県主(あがたぬし)は、律令制が導入される以前のヤマト王権の職種・姓(かばね)の一つである。

県主は、国造(くにのみやつこ)や伴造(とものみやつこ)の「ミヤツコ」よりも古い「ヌシ」の称号をもち、名代・子代の制よりも古めかしい奉仕形態をとることから、3ー4世紀(古墳時代初期)に成立したと考えられている(県主制の成立時期を伝承の上に位置づけようとした場合、崇神天皇の治世が妥当とみられ3世紀後半から県制、大和王権の拡大過程の5、6世紀にかけ、国造制に代わり、県は実質的な意味を失い、遺制となったとされる(新野直吉, 1974, pp20-21。))。「国」が日本氏姓制古代国家の行政目的で作られた行政制度であるのに対し、「県」は発生と発展がもっと自然の性格をもつ(新野直吉, 1974, p28)。

現在の「県」という言葉に残っているように「県(あがた)」とは古代の地方の行政区分であり、「県主」(あがたぬし)とは地方行政の長官のことを指したのであろう。後の「国造」と同じで地方の有力豪族の首長が任命されたものと思われる。

県主の一覧(あがたぬしのいちらん)は県主の一覧である。

畿内

倭(大和)

凡河内(河内・和泉・摂津)

山背(山城)

東海道

伊勢(伊勢・伊賀)

尾張

備考

多氏系の氏族が関わったとされる神社には、尾張戸神社(おわりへじんじゃ、愛知県瀬戸市/名古屋市守山区)や石作神社(いしつくりじんじゃ、愛知県長久手市)などがある。

遠江

下総

東山道

近江

美濃

信濃

信濃国では八県が存在したと言われている。八縣とは内縣(諏訪)外縣(上下伊那)大縣(南北佐久)小縣(小縣)南縣(東筑摩)北縣(更級・埴科)高位縣(上下高井)水内縣(上下水内)である(『上高井歴史』)(高杜神社あれこれ、久保の家の爺ちゃんと婆ちゃんのくだもの畑(最終閲覧日:25-01-02))。

正式な記録にはない縣

陸奥

私的考察

砂山祭(神官の一人が鶏冠を被る)、御田植祭(若者が田をかき回す)という神事が行われる。摂社・斎神社の祭神:大毘古命、建沼河別命。「伊佐須美」とは「いざなみ」の名の転化でも良いし、類似した名の女神のことでも良いと考える。斎神社も古くは、女神に使える神女、いわゆる「斎宮」が詰める場所だったのではないだろうか。「会津」という地名も伊邪那美命に由来するかもしれないと考える。

北陸道

越(越前・越中・越後・加賀・能登・出羽)

伝承

9世紀後半、平泉寺の白山権現が衆徒の前に現れ、その尊像を川に浮かべたところ、九つの頭をもつ龍が現れ、尊像を捧げいただいて流れを下って黒竜大名神社の対岸に着いたといい、それ以降、この川を九頭龍川と呼ぶようになった(毛谷黒龍神社、昇龍道(最終閲覧日:25-01-04))、とのこと。九頭龍神とは白山権現(女神)のことで、黒竜大明神と夫婦である、という意味だろうか。この伝承からは、多氏に近い勢力があったことがうかがえる。少なくとも氣比神宮の角鹿氏は多氏系と考える。林山姫神(はやまひめのかみ)とは元は「ハヤヒメ」等の名前で、総母神として祀られていたのではないだろうか。しかし、それが伊奢沙別命(いざさわけのみこと)に置き換えられているように思う。こちらは須佐之男の別名のようなものではないだろうか。

山陰道

丹波(丹波・丹後)

山陽道

吉備(備前・備中・備後・美作)

伝承

鴨別命のミヅチ退治縣主神社

* 日本書紀

『日本書紀』の巻十一〈仁徳天皇紀〉の67年(西暦379年)にある、「大虬(ミツチ)」の記述で、これによれば吉備の中つ国(後の備中)の川嶋河(一説に現今岡山県の高梁川の古名)の分岐点の淵に、大虬が住みつき、毒を吐いて道行く人を毒気で侵したり殺したりしていた。そこに県守(あがたもり)という名で、笠臣(かさのおみ、笠国造)の祖にあたる男が淵までやってきて、ヒョウタン(瓢箪)を三つ浮かべ、大虬にむかって、そのヒサゴを沈めてみせよと挑戦し、もし出来れば撤退するが、出来ねば斬って成敗すると豪語した。すると魔物は鹿に化けてヒサゴを沈めようとしたがかなわず、男はこれを切り捨てた。さらに、淵の底の洞穴にひそむその類族を悉く斬りはらったので、淵は鮮血に染まり、以後、そこは「県守淵(あがたもりのふち)」と呼ばれるようになったという(鳥越, 1974, p130, http://www.maff.go.jp/chushi/kj/okayamananbu/2/colum1.html, コラム―高梁川(たかはしがわ), 中国四国農政局, 2012年9月2日)(http://www.j-texts.com/jodai/shoki11.html, 巻十一〈仁徳天皇紀〉の67年, 『日本書紀 』, 日本文学電子図書館 , 2019-07-24, 是歳於吉備中国川嶋河派有大虬令苦人時路人触其処而行必被其毒以多死亡...)(「ミツチ」と訓ずる(石塚晴通 , 尊経閣文庫本日本書紀本文・訓点総索引, 八木書店, 2007, https://books.google.co.jp/books?id=vMBY0qwe14wC&pg=PA38, p38, isbn:4840694117)、「水父(みづち)」、の訓あり?? 宇治谷, 1988(現代訳)、p.250では竜とつくる。)(Wikipedia:(最終閲覧日:26-01-10))。→ヒョウタン

* 県主神社の案内板

今から1500年程前、木之子の岩ヶ市の鳴尾の渕に大蛇に似た蛟がおり、人々を苦しめていた。この地方を守護していた鴨別命が人々を守る為に退治した。鴨別命は縣守として神社に祀られ、又、退治された蛟も竜神様として祀られ、秋祭の御神幸で鳴尾の渕の近くで鎮魂の祈りをしています(Wikipedia:木之子(岡山県井原市)、すさまじきもの ~歌枕★探訪~(最終閲覧日:26-01-10))。

* 私的解説

岡山県には、化氣神社の項に書いたように、「鹿の太陽女神」の信仰が古代においてあったと思われる。退治された蛟が「鹿」に変身した、というのはこの蛇女神が、鹿女神であり、太陽女神かつ水神であることを示しているように思う。化氣神社の祭神が、鹿の太陽女神から伊奢沙別命に置き換わってしまったのは、「鴨別命が悪い蛟として退治してしまったから」と言っているも同然の神話である。福井県では、女神をイルカに変えて食べてしまっていると思われるので、岡山県でも退治した後食べてしまったかもしれないと思う。ヒョウタンは伏羲の象徴なので、伏羲と祝融を足したような神が鴨別命といえる。鴨別命と伊奢沙別命は「同じ神」で、賀茂氏の神と考える。ちなみに応神天皇と名前(真名)を取り替えた、という伝承があるので、まさに「俺が日本の天皇だ!」と言わんばかりの鴨別命と伊奢沙別命の神話だと考える。

周防

南海道

讃岐

* 伝承・田中広虫女

『日本霊異記(にほんりょういき)』(下巻―26)。
讃岐(さぬき)(香川県)美貴(みき)(三木)郡の郡司小屋県主宮手(おやのあがたぬしの-みやて)の妻。強欲な財産家で,高利の貸し付けや残酷な取り立ての報いをうけて宝亀(ほうき)7年(776)病死したが,上半身が牛の姿で生きかえる。おどろいた家人が寺に財物を寄進し,貸し付けも棒引きにするなどして罪業をつぐなったため,まもなく死去したという(田中広虫女、コトバンク(最終閲覧日:26-01-10))。

* 伝承・武鼓王の悪魚退治(三木郡外の伝承)

武鼓王(たけみかづちおう)あるいは讃留霊王 (さるれお)とは、日本武尊の子とされる。
景行天皇の時代、土佐の海に出現したえびのような形の大魚が、あたりの人や船を飲み込み、さらに阿波の国鳴門、讃岐国槌途へと暴れ回った。これを知った天皇は日本武尊に退治を命じたところ、父からその役目を託された15歳の武殻王は、綾川に陣をしき、80余名の兵力で挑んだが、たちまち大魚に飲み込まれてしまった。すると武殻王は隠し持った道具で火をふき、大魚の腹を切り裂き脱出に成功、大魚の死骸は海岸に流れ着いた。しかし魚の毒気にあてられた兵士たちは虫の息となってしまった。
そこへ雲に乗って一人の童子が現れ、壺の水を兵士たちに飲ませるとみるみる蘇生した。この童子は横潮大明神という神で、80人の兵士が蘇ったという意味で、壺の水を汲んだ清水は「八十場(八十蘇)の清水」と名づけられた(「やそば」はJRの駅名にも残っている)。大魚退治の褒賞として讃岐の地を与えられた武殻王は、城山に館を構え、"讃岐に留まる霊王" という意味をこめて讃留霊王とよばれた(綾氏の祖)(武鼓王の悪魚退治伝説、Easilee(最終閲覧日:26-01-10))。

西海道

筑紫(筑前・筑後)

豊(豊前・豊後)

肥(肥前・肥後)

日向(日向・大隅)

薩摩

壱岐

対馬

参考文献

カテゴリー::総論 :歴史 :県主 :氏族 :工事中


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