿」から変化した名なのではないだろうか。「入鹿魚(イルカ)」の名も同様であろう。 伝承で、この鹿女神達が食べられてしまったように、現実でも女神達への信仰は衰退させられてしまい、記紀神話編纂の頃には秋鹿神社、鹿蒜神社共に名のみがかろうじて残る小社となっていたかもしれない。しかし、女神の名は地名などにかすかに痕跡として残されたように感じる。 ** 葉山姫神と波己曾比売 [#d25c2839] 不運にも衰退させられてしまった「鹿日女神」ではあるが、「葉山姫神」の名はなんとか現代まで残された。この女神はどのような女神なのだろうか、ということになる。「伊邪那岐命・伊邪那美命」のように、古代の神々は似たような名前で、男女の一対になることが多い。物部氏系の神社では、男女の性別は明らかでないが、布都御魂(剣霊)と布留御魂(再生の神)という似た名の一対の神を石上神宮で祀る。石上神宮の近傍に布留川が流れる。日本の川の神は女神が当てられることが多いので、布留御魂は元は女神だったのではないか、と推察される。このように考えれば、葉山姫神(ハヤマヒメガミ)とは、 邇芸速日命(ニギハヤヒノミコト)に対応する「''速日(ハヤヒ)女神''」 と言ったのではないだろうか。この女神もやがて名を失い、物部氏などの祖神女神である「''天道日女命'' (アメノミチヒメノミコト) 」に置き換えられていったものと考える。とすれば、安芸、甲斐、氷飽(ヒガノ、長野市川中島の地名)といった各地に見える地名は、秋鹿(アヒカ)、鹿日(カヒル)が由来と思われ、この女神は太占と共にあった女神で、元は弥生最大級の''太陽女神''だったと思われる。氣比神宮の最古の主祭神でもあったのではないだろうか。記紀神話における''天照大御神''の最大の前身といえる女神だったと考える。 また、群馬県の物部氏が、''丹生都比売命''のことを''波己曾(ハコソ)比売''と同じ神とみなしており、これが''葉山(ハヤマ)姫神''でもあるのなら、これは''氣比女神''、すなわち''鹿日(カヒル)女神''のことともいえる。どんなに消されようとしても、少しずつ名を変え、性質を隠しながら、物部氏が守り抜いてきた太陽女神群といえるのではないだろうか。 *参考文献 [#v8ddce54] - [[鹿蒜神社>https://genbu.net/data/etizen/kahiru_title.htm]]、玄松子(最終閲覧日:25-01-08) - [[妙義神社>https://genbu.net/data/kouzuke/myougi_title.htm]]、玄松子(最終閲覧日:25-01-08) - [[丹生神社(富岡市下丹生)>http://www.jakantomi.or.jp/tourism/%E4%B8%B9%E7%94%9F%E7%A5%9E%E7%A4%BE%EF%BC%88%E5%AF%8C%E5%B2%A1%E5%B8%82%E4%B8%8B%E4%B8%B9%E7%94%9F%EF%BC%89/]]、JA甘楽富岡(最終閲覧日:25-01-08) - [[越前の部民>https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T1/2a3-01-04-03-04.htm]]、『福井県史』通史編1 原始・古代(最終閲覧日:25-01-08) - Wikipedia:[[氣比神宮>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%A3%E6%AF%94%E7%A5%9E%E5%AE%AE#CITEREF%E7%94%B1%E7%B7%92%E6%9B%B82013]](最終閲覧日:25-01-08) *関連項目 [#m66477f2] - [[神社/秋鹿神社]] カテゴリー:[[:神社]] [[:福井県]] [[:物部氏]]
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''鹿蒜神社''(かひるじんじゃ)は福井県南条郡南越前町字南今庄にある神社である。鹿蒜川のほとりにある。式内社。現在の祭神は誉田別尊、伊弉諾尊、武甕槌命。社号「鹿蒜」は「かひる」と読むが「かえる」とも「かいる」とも呼ばれているようだ。昔の資料には「帰村」とある。島根県松江市にある秋鹿神社の秋鹿日女命(あひかひめのみこと)との関連が推察される。 鶴賀郡の式内社に所在不明の「加比留神社」があるが当社とも地名由来の社号であるという。 資料によると境内社は、秋葉神社、金比羅神社、稲荷神社である。 *私的考察 [#k3702a1f] #ref(1-h0141.jpg,right,around,,50%) 鹿蒜(かひる)神社とは、元は「''鹿日''」と書いて「''かひる''」と呼ぶ女神だったのではないだろうか。当然太陽女神である。福井県史によると鹿蒜郷に物部氏の名前が見える。物部氏系の女神と考える。「鹿日」とすれば文字通り「太陽」のことで「太」とは「鹿」のことを指す。 >「太占」とは、鹿占は鹿の肩甲骨を一定の作法で焼き、生じたひび割れによって吉凶を占う手法で、我が国では弥生時代に始まり、特に古代には盛んに行われていたことが知られている。かつては各地で行なわれた鹿占習俗も、現在では貫前神社(上野(群馬県)一宮)と武蔵御嶽神社で行われるもののみとなっている([[貫前神社の鹿占習俗>https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/199946]]、文化遺産オンライン(最終閲覧日:25-01-08))。 ** 最初の余談・妙義神社 [#q6b21ef8] 妙義神社(群馬県富岡市妙義町妙義)は妙義山にある。妙義山とは白雲山・金洞山・金鶏山の三山の総称で、妙義神社は白雲山を神体とする神社である。古くは波己曾(ハコソ)明神と称し、『三代実録』の貞観元年(859)三月二十六日に、「授上野國正六位上波己曾神從五位下」とあり『上野国神階帳』に「従二位 波己曾大明神」とある。 妙義山の中の白雲山周辺の地は「七波己曾」と呼ばれ、山麓に波己曾神社が分布して、''丹生都姫命''を祀っていたらしい。現在でも富岡市などに「丹生神社」が複数みられ、''丹生都比賣尊''(ニュウツヒメノミコト)を祭神とする神社もある。本来、妙義神社も波己曾神を主祭神としていたが、いつの頃か、別に妙義大権現が成立して、本社となり、波己曾神は境内社に遷された状態になったようだ。ということは、当社の元の主祭神、地主神は''丹生都姫命''であり、『平成祭データ』などには祭神の中に名が記されているのだが、境内の由緒では、豊受大神となっている。 群馬県は女神信仰が強く、一宮・貫前神社の祭神も女神である。おそらく、紀州(和歌山県)の物部氏が移住して開拓した地と思われる。物部氏の祖神は邇芸速日命(ニギハヤヒノミコト)というので、元は近い名の女神も存在し、波己曾(ハコソ)女神とは、「速日(ハヤヒ)子」という言葉から変化したものではなかったかと想像する。 ** 氣比神宮との関連 [#ua9f42a1] 氣比神宮(けひじんぐう)は、元は女神を祀っていたと推察される。 氣比神宮末社・林神社の祭神は''林山姫神''(はやまひめのかみ)という女神である。社伝によると延暦7年(788年)に参詣した最澄が林神社の霊鏡を比叡山に遷したとして、比叡山鎮守社の日吉大社で祀られる気比神は当社にあたるという(ただし、現在の日吉大社では祭神を仲哀天皇とする)(神社由緒書「氣比神宮」)。''平安時代初期''の最澄は''林山姫神''を「氣比神」、すなわち氣比神宮の祭神と考えていたのではないだろうか。 また、丹生都比売神社(和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野)では、第三殿に「気比明神」として大食津比売大神(おおげつひめのおおかみ)を祀る。この女神は承元2年(1208年、''平安末期'')に氣比神宮からの勧請と伝えられている。現在氣比神宮に大食津比売大神は祀られておらず、女神のいずれかを大食津比売大神(大宜都比売)に置き換えたものと推察される。「御食津大神」とは平安末期まで「''女神''」とされていたのではないだろうか。平安時代の初期から末期の間に、祭神はまず、 ''林山姫神''→''大食津比売大神'' と置き換わったものと思われる。 記紀神話によれば、 >太子(応神天皇)が角鹿(敦賀)の仮宮を営んでいると、夜の夢にイザサワケが現れて名を交換するよう告げられた(気比神宮(平凡社), 1981, p505)。太子が承諾するとイザサワケは翌朝に浦に出るように言い、太子が言われたとおりにすると浦には一面にイザサワケの献じた''入鹿魚''(イルカ)があった(気比神宮(平凡社), 1981, p505)。これにより太子はイザサワケを「御食津大神(みけつのおおかみ)」と称え、のちにその名が「気比大神」となったという(気比神宮(平凡社), 1981, p505)。 とのことである。イザサワケが献じた「''入鹿魚(イルカ)''」とは、「鹿日(カヒル)」を逆に読んだもので「''日鹿''」とも読める。この「日鹿女神」が「葉山姫神」のことをも指すのであれば、イザサワケは、魚に変じた太陽女神を応神天皇に献じて食べてしまい、「''御食津大神''(みけつのおおかみ)」の名を手に入れたのではないだろうか。平安初期に、「''御食津大神''」として''大食津比売大神''が祀られていたとすれば、「''鹿日女神''」を食物として献じていたのは''大食津比売大神''とされていたのかもしれないと思う。ただし、記紀神話を編纂する頃から、これを男神の所業に置き換えようとする動きがあり、まず国史にイザサワケが登場し、時代が下ると現地で祀られていた神々が記紀神話の通りに置き換えられていったのではないだろうか。 ただ、本来の祭神の名であった「鹿日(カヒル)」は神社の名として残され「''氣比''」となったのではないだろうか。要は ''葉山姫神''(鹿日女神)→''大食津比売大神''→イザサワケ(''御食津大神'') と、最初の祭神が「''応神天皇に食べられた''」という逸話を挿入することで、祭神を置き換えていったと考える。 丹生都比売神社は物部氏系の神社と考えられるので、氣比から神を勧請したのも、「同族の神」と考えていたかもしれないと思う。ただ平安末期には葉山姫神(鹿日女神)に対する信仰が薄れていたので、時の主祭神だった大食津比売大神を招いたのではないだろうか。 ** 出雲・秋鹿女神との関連 [#m18d9057] 秋鹿女神には大国主を治療した、という伝承があり、古事記ではこれはキサガイヒメ・ウムギヒメの仕業としている。秋鹿女神が「鹿日(カヒル)女神」と同じものであるなら、「カヒ」の音が「貝」と変えられ、「貝女神」が大国主の治療をした、とされたのではないだろうか。 「鹿日(カヒル)」=「貝(カヒ)」(古事記)=秋鹿(アヒカ)(秋鹿神社伝承) である。ということは「鹿日(カヒル)女神」は「日鹿(ヒカ)女神」とも呼ばれており、「秋鹿」とは「日鹿」から変化した名なのではないだろうか。「入鹿魚(イルカ)」の名も同様であろう。 伝承で、この鹿女神達が食べられてしまったように、現実でも女神達への信仰は衰退させられてしまい、記紀神話編纂の頃には秋鹿神社、鹿蒜神社共に名のみがかろうじて残る小社となっていたかもしれない。しかし、女神の名は地名などにかすかに痕跡として残されたように感じる。 ** 葉山姫神と波己曾比売 [#d25c2839] 不運にも衰退させられてしまった「鹿日女神」ではあるが、「葉山姫神」の名はなんとか現代まで残された。この女神はどのような女神なのだろうか、ということになる。「伊邪那岐命・伊邪那美命」のように、古代の神々は似たような名前で、男女の一対になることが多い。物部氏系の神社では、男女の性別は明らかでないが、布都御魂(剣霊)と布留御魂(再生の神)という似た名の一対の神を石上神宮で祀る。石上神宮の近傍に布留川が流れる。日本の川の神は女神が当てられることが多いので、布留御魂は元は女神だったのではないか、と推察される。このように考えれば、葉山姫神(ハヤマヒメガミ)とは、 邇芸速日命(ニギハヤヒノミコト)に対応する「''速日(ハヤヒ)女神''」 と言ったのではないだろうか。この女神もやがて名を失い、物部氏などの祖神女神である「''天道日女命'' (アメノミチヒメノミコト) 」に置き換えられていったものと考える。とすれば、安芸、甲斐、氷飽(ヒガノ、長野市川中島の地名)といった各地に見える地名は、秋鹿(アヒカ)、鹿日(カヒル)が由来と思われ、この女神は太占と共にあった女神で、元は弥生最大級の''太陽女神''だったと思われる。氣比神宮の最古の主祭神でもあったのではないだろうか。記紀神話における''天照大御神''の最大の前身といえる女神だったと考える。 また、群馬県の物部氏が、''丹生都比売命''のことを''波己曾(ハコソ)比売''と同じ神とみなしており、これが''葉山(ハヤマ)姫神''でもあるのなら、これは''氣比女神''、すなわち''鹿日(カヒル)女神''のことともいえる。どんなに消されようとしても、少しずつ名を変え、性質を隠しながら、物部氏が守り抜いてきた太陽女神群といえるのではないだろうか。 *参考文献 [#v8ddce54] - [[鹿蒜神社>https://genbu.net/data/etizen/kahiru_title.htm]]、玄松子(最終閲覧日:25-01-08) - [[妙義神社>https://genbu.net/data/kouzuke/myougi_title.htm]]、玄松子(最終閲覧日:25-01-08) - [[丹生神社(富岡市下丹生)>http://www.jakantomi.or.jp/tourism/%E4%B8%B9%E7%94%9F%E7%A5%9E%E7%A4%BE%EF%BC%88%E5%AF%8C%E5%B2%A1%E5%B8%82%E4%B8%8B%E4%B8%B9%E7%94%9F%EF%BC%89/]]、JA甘楽富岡(最終閲覧日:25-01-08) - [[越前の部民>https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T1/2a3-01-04-03-04.htm]]、『福井県史』通史編1 原始・古代(最終閲覧日:25-01-08) - Wikipedia:[[氣比神宮>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%A3%E6%AF%94%E7%A5%9E%E5%AE%AE#CITEREF%E7%94%B1%E7%B7%92%E6%9B%B82013]](最終閲覧日:25-01-08) *関連項目 [#m66477f2] - [[神社/秋鹿神社]] カテゴリー:[[:神社]] [[:福井県]] [[:物部氏]]
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