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ともかく、大国主命の「死と復活」は、「大国主命の死」と「大国主命・[[須佐之男命]]が一体化した復活」と組み合わされており、復活した大国主命であるところの大物主命は[[須佐之男命]]も同然の「祟り神」とされている。これが中世になって民間伝承化すると「'''良い人が非業の死を遂げて祟り神になる'''」という話に縮められてしまい、老若男女を問わず「誰でも死んだら祟り神」化する傾向になってくる。元の話が「イエス・キリストの復活と再生」だったとしても、伝承は何だか一見して聖書の内容とは似ていない感じになってくる。
なぜ、大国主命がイエスを投影したものだとして、死んで再生したら[[須佐之男命]]になってしまうのかというと、その原因はローマ神話にあるように思う。ローマの重要な「父なる神」とは[[サートゥルヌス]]のことであって、この神は農耕神でもあり時間の神ともされているが、植物が育って枯死し実(赤ん坊)をつけて、それがまた発芽し成長する、というサイクルを繰り返すのになぞらえて、1年のうちに「発生(出生)、成長、老化、若返り(種)」を繰り返す神と考えられていたのではないかと思う。植物の「種」は正確には動物でいえば「子供」のことであって、この神は農耕神でもあり時間の神ともされているが、植物が育って枯死し実(赤ん坊)をつけて、それがまた発芽し成長する、というサイクルを繰り返すのになぞらえて、1年のうちに「発生(出生)、成長、老化、若返り(種)」を繰り返す神と考えられていたのではないかと思う。植物の「種」は正確には動物でいえば親の植物の「子供」に相当し、親の植物がそのまま若返るのではないのだが、古代の人にはそれが分からず、同じ植物が「死と再生」を繰り返しているように思えたのだろう。[[サートゥルヌス]]が農耕神であり、植物神でもあるなら彼もまた植物のように「死と再生」を繰り返す神と考えられたのだろう。そしてそのために生贄が必要と考えられたのではないだろうか。そして[[サートゥルヌス]]が「万物の父」であるならば、年末に動物とはいえ、生贄を捧げられて「老い」から若返る[[サートゥルヌス]]は、動物という「我が子」を食らって若返る神でもあったといえる。その性質は天界では嫌われて[[サートゥルヌス]]は地上に追放されたが、地上ではその性質なくして農耕の豊穣は得られない、と考えられたのだろう。 この[[サートゥルヌス]]には「既存の秩序を破壊する」という性質があり、彼の像は1年の大部分は鎖でつながれたままだった。年末の[[サートゥルナーリア]]の間だけその像は解き放たれ「時間と共に年をとる」という秩序を破壊して若返る、とされたのだろう。ということは通常の[[サートゥルヌス]]は、好き勝手にさせておくと「秩序を破壊する祟り神」でもあった。だから、彼が暴れないように工夫をこらす必要があったし、その破壊性がローマの強さの秘訣と考えられたのかもしれない。古代ローマは農耕で成り立っていた国家ではなく、食料の生産などは植民地に頼るところが多かった。[[サートゥルヌス]]はローマ法の神でもあり、ローマの植民地政策は「君臨すれども統治せず」という建前はあったが、当然ローマの意向に沿った者が統治を行っただろうし、植民地の慣習法よりもローマ法の優先を主張されて植民地の住民が不利に扱われることもあっただろう。[[サートゥルヌス]]は'''植民地の法や身分秩序を破壊し、ローマ法を優位に立たせる神'''でもあったことと思う。古代ローマにとって「農耕の豊穣の神」とは「植民地を優位に支配して、その上がりをローマに独占させる神」でもあったし、そのために植民地の元からの秩序を破壊する神でもあったと考える。[[サートゥルヌス]]が「我が子」として可愛がったのは'''ローマ市民だけ'''であり、それ以外の人々は神話の神々のごとく「'''食い散らかして自ら利用するだけの我が子'''」だったのではないだろうか。イエスはローマ人ではないので、当然ローマ人の感覚からいえば、[[サートゥルヌス]]の餌になるだけの「'''子'''」なのである。 だから、キリスト教の到来時に「父と子は同じもの」と言ったら、ローマ人にとっては「破壊神の[[サートゥルヌス]]と子(イエス)である餌は同じもの」だと、そのような解釈がされたのだろう。イエスは[[サートゥルヌス]]の餌となって、[[サートゥルヌス]]と一体化する。だから、もしイエスが再臨して生き返ることがあれば、それは[[サートゥルヌス]]が若返って出現したのと同じことなのだ。[[サートゥルヌス]]はイエスを食べて若返るはずなのだから、神は餌を食べて'''餌の姿'''で人々の前に現れるのだ。 ローマにおける初期のキリスト教は下層階級に拡がり、暴力的で敵対者とみなすものに対し、非常に攻撃的だった。それはキリストが[[サートゥルヌス]]であったとみなされたので、その「秩序を破壊する能力」で既存の権力を破壊し、貧しい人々が貧困から抜けだそう、という思想だったのではないだろうか。現代的には良く言えば「革命」、悪く言えば「テロリズム」である。 そもそもキリスト教が発生した古代ユダヤ社会にも、一神教の神を[[サートゥルヌス]]のような破壊性の高い神と考えて、その暴力的な能力でローマからの支配を逃れようと考える人々がいたのではないか。イエスの弟子達の中にも「熱心党」と言われる過激な人々がいた。パウロもキリスト教に改宗するまでは、暴力的な弾圧を厭わない人物だった。彼らには共通して「暴力で世界を変えよう」という思いがあり、彼らの「神」はそのような神で、宗教的な思想と政治的な思想が、表裏一体のものとして存在していたのだろう。イエスが「弟子に裏切られた」とは良く聞く話だが、そのように敵対者とみなした者を犯罪者に仕立てあげたり、親しくするふりをして死に追いやることも「破壊神の性質」として肯定されていたのではないだろうか。 だから、この暴力的な思想を持った人々が、自らを「熱心党」と呼ぼうが「キリスト教徒」と呼ぼうが「パリサイ人」と呼ぼうが、ともかく「ユダヤの神はローマの[[サートゥルヌス]]と同様のもの」と考えていさえすれば、その名称や呼称はどうでも良かった、ともいえる。そう考える人達がある程度いたために、結局ユダヤ・ローマ戦争が起き、エルサレム陥落とユダヤ人のエルサレム追放が起きてしまうのである。 一方、キリスト教の方は、イエスの死後ユダヤ世界を放れ、各地に布教を繰り返すようになる。ローマでは初期には下級階層に広まるが、結局貴族階級にも浸透していく。秩序を無視して、暴力で権力や財力を得ることを肯定してくれる神ならば、貴族階級にとってもありがたい神である。頂点には一人しか立てないのであれば、目上の者に対する不満はほとんどの貴族達の内心にもあって当然であり、神はその不満を暴力で解決して構わない、と言ってくれるのだから。そして、頂点に立つ者にとっては、神は外国や部下達との約束を破ってもかまわない神、となる。それを押し通すために暴力も肯定されるのであれば、強力な軍隊を持つ権力者にとって、これほどありがたい神はあるまい。かくして、キリスト教はローマの上流階級から「都合の良い宗教」という認定を受け、国教にまで上り詰める。教会の上層部も貴族の子弟がつくようになり、庶民には「イエスに倣え。そうすれば神の国へ行ける。(神と一体化できる。)」と言うようになる。「イエスに倣え」とは、要は「[[サートゥルヌス]]の餌用の'''子'''になって、[[サートゥルヌス]]と一体化しろ。」ということなのではないだろうか。そうしたら「神の法」の元で良い思いをしている上流階級の人々だけは「神に可愛がられている子」として君臨できるからである。 八丁島天満宮の伝承にはないが、日本の伝承には「旅人」を人身御供や人柱にする話は良く出てくる。この「旅人」とは「よそ者」のことを指すと考える。ローマ人にとって、ユダヤ人であるイエスは「よそ者」である。自らの「父なる神」である[[サートゥルヌス]]に食べさせるには格好の餌なのではないだろうか。共同体の問題である堤防工事や神を慰撫する祭祀に「よそ者」を利用して用いろ、というのが「原始ローマ教」の教えだったのではないかと推察される。 また、八丁島天満宮の伝承には、理由も定かでないが、幼い子供を人身御供に求めるものがある。諏訪大社の御頭祭では若い少年が「神使」に選ばれる。 === まとめ ===どのようないきさつで3つの人身御供の話が、一つに纏められた祭祀になったのかは不明だが、興味深くはある。北九州は朝鮮半島に近いので、朝鮮のものと類似した民間伝承が見られる傾向があると感じる。
== 参考文献 ==

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