大而天下之収乱盛衰、小而一事之得失成敗。非レ史不レ能レ観固也。傍史之於二正史一、猶二分泒之与本流一、正史本而傍史末、是亦不レ待レ論也。然而彼略而此詳、彼逸而此存者、間亦有レ之、此傍史之不レ可レ捨也。諏訪社大祝。金刺連今井信吉、故家也、多蔵二古写書一、内有二大塔物語者一。記下応永年中小笠原長秀、為二信州守護一事上、嗚呼
後小松帝之代、年紀綿邈、事跡難レ審、信州僻遠、載籍不レ具、且其抗命荷戈之家、率就二斯滅一、宗祀不レ在、当時信州擾乱之情状、及著姓甲族、拠二有土地一者之名姓、除二此書一外、絶不レ聞レ有二記レ之者一、雖二小冊子哉一、実可レ謂二空谷足音一矣。今井氏原本、蠹蝕頗多、成澤寛経惜三其歴レ年弥レ久或至二大蠹一也、懇請以謄二写之一、損レ財鏤レ梓、以公二諸世一、好古之士其庶幾有レ取焉
嘉永三年龍集庚戌秋九月 加藤 維藩 撰
大は天下の収乱盛衰、小は一事の得失成敗。史にあらず観固すること能はざるなり。傍史之正史に於いて、猶ほ分泒之本流のごとし、正史は本、傍史は末、是亦論を待たざるなり。然るに彼略す此詳、彼逸(うしな)う此存者、間にまた之ある、此傍史之捨てるべからずなり。諏訪社(下社)大祝。金刺連今井信吉は故家なり、多く古写書を蔵す、内大塔物語者有り。応永年中小笠原長秀、信州守護と為る事記す、嗚呼
後小松帝の代、年紀は綿邈(めんばく)、事跡審(つまび)らかにし難し、信州は僻遠、載籍(さいせき)具わらず、且つ其抗命荷戈の家、斯滅し就す*1、宗祀(そうし)在らず、当時信州擾乱の情状、および著姓甲族、有る土地に拠る者の名姓、此書を除くほか、絶して之を記す者有るを聞かず、小冊子なりと雖(いえど)も、実に空谷の足音と謂うべし。今井氏原本、蠹蝕頗(すこぶ)る多く、成澤寛経、大蠹(だいと)其年歴弥久(びきゅう)により惑うに至るを惜しむなり*2。懇請し以て之を謄写し*3、材を損じ梓を鏤み、以て諸世に公にす。好古の士取ること有るを庶幾(こいねが)うや*4。
嘉永三年龍集庚戌秋九月 加藤 維藩 撰
重大事は天下が平和であるのか乱世であるのか、栄えているのか衰えているのかであり、一時の損得や勝ち負けは小事である。記録にないことは元より見ることができない。傍史とは正史にとって、まるで本流から別れた末流のようなもので、正史が本流、傍史が末流であり、これは論じるまでもない。それなのに人は傍史の詳細を略し、傍史の存在を忘れてしまうが、正史の狭間に傍史は存在し、之を捨ててしまってはならない。諏訪社(下社)大祝。金刺連今井信吉は旧家であり、古写書を多く所蔵している。その中に大塔物語がある。応永年中に小笠原長秀が信州守護と為った事が記されている、嗚呼
後小松帝の時代、年紀は遙か昔のことで、事跡を細かくはっきりとさせることは難しい。信州は僻地で、書物に書き載せることも充分ではない。幕府の命に逆らう武門の家は、次第に減って付き従うようになった。幕府を敬うこと無く、当時の信州は騒乱状態だった。及び名門名家といった、所有する土地に拠る者の姓名は、此の書以外には、これを越えて書き記したものがあるとは聞いたことがなく、小冊子であると雖も、実に思いがけない悦びというべきである。今井氏原本は虫食いがたいそう多く、成澤寛経は大きな虫食いが長い年月にわたるうちに内容が分からなくなることを惜しんだ。寛経は熱心に頼み込んで「大塔物語」を書き写し、私財を投じて出版し、世に公にした。歴史好きの者が、この本を手に取るように強く願い望む。
嘉永三年(1850年)龍集庚戌秋九月 加藤 維藩 撰*5
大塔水内郡今大道嶺是也、応永七年小笠原長秀、与二国人一戦二是地一、享禄二年香阪宗継記レ之名曰二大塔記一。按宗継嘗与二其戦一、応永七年至二享禄二年一百三十年、宗継豈能如レ是長生乎。窃請享禄必是享徳若長禄之訛。又頓阿応安中寂云、今復出二是書一者亦為二以可一レ疑。唯土豪姓名頼二是書一存焉者、豈可レ不二珍襲一乎哉。
文化丁丑首夏中浣 中村 奟識
(原本欄外附記)
頓阿、貞治二年、著愚問賢註、時年七十余歳、又伝曰八十歳寂。按貞治至応永、年代久遠、必非頓阿可生存也。以俟後考。
大塔水内郡、今大道嶺是なり、応永七年小笠原長秀、国人と是の地に戦い、享禄二年香阪宗継之を記し、名を大塔記と曰(い)う。あんずる宗継かつて其の戦に与(くみ)すると、応永七年、享禄二年より至ること百三十年、宗継豈能く是の如く長生や*6。窃(ひそ)かに謂(おも)えらく享禄必是享徳若しくは長禄の訛(なまり)。又頓阿応安中寂れると云う、今また是の書に出るもの、また以て疑うべし為り。唯土豪の姓名是書に頼るに存じ、豈珍襲べからざらんや。
文化丁丑首夏中浣 中村 奟識
(原本欄外附記)
頓阿、貞治二年、愚問賢註を著(あらわ)す。時年七十余歳、又伝曰く八十歳寂(さび)れる。按ずる貞治至る応永、年代久しく遠く、必ず頓阿生存べからざるなり。以後考(こうこう)を俟(ま)つ。
塔のある水内郡、今、道のほとんどは山の中である。応永七年、小笠原長秀は、国人と是の地に戦った。享禄二年、香阪宗継この戦いを記し、書物の名を「大塔記」と曰(い)う。宗継がかつて其の戦に加わっていたと考えると、応永七年は享禄二年よりも百三十年前である。宗継がどうしてこのように長生きしようか。個人的には、享禄は必ず享徳若しくは長禄の誤りであると思う*7。又、頓阿は応安年中に没したと云う。今是の書に登場することも、また以て疑うべきである*8。唯、土豪の姓名は是書に頼るものと思う。どうして珍しいものでないことがなかろうか。
文化丁丑(ひのとうし)(1817年)首夏(初夏)中浣(中旬)*9 中村 奟識
(原本欄外附記)
頓阿は、貞治二年(1363年)、愚問賢註を著(あらわ)した。その時、七十余歳であった。又伝承では、八十歳で亡くなったと言われている。貞治(1362~1368年)から応永(1394~1428年)への年月を考えると、年代がかなり離れており、必ず頓阿が生存していることはあり得ない。*10 ゆえに、後代の考えを俟(ま)つ。