大塔合戦を単に地方豪族の衝突と見たり、坂西長国の武勇伝として了(おわ)ったでは、余りに意義がなさ過ぎる。今少し視野を広くして研究する必要があらう。 地理的や民族的の関係で、信州至る所の渓谷盆地に代償の氏人が分立割拠するに至った経路は素通りして鎌倉時代に飛ぶ事にするが、由来小笠原氏は同じ源流の流れでもあり足利氏とは始めから無二の間柄で、尊氏が愈々両六波羅を討伐しやうとした時に先づ使を送って同盟を需めたのは小笠原貞宗、結城宗広、島津貞兼の三人であった。