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曹憲の弟子の一人である李善は、浩瀚な知識を生かして『文選』に詳細な注釈をつけ、658年(顕慶3年)、唐の高宗に献呈した。これが『文選』注として最も代表的な「'''李善注'''」である。李善注の特徴は、過去の典籍を引証することで、作品に用いられている言葉の出典とその語義を明らかにするという方法を用いていることにある。また李善が引用する書籍には現在では散佚しているものも多く、それらの書籍の実態を考証する際の貴重な資料にもなっている。
李善注の後の代表的な注釈としては、呂延済・劉良・張銑・[[呂向]]・李周翰の5人の学者が共同で執筆し、[[718年]]([[開元]]6年)、唐の[[玄宗 (唐)|玄宗]]に献呈された、いわゆる「李善注の後の代表的な注釈としては、呂延済・劉良・張銑・呂向・李周翰の5人の学者が共同で執筆し、718年(開元6年)、唐の玄宗に献呈された、いわゆる「'''五臣注'''」がある。五臣注の特徴は、李善注が引証に重きを置きすぎるあまり、時として語義の解釈がおろそかになる(「事を釈きて意を忘る」)ことに不満を持ち、字句の意味をほかの言葉で解釈する訓詁の方法を採用したことにある。そのため注釈として李善注とは異なる価値があるが、全体的に杜撰な解釈や誤りが多く、後世の評価では李善注に及ばないというのが一般的である。
宋代に入り[[木版印刷]]技術が普及すると、李善注と五臣注を合刻して出版した「宋代に入り木版印刷技術が普及すると、李善注と五臣注を合刻して出版した「'''六臣注'''」(「六家注」)が通行し<ref>六臣注は李善・五臣の順で、六家注は五臣・李善の順で注が並べられたものを指す。</ref>、元来の李善・五臣の単注本は廃れることとなった。現行の李善単注本は、[[南宋]]の[[尤袤]]が六臣注から李善注の部分を抜き出し(異説あり)、[[1181年]]([[淳熙]]8年)に刊行したものの系統であるとされる。これを[[清]]の胡克家が、諸本を比較して校勘を加えた上、[[嘉慶 (清)|嘉慶]]年間に覆刻した。この「、元来の李善・五臣の単注本は廃れることとなった。現行の李善単注本は、南宋の尤袤が六臣注から李善注の部分を抜き出し(異説あり)、1181年(淳熙8年)に刊行したものの系統であるとされる。これを清の胡克家が、諸本を比較して校勘を加えた上、嘉慶年間に覆刻した。この「'''胡刻本'''」が、今日最も標準的なテキストとして通行している。
このほか重要なものとして、日本に写本として伝わる『文選集注』(120巻、存23巻)がある。これは李善・五臣の注釈のほか、これらの注釈が通行することによって散佚した唐代の注釈が保存されており、『文選』研究にとって不可欠の資料となっている。
== 収録する主な作品 ==
太子の書いた『文選』の序文には、作品の収録基準を「事は沈思より出で、義は翰藻に帰す」とし、深い思考から出てきた内容を、すぐれた修辞で表現したと見なされた作品を収録したとある。また収録する分野についても、[[四部分類]]でいうところの経部・子部・史部太子の書いた『文選』の序文には、作品の収録基準を「事は沈思より出で、義は翰藻に帰す」とし、深い思考から出てきた内容を、すぐれた修辞で表現したと見なされた作品を収録したとある。また収録する分野についても、四部分類でいうところの経部・子部・史部<ref>ただし歴史評論の類(論・讃・序・述)は例外とする。</ref>を除く、集部に相当する文学作品をもっぱら選録の対象としている点で、文学の価値を明確に意識した総集となっている。下記の括弧内の数字は李善注60巻のうちの収録巻数である。
{{Wikisourcelang|zh|昭明文选|文選}}昭明文选、文選
*[[屈原]]「[[離騒]]」(32)
*[[宋玉]]「高唐賦」(19)「神女賦」(19)

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