町田 禮助
応永七年小笠原長秀が村上満信等と川中島で戦った事を記したものに大塔記と、大塔物語と、大塔軍記がある。それが鎌倉時代から行はれた和流の漢字文で、難解であった為め、仮名交りに書き直したものも伝へられた、がそれは皆原本によって多少の抜き差しをした迄のものであって異本と称すべき底のものではない。
大塔記はこの戦に参加した香坂宗継の著としてあるが、これを蕗原拾葉に収めた中村元恒は、宗継が戦後百三十年も長生きすることはあるまいから、年号の書違ひであらうと云って居る。然し干支が享禄二年に合致して居る所から見て、却って著者の方が仮託ではないかとの疑も生ずる。尚頓阿についても時代の誤りを指摘してあるが、惟ふに夫れも浄弁、慶運、兼好と相並んで和歌四天王と称された頓阿であるならば、仮令時を同ふしたにしても長秀の行列に加はって先乗りを承る様な坊さんでない事は明かである。だから此処に見ゆるのは当然別人であらねばならぬ。兎に角斯程の名人ならば何かに名を残してありそうなものではあるまいかと思ふ。
蕗原拾葉は、中村元恒が伊那の大出居住時代に大体成ったと云ふ事であるが、嘗て松本藩の旧師木澤天童に送った書簡中にも、
若し夫れ大塔記は則ち古書の僅かに世に存するもの……但だ恨むらくは文字鄙俚且つ謬誤多く……云々。
とあって相当之を重視したと思はるゝが、その原本を何れに得たかは判明しない、或は江戸に出て広く他藩の士と交際したから、小笠原家とか上杉家とか云ふ如な信州関係の藩から手に入れたものか、将た地方に存して居たものを集録したのであらうか、現に私の処にも両書仮名交り文の古写本があり、記の方には寛政七年の記入があるから推して其原本の漢字文も地方に存在したものと考へる。
大塔物語は堯深法師の著で然かも其自筆本として伝ったものを成澤寛経が上梓し、元恒にも其一本を送った。所がそれは恰(あたか)も元恒の病既に革まるの際であって、後年男元起が其顛末を記して拾葉中にある大塔記の末尾に加へたと云ふことで、其跋文も巻末に添へて置いた。
大正三年刊行の信濃史料叢書は、大塔物語を採録し、巻頭(第五巻)の例言及解題に左の如く記してある。
(例言摘要)本書輧録書目中既に出版せられたるものは大塔物語……中略……にして……史籍集覧中に輧録せられたり、されど大塔物語……の如きは集覧と本書と底本異るを以て小異あるを免れず……。
(解題)大塔物語 一巻 僧堯深著
応永七年、更級郡布施郷に於て、守護小笠原長秀と、村上満信を盟主としたる信州諸豪族の連合軍と、干戈(かんか)を交ふるに至り、激戦の結果、小笠原勢の一隊は、本隊との連絡を絶たれて、大塔の古要害に逃込み、重囲の中にあること二十余日、策の施さむ様なくして、遂に宗徒の人々枕を駢(なら)べて討死したる惨状を六十七年の後、僧堯深と云ふもの、下諏訪に於て見聞のまゝを物語体に記録したるもの、即ち本物語にして、堯深自筆の原本は、下諏訪神社の神官金刺家に所蔵せられたるを、上田の人、成澤寛経之を発見し、影写して嘉永四年上梓、数十部製本して知友に頒(わか)ちしが、惜むべし、版木は火災の為め焼失して存せず、本書は主として嘉永本により、成るべく原書の文体を保存するに努めたり。本物語の史的価値につきては、従来諸説紛々として一定せざりしも、之を市河文書と対照して考證するに、事件後六十余年後を経て記録したるものなれば、事実相異の箇所無之にあらざれども、大体に於て実證たるを失はず。著者堯深の伝記は未だ詳(つまびら)かならざるを以て省略す。
史籍集覧に集録してある大塔軍記は題目こそ異って居るが、大塔物語を底本とし、大塔記を比較して異同を傍書したに過ぎない。而して本文の最後に『文正元年云々』とある堯深法師の奥書と原昌信の『此書蓋沙門堯深所自書云々』とある附言中の一則を掲げ、更に次の如く附記してあるが、対照せし大塔記の出所は矢張りこれにも明かにしてない。
此書文章難渋して読み易からず、今一本を以て比校するに当り、一は詳かにして古体を存し、一は節略して聊(いささ)か古体を失へるが如し。要するに本書の原本は古体にして詳かなり、一本は聊か古体を失ひ且略なり、然れ共概して通巻意趣の異なる所なし、校訂の異同は一々掲げて傍に書き置きたり。