解題2  

明治三十年三月   近藤 圭造
 続群書類従は初め大塔物語の伝写本により大塔軍記として収めたが、後年出版に際しては成澤本に改めたのである。

塙本大塔軍記者、此書之伝写本、而有後世注書之捲入者也。今以東京帝国大学蔵本所蔵版本謄写校合畢。
(大塔軍記の塙本は、此の書の伝写本、而して後世の注書の捲(まく)り入れに有るなり。今以て、東京帝国大学蔵本、所蔵版本の謄写校は合わせて畢(お)わる。)

 斯(この)様に大塔物語は蕗原拾葉の外何れにも集録され殊に史籍集覧の如きは大塔記は大塔物語を節略して古体を失ったとまで謂って居る。然らば大塔物語を以て堯深法師の著と断定して全然これに拠るべきであらう乎(か)。
 それは版本を一見して如何にも古書の面目=字体も文章も=を覗(うかが)はれる。併しながら金刺家伝来と云ふについて既に説をなすものがあるが、それ等の消息は不明であるから暫く措き、唯本文を通読して感ずることは、誇張に過ぎて思はず吹出さざるを得ない程の所もあり、又引例が変であったり。意味の不明な所抔(ところなど)もあるが、大体に於て種々の故事を並べ武器やら馬具やら衣類調度を始め馬の事鷹の事等に至るまで達者な筆致を以て事細かに文を行って居る所は誰しも認むる所であらう。
 惟(おも)ふにこれだけの伎倆(ぎりょう)がある者ならが、どうして又これだけの誤字や訛字を沢山使ふものであらうぞ、上梓に際して校訂の任に当った原昌言も、魯魚相望、訛謬不尠と謂って居るではないか。去れば斯の点について多少の疑を挿むものがありそうに思はるゝのに今迄何人もこれに言ひ及んだ人がない如に思ふ、私は奥書にある堯深法師写之とあるは文字通り既に存したものを伝写したものと見るのが妥当ではあるまい乎と考へる。
 更に両者の内容を比較すると、記事は大塔記の方が余程尠(すくな)いが夫は要するに挿話の部分で、戦記として見れば大塔物語の方には氏人の名が少く、殊に最初に於て小笠原勢の千田河原と犀河辺に陣取った伊那と諏訪との二手の名を全然逸して居るのが目立って居る。要するに物事は簡単から複雑に進むのが普通の状態とすれば、記の骨組が先づ出来てあったのへ後に種々伝説の肉を加へて物語が、出来たのではあるまいか。平家物語が先づ成って後に源平盛衰記に延長した如に=勿論これには反対説もあるが。
 斯様に考へて来ると宗継も堯深も共に著者ではあるまいと云ふ事に帰着するが去らば記と物語と何方を誰が先きに著し誰が後に添削したの乎と反問されても之に答ふべき何等の資料を有たない。唯強いて言へばそれは深く詮索するに及ぶまい。加藤維藩は著姓甲族土地に処有する者の名姓此書を除くの外絶えて之を記する者あるを聞かずと云ひ。中村元恒も亦唯土豪の姓名是書に頼て存するものありと述べ以て本書の価値の存する所を明かにし、更に中村元起は之を要するに此書の作者は臆定すべからず唯其疑を伝ふれば可なりと道破して居る。私はこれ以上に云ふべき辞はないと思ふから其儘ここの借用して以て結語とする。


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