高蔵神社(たかくらじんじゃ)は岡山県岡山市北区牟佐にある神社である。祭神は天照國照彦火命(天火明命)、天香山命、建御名方命。

創建は正慶元年(1332年)以前である。備前国総社神名帳に高蔵神社、山本氏本に従二位高蔵大明神と記載してある古社で、備前国式内外128社の1である。上代の祭式を存し、新嘗報賽の旧式を厳重に奉務し、その饗宴の日に古風の神遊を奏している。これを高蔵の杵舞と云う。

概要

かって高倉山山頂に建っていたが、風雨の被害が多いので、100m低い今の場所へ移された。

正慶元年(1332)銘の「正二位高蔵大明神」と彫られた鳥居の扁額(へんがく)があり、その裏面に「大願主国造神主上道康成」と記され、岡山市重要文化財に指定されている。上道氏にゆかりのある神社である。牟佐地区には、この神社の遥排所(ようはいしょ : 離れた場所から拝む場所)がある。

当屋祭(とうやさい)

古くから杵舞行事のある高蔵神社の「おとうやさい」が行われてきた牟佐は、かなり裕福な農村で 戸数は二百戸余、稲屋(とうや)を担当した家は 約四十戸といわれている。「向山と地蔵」「鳥井と太戸」「本村」「渡場と林原」「西条と市場口」の五組により、各くるわが 毎年輪番で稲屋主をきめた。この稲屋祭は 十二月十三日から十八日迄行われ、最終日に杵舞行事が催された。杵舞は、男性が杵を持って舞うもので、五穀豊穣を祈願する意味がある。

戦中戦後は中断されていたが、昭和三十一年に市史編纂資料作成のため、地蔵の植田千弘氏宅で杵舞行事が復活された。それ以降は経済的な面と農家の減少にともない、従来の形の稲屋祭は行われなくなり、毎年稲屋主が順番に引継がれて全ての神社行事に参画し、稲屋祭は十二月十五日に稲屋渡しの神事が、神主、奉賛会、新旧稲屋主により催されている。

稲屋祭について記した幕末の国学者平賀元義の「杵舞記」によると、高蔵神社は雨乞霊験があることで古くから知られ、中世は赤坂郡高月郷の総鎮守であったという。稲屋祭は11月15日・16日行われ杵舞行事があったが現在は稲屋行事のみが12月15日に行われている。

牟佐の地名

赤磐郡誌には「身佐村主(むさすぐり)」は 呉の帰化族で、大和の高市郡牟佐坐(むさいます)神社の地より起こると、簡記されている。牟佐村主とは「日本書記」雄略天皇二年の記録に 史部身佐村主青とあり、身佐は牟佐と同意語で、古墳時代に 大和の高市郡(現橿原市)の牟佐坐神社の地に住んだ人たちが 移住した土地であったと推考される。古墳文化の発展する時代で、或いは牟佐大塚古墳等の造築に従事した人々ではないだろうかと思われる。
牟佐坐神社は、渡来人の身狭村主青が生雷神を祀ったのが始まりとされている。

私的考察

牟佐坐神社は東漢氏の本拠地と言われているが、おそらく、阿智氏、安曇氏、海部氏は近縁性の高い同族体で、大和国高市郡牟佐坐神社を拠点としていたのも海部氏だったのではないかと思う。長野県では、阿智氏の勢力下と思われる神坂峠の神坂神社に海神を祀っている。安曇氏が祀ったものとされているが、阿智氏も同じなのではないだろうか。当地に高蔵神社を祀ったのも海部氏の一派で、上道県主、上道国造を務めたものと考える。

稲屋(とうや)とは、元々「十夜」と書いて「十」を強調したものなのではないだろうか。高蔵という名前も元は「十蔵(とくら)」と読んだのかもしれないと思う。十倉、戸倉といった地名は時折みかける。祭りの当番を順番に務め、整然としているのでローマ的ではないかもしれないと思うけれども、原始キリスト教の名残なのではないだろうか。杵舞はやや神婚的な意味合いがあるように思う。雨乞いの際も舞うのだろうか、興味深い。

牟佐坐神社の最初の祭神である「生雷神」とはどのような雷神であるのかは定かではない。天火明命の前身となる神だったかもしれないと思う。

参考文献

関連項目

カテゴリー::神社 :岡山県 :原始キリスト教


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