明治三十年三月 近藤 圭造
続群書類従は初め大塔物語の伝写本により大塔軍記として収めたが、後年出版に際しては成澤本に改めたのである。
塙本大塔軍記者、此書之伝写本、而有後世注書之捲入者也。今以東京帝国大学蔵本所蔵版本謄写校合畢。
(大塔軍記の稿本は、此の書の伝写本、而して後世の注書の捲(まく)り入れに有るなり。今以て、東京帝国大学蔵本、所蔵版本の謄写校は合わせて畢(お)わる。)
斯(この)様に大塔物語は蕗原拾葉の外何れにも集録され殊に史籍集覧の如きは大塔記は大塔物語を節略して古体を失ったとまで謂って居る。然らば大塔物語を以て堯深法師の著と断定して全然これに拠るべきであらう乎(か)。
それは版本を一見して如何にも古書の面目=字体も文章も=を覗(うかが)はれる。併しながら金刺家伝来と云ふについて既に説をなすものがあるが、それ等の消息は不明であるから暫く措き、唯本文を通読して感ずることは、誇張に過ぎて思はず吹出さざるを得ない程の所もあり、又引例が変であったり。意味の不明な所抔(ところなど)もあるが、大体に於て種々の故事を並べ武器やら馬具やら衣類調度を始め馬の事鷹の事等に至るまで達者な筆致を以て事細かに文を行って居る所は誰しも認むる所であらう。
惟(おも)ふにこれだけの伎倆(ぎりょう)がある者ならが、どうして又これだけの誤字や訛字を沢山使ふものであらうぞ、上梓に際して校訂の任に当った原昌言も、魯魚相望、訛謬不尠と謂って居るではないか。去れば斯の点について多少の疑を挿むものがありそうに思はるゝのに今迄何人もこれに言ひ及んだ人がない如に思ふ、私は奥書にある堯深法師写之とあるは文字通り既に存したものを伝写したものと見るのが妥当ではあるまい乎と考へる。