八女津媛神社(やめつひめじんじゃ)は福岡県八女市にある神社である。神ノ窟の集落にある高さ2丈5尺(約7.6m)、幅10丈(約30m)、奥行き3丈(約9m)の大きな洞窟の下に鎮座している。
祭神は、八女津媛神。
祭神の八女津媛神は、景行天皇筑紫巡幸の頃、八女県一帯あがたいったいを治める女神であったとされ、養老3年(719)3月に創建された。天正10年(1582)に栗原式部少輔源朝臣親直により再興。古くは水源地として重要視され、中世には修験道の行場でもあったと伝えられている。
『日本書紀』によると、景行天皇が熊襲征伐の帰りにあの山に神が有らせられるか尋ねたところ、水沼の県主である猿大海が、「この地方に女神あり。その名を八女津媛といい、常に山中におる」と答えたとあり、これが八女の名の起こりだとされる。
『日本書記』の11年後の天平3年(731)にまとめられた『住吉大社神代記』には、『日本書記』と同様の記述がみられるが、皇后が自ら祭主となり、八大夫(やおとこ)・八美女(やおとめ)を以て奉斎したと伝わっている。
5年に1回、11月15日の例祭で奉納される浮立とは、秋の恵みに感謝して行われ、依代を飾る大太鼓を打ち、小太鼓、鉦などを打ちながら舞う楽浮立である。県無形文化財。
その始まりは不詳だが、平安時代に起源を遡ることができるのではないかとされている。古くより春に豊年を祈る予祝(よしゅく、願立)の行事があり、秋になるとその願立が成就じした御礼・感謝として浮立を奉納してきたと考えられている。八女津媛神社の浮立は、大太鼓を打つことを中心として多人数の囃子が加わる。
浮立の中心となる真法師は、僧の法衣を着て頭巾を被り、五色の布をつけた雨傘と「天下泰平、国家安全」と書かれた唐団扇とううちわを持ち、
「東西、東西、御鎮り侯へ。御鎮お鎮り侯へ。茲許に罷り出でましたる者は、江州比叡山の麓に住居をなす真法師にて侯そうろう。(以下略)」
と口上を述べ、唐団扇とううちわを振りながら浮立を取り仕切りる。赭熊を冠る大太鼓の上には座蒲団が置かれ、2本交差して立てた御弊が依代よりしろとされている。小太鼓も赭熊を冠る。小太鼓2人、鉦打2人、鉦を持つ2人が、太鼓を打ち、鉦を叩いて舞い踊る。真法師、鉦打の服装が僧形をしている点から、修験道の山伏が関わっていた祭祀と考えられている。囃子方として村内すべての人が祭に参加するのは、他に見られないものである。
社殿向かって右手の神ノ窟の岩肌から滴る媛しずくは、八女津媛が顔を洗った石清水と伝えられている。美容や美白に良い「美人の水」と言われ、写真に撮ると願いが叶うとされている。
神ノ窟は、天照大神が素戔男尊の粗暴ないたずらに怒って引き籠った天岩屋であるとも伝えられ、日向神ダムの北壁の天戸岩が天手力男命が開け放った岩の扉であるとされている。また、豊玉姫命が出産に際し、八尋大鰐と化しているのを彦火々出見尊(山幸彦)に覗れたのを恥じて、海へ帰った穴との伝説も残されている。
赭熊とは、動物の毛を束ねて作った白い毛の飾りのことで、神事の際には「神が宿るものとして、これを被ることもある」とのことである(Google検索のAIより)。
八女津媛神と「神ノ窟」の関連性が不明。浮立が奉納された経緯と八女津媛神との関連も不明。というやや不思議な神社である。ともかく、神社の伝承を見るに、八女津媛神とは「山の女神」でかつ「水神女神」とされていて、塗山氏女のような「吊された女神」を連想させる。
景行天皇には、その実在性はともかくとして、九州征討の伝承があり、それに結びつけた由緒といえる。記紀等の記録の通りにみれば、九州征討は即位12年とされている。皇后を伴っていたというのであれば、八女津媛神社で祭祀を行ったのは播磨稲日大郎姫ということになる。ただし、播磨稲日大郎姫が亡くなった後に、景行天皇は八坂入媛命という女性を新たな皇后として迎えた、とされており、「八」という数字にこだわるならば、祭祀を行ったのは八坂入媛命であり、地元の女神を祀った、というよりは「勝利の女神」として八坂入媛命そのものを祀ったのが、八女津媛なのだとも考えられるように思う。彼女が八大夫(やおとこ)・八美女(やおとめ)という制度を定め、有事に際して戦う組織体制を定めた、ということなのではないだろうか。この場合、八女津媛は軍神的な女神でもあり、天照大御神になぞらえられるような「太陽女神」的な性質も有していて、天照大御神も同然と考えられていたのではないだろうか。だから、「神ノ窟」にこもったのとされるのは、八女津媛でもあり、天照大御神でもある女神だったのだと考える。
そもそも景行天皇が「最初の妻が死に、次の妻が生き残る」という青ひげ的パターンと、「最初の妻(姉)の親を殺した上に、その罪を妻になすりつける。残りの妻(妹)は一応生き残る」という親殺しの逢蒙的パターンの2つの伝承を持つ人物なので、個人的には「実在の人物」とは考えにくく、モデルはどうみてもチャンヤンなので、「子孫はちゃんと親殺しのことも、最初の妻を水に投げ込んで殺したことも覚えていたんだな」という感の強い存在である。
なので、八女津媛神とは、殺されて山の女神兼水神にされてしまった最初の皇后・播磨稲日大郎姫(吊された女神)と生き残った皇后八坂入媛命(養母としての女神)を合成した女神で、どちらも太陽女神だったのだと考える。彼女たちの起源は「太陽女神」であって天照大御神も太陽女神(養母としての女神)なので、天照大御神と2人の皇后はほぼ同一視されて、習合・合成され、いったん纏まった伝承が作られた後、またバラバラに話が分解され、必要に応じて改変されたりして、さまざまな伝承が残されたものと考える。おそらく、八女津媛神あるいは八坂入媛命が「その霊力で景行天皇の勝利に貢献した」とされるような、女性が活躍して勝利を得た、と受け取れるような内容が外されてしまったのではないかと想像する。
そして、最終的に修験道が盛んな時代に、延暦寺系の行者達の手によって「天照大御神とは『死んだ太陽女神(八女津媛神)も同然である』。天皇の勝利に役立つような女神ではない。」という感じに話の内容が強化されたかもしれないと思う。そして、神社の「八」系の伝承を最初に作った人達は賀茂系ではないかと思う。個人的には「赭熊(赤という名の白い毛)」は、太陽神を現しており、男性形だと思うので、景行天皇のことを指しても良いのかな、という気はする。浮立の元は景行天皇が熊襲からめとった妃・市乾鹿文を殺して厄払いした場面を再現した祭祀かもしれない。また「熊」と名がつく点は、熊女から生まれた檀君、あるいは中国神話の禹を思わせると感じる。
田島神社(たしまじんじゃ)は、佐賀県唐津市呼子町(旧肥前国松浦郡呼子)の加部島にある神社{{sfn|牧川|1902|p=113}}。地域は魏志倭人伝の中で倭国本土の最初の地として登場する末ら国|末盧国にあたる。大陸への最も安全な渡海ルートの要所であり、上代以来中央政府の重用を受けてきた。古代においては「田島坐神社(たじまにゐますかみのやしろ)」として記録されている。<ref name="岩田書院" />肥前国唯一の名神大社で、肥前国一之宮と見られた時代もあった。明治時代の改新による近代社格制度|旧社格は国幣中社。現在は神社本庁の別表神社。社紋は「桜紋」。大きく分けて4種類の桜紋が境内にあるが、現在は向桜紋が御朱印に使われている。山上憶良が歌に詠んだ松浦佐用姫ゆかりの神社。<ref name=":0" />宗像大社の元宮(ルーツ)ともいわれる<ref name="田島神の創祀と宗像神との関係について" />。
==祭神== 祭神は次の5柱。主祭神の3柱は宗像大社祭神の宗像三女神に同じ姫神。宇佐神宮や久留米周辺、天山、背振山にも祀られるなど、有史以前からの北部九州土着の神とされる<ref name="田島神の創祀と宗像神との関係について" />。田島神社では「田島三神」と総称し、中でも田心姫尊を主神としている。 ; 主祭神
==歴史== === 創建 === 創建は不詳。一説には弥生時代後期とされている。<ref name="田島神の創祀と宗像神との関係について">『田島神の創祀と宗像神との関係について』 江永次男 昭和62年</ref>鎮座地の加部島はかつては「姫神の鎮座まします島」として「姫島」・「姫神島」と呼ばれていた。
天平3年(731年)に相殿に稚武王を配祀し、天平10年(738年)に聖武天皇より大伴古麻呂に詔命があり「田島大明神」の神号を伝えに来たとされる。<ref name=":0">{{Cite book|和書|title=松浦古事記|publisher=|others=寛政元年と思われる}}</ref> この天平3年を創始とする古書もある。
稚武王配祀と上松浦明神
稚武王(仲哀天皇の弟)の配祀については、神功皇后の三韓征伐より凱旋の折、「懇ろに奉斎されよ」と当社に駐留・警護を命じられたという逸話による。天平10年、大伴古麻呂が使いとしてきているが、同じく平戸島|平戸に駐留を命じられたとする弟の十城別王を祀る志々伎神社も天平10年(738年)に「松浦明神」と崇められたとしている。<ref>{{Cite book|和書|title=肥前歴史叢書8 式内社 明神社 志々伎神社|date=1986-05-08|year=1986|publisher=芸文堂}}</ref>稚武王の「田島大明神」と十城別王の「松浦明神」は遣唐使廃止後の延喜式神名帳|延喜式神明帳(927年)の中では「上松浦明神」と「下松浦明神」となっている。天平10年は使者の大伴古麻呂が兵部省|兵部大丞(現在で例えると国防省3番目の地位)になった年でもあり、国防の拠点としての役割を求められていたものとも考えられる。
現在、田島神社より2㎞ほど離れた杉ノ原牧場(壱岐が目視でき、海原を見渡す広い視野が確保された場所)にある瓢塚古墳(佐賀県指定史跡)は内部が朱に塗られていたとのことから稚武王の墳墓とも言われている。<ref>{{Cite book|和書|title=西日本民俗文化考説|year=1988|publisher=九州大学出版会}}</ref>
=== 概史 === 『新抄格勅符抄』大同 (日本)|大同元年(806年)牒によると、当時の「田島神(田嶋神)」には神戸 (民戸)|神戸として16戸が肥前国から充てられていた。
(「戸」とは戸籍作成上の最小集落単位のことで現代の感覚でいう1戸(軒)のことではなく「字」または「小字」にあたる。16戸ということは島内に限らず周辺地域一帯と見ることができる。この地域からの税収が神社の補修や催事の費用に充てられ、神官の俸給とすることは禁止されていた。)
延長 (元号)|延長5年(927年)成立の『延喜式』延喜式神名帳|神名帳では肥前国松浦郡に「田島坐神社(田嶋坐神社) 名神大」と記載され、肥前国唯一の名神大社に列している。
明治維新後、1871年(明治4年)に近代社格制度において国幣中社に列した。戦後は神社本庁の別表神社に列している。
=== 神階===
六国史の神階を受けた時代は実質的に最後の遣唐使となった第19回遣唐使帰還の後、まだ遣唐使廃止が決定されていない時期である。<ref name="岩田書院" />久留米の高良大社、宗像の宗像大社の後を追いかけるように昇階していることから遣隋使・遣唐使運用上の連帯性が考えられる。<ref name="岩田書院" /><ref name="田島神の創祀と宗像神との関係について" />
=== 遣隋使・遣唐使 === 遣唐使の記録の中では、松浦の湊という漠然とした記載しか見うけられない。しかし、肥前國のみならず、福岡周辺の有力神社に比べても特別扱いとも言える神階の高さが見られること<ref name="岩田書院" />や朝廷の遣唐使の記録とリンクする社伝があることから、<ref name=":0" />単なる遣唐使の寄港地ではなく、朝廷に近い存在の宗像大社に協力する北部九州沿岸土着の神社代表としての役割を求められていたものと見て取れる。この地域は北ルート(呼子・壱岐・対馬ルート)に限らず、南ルート(五島より横断ルート)・南島ルートにおいても必ず通過する地点である。終始、土着の神社代表として遣隋使・遣唐使運航に積極的に関わり続けた結果が神階の特別扱いになったということが言える。<ref name="岩田書院">{{Cite book|和書|title=古代諸国神社神階制の研究|date=2002-08|year=2002|publisher=岩田書院|pages=391-395}}</ref>六国史上、最後の昇階となる884年の43年後、延喜式神名帳(927)の中で肥前国<ref>佐賀県と壱岐・対馬を除く長崎県</ref>唯一の名神大社としての崇敬を受けているのも同じ理由と考えられる。
== 摂末社 == ファイル:20210207021831(8)b.jpg|サムネイル|343x343ピクセル|佐與姫神社
この二社はどちらも地元特有の由緒を持つ神社である。境内には有名神社より勧請された分社や合祀社等は存在しない。しかし、島内には各地区に点在しており、田島神社の春祈祷の際に「区社参り」として祈祷に周る習わしがある。他に島内では各戸それぞれの庭の傍らに稲荷社を祀る家がとても多い。
== 祭事 == (太陽暦で記載)
=== 歳旦祭 === 1月1日 / 新暦1月1日(元日)に年始を祝う祭祀である。一年の安泰と国民の加護を祈念する。
=== 節分|節分祭 === 2月3日 /
=== 春祈祷 === 4月1日~3日 / 通常の神事以外にも「区社参り」と称して島内の各地区で奉斎している小さな神社を各地区の代表皆でお参りして周る。木ノ宮、塚様、平嶽神社、天童神社(稲荷)、庚申様、瓢塚古墳|瓢塚、ヤブソ様、天神様が区社参りの対象である。
=== 厄祓祈願祭 === 4月第2日曜日 / 厄年の年齢は、体力的、家庭環境的、或は対社会的にそれぞれ転機を迎える時でもあり、災厄が起こりやすい時期とされている。その年に当たっては、災厄を祓うの儀(厄除け)がおこなわれます。厄年の年齢は「数え年」で数え、男性が二十五歳・四十二歳・六十一歳、女性が十九歳・三十三歳・三十七歳などを言い、この年齢の前後を前厄・後厄と称します。
=== 大祓|夏越祭・大祓 === 7月最後の土曜日 / 夏越祭(夏越の大祓)は神社内での行事であるのが通例だが、現地の夏越祭は氏子が主催しお神輿で行列を組み民家近くの御旅所へ移動する。神様をお迎えして一晩膝を突き合わせて親しく過ごしつつ、夏越の祓を受けるという形になっている。(平成元年 平野良樹宮司談) お神輿を担いでの移動なので、参道の第二鳥居にかけられる茅の輪の大きさも最大級となっている。以前は7月最後の土曜日・日曜日、さらにその前は29日・30日に行われていた。
歴史 現在の氏子主催の御旅所への神幸がどの時代から始まったものかは不明。昭和40年代前半の図書には神輿を船に乗せて呼子などの近隣に神幸する様子が写真入りで紹介されている。<ref>{{Cite book|和書|title=ふるさとの民俗 佐賀の芸能・祭り|year=1967|publisher=佐賀県文化館|page=136-137}}</ref>御旅所は時代により変遷があるが、古くは呼子側の小浜港、現小浜公園の東側、坂の上に御旅所があった時代もある。(石組みが現存)
=== 例祭 === 9月16日 / 例祭はその神社にとって最も重要な日とされている。通常は創建の日とされていることが多いが、当社の場合は創建自体が不明で9月16日の理由その他は不明である。
=== 新嘗祭 === 11月23日 /
== 文化財 ==
=== 重要文化財(国指定) ===
=== 佐賀県指定文化財 ===
== その他 == ファイル:太閤祈念石.jpg|サムネイル|275x275ピクセル|太閤祈念石
== 出典 == ;脚注 {{脚注ヘルプ}} {{reflist|refs=
ref name=murao>{{citation|和書|last=村尾 |first=力太郎 |author-link=<!--村尾力太郎--> |title=「筑紫の野」と「筑肥の海」の懐古―日本・海外宗教交渉略史研究― |journal=早稲田商学<!--早稻田商學--> |publisher= |issue=205 |year=1968 |url=https://books.google.com/books?id=fOZCAQAAIAAJ&q=望夫石 |page=103<!--93–--> }}</ref> |2}}
;参照文献
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;関連図書
== 外部リンク ==