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日本列島における犬の詳細な起源は不明であるが、大陸より家畜化された犬を飼う習慣がもたらされたと考えられている。縄文時代早期からの遺跡から犬(縄文犬)が出土しており、その一部は埋葬された状態で発見されているが、多数例は散乱状態で出ており、家族の一員として飼われた犬と、そうでない犬がいたと考えられる<ref>松井, 2005, p184</ref>。縄文早期から中期には体高45センチメートル前後の中型犬、縄文後期には体高40センチメートル前後の小型犬に変化しており、これは日本列島で長く飼育されたことによる島嶼化現象と考えられている<ref>西本豊弘「イヌと日本人」西本豊弘編『人と動物の日本史1 動物の考古学』吉川弘文館、2008年</ref>。
なお、1990年代に縄文人と犬との関係の定説に再考を迫る発見があった。[[霞ヶ浦なお、1990年代に縄文人と犬との関係の定説に再考を迫る発見があった。霞ヶ浦沿岸の茨城県麻生町(現行方市)で発掘調査された縄文中期から後期の於下貝塚より、犬の各部位の骨が散乱した状態で出土した。犬の上腕骨1点に、解体痕の可能性が高い切痕が確認された。調査報告では、犬を食用として解体していた物的証拠と評価されており、日本列島]]沿岸の[[茨城県]][[麻生町]](現[[行方市]])で[[発掘調査]]された縄文中期から後期の[[於下貝塚]]より、犬の各部位の骨が散乱した状態で出土した。犬の上腕骨1点に、解体痕の可能性が高い切痕が確認された。調査報告では、犬を食用として解体していた物的証拠と評価されており、[[日本列島]]における犬食の起源がさらに遡る可能性が高いおける'''犬食'''の起源がさらに遡る可能性が高い<ref>[[袁靖]]「哺乳綱」、麻生町教育委員会編『於下貝塚 袁靖「哺乳綱」、麻生町教育委員会編『於下貝塚 発掘調査報告書』1992年、154〜183頁。</ref><ref>[[袁靖]]・[[加藤晋平]]「茨城県於下貝塚出土の小型動物の切痕(英文)」『千葉県立中央博物館研究報告 袁靖・加藤晋平「茨城県於下貝塚出土の小型動物の切痕(英文)」『千葉県立中央博物館研究報告 人文科学』2巻2号、1993年。</ref>。
[[弥生時代]]に犬の埋葬例は激減する{{Sfn|弥生時代に犬の埋葬例は激減する<ref>松井|, 2005|p=184}}, p184</ref>。また、墓に供えられた壺の中に、犬の骨の一部が入っていることがあり、犬が人間の墓の供え物になったことがわかる{{Sfn|<ref>松井|, 2005|p=186}}。[[長崎県]]の[[原の辻遺跡]]などでは、解体された痕のある犬の骨が発見され、食用に供されたことも窺える。遺跡からは縄文犬と形質の異なる犬も出土しており、大陸から連れてこられたと考えられる。, p186</ref>。長崎県の原の辻遺跡などでは、解体された痕のある犬の骨が発見され、食用に供されたことも窺える。遺跡からは縄文犬と形質の異なる犬も出土しており、大陸から連れてこられたと考えられる。
==== 古代 ====

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