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46 バイト除去 、 2025年2月5日 (水)
説話のうちでは「総(ふさ)」を麻の古語とするが、現在までの研究では「総」の字に麻の意味はないとされている<ref>千葉県の歴史 通史編 古代2, 2001年, p51-54</ref><ref name="地名事典"/><ref>千葉県の歴史(山川), 2012年, p33-35</ref><ref name="ふさの国">[https://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/sonohoka/kyoudo/kendo.html 「ふさの国」と豊かな県土](千葉県ホームページ)。</ref>。そのため、「麻を束ねたもの」から「総」が連想されたとする説や<ref>千葉県の歴史(山川), 2012年, p33-35</ref>、麻とは関係なく河川氾濫の土砂流による「ふさ(塞)」が原義で、これに「総」があてられたとする説が挙げられている<ref name="地名事典">吉田茂樹 「ふさ(総)」『日本古代地名事典 コンパクト版』 新人物往来社、2001年。</ref>。これらに対して、藤原京から出土した木簡のうちに「己亥年十月上捄国阿波評松里」として「総」の代わりに同訓の「捄(ふさ)」の表記が見え<ref group="注">「上捄国」はかつて「上挟国」と解読されていたが、『千葉県の歴史』で「上捄国」と解読し直されている(千葉県の歴史 通史編 古代2, 2001年, p51)。</ref>、『古語拾遺』の説話を簡単には信じられないながらも<ref>千葉県の歴史 通史編 古代2, 2001年, p51-54</ref>「房をなして実る物」という「捄」の意味は麻の実にも該当することから、大宝4年(704年)<ref group="原">『続日本紀』慶雲元年(704年)4月甲子(9日)条<!--慶雲への改元は5月10日であるが『続日本紀』のうえでは慶雲元年条-->。</ref>の国印頒布による表記統一以前に房総地域が実際には「捄」と称された可能性が指摘される<ref>千葉県の歴史 通史編 古代2, 2001年, p51-54</ref><ref name="ふさの国"/>。なお房総地域の「上下」の分割は「前後」の分割よりも古く、『帝王編年記』において上総国の成立を安閑天皇元年(534年)<ref group="原">『帝王編年記』巻7 安閑天皇元年。</ref>とすることから6世紀中葉と推測する説や<ref>「総」『古代地名語源辞典』 楠原佑介他、東京堂出版、1981年。</ref>、それより下る天智天皇朝(668年-672年)頃と推測する説がある<ref>千葉県の歴史 通史編 古代2, 2001年, p51-54</ref>(以上の詳細は「総国」を参照)。
『古語拾遺』では安房に移住した阿波忌部が「安房忌部」となったように記されているが、古代史料では、[[安房郡|安房郡司]]や[[安房神社]]神職など在地関連人物で忌部氏の存在は知られず、むしろ安房地域に勢力を持ったのは[[大伴氏|膳大伴部]](かしわでのおおともべ、単に大伴部とも)であった{{Sfn|『古語拾遺』では安房に移住した阿波忌部が「安房忌部」となったように記されているが、古代史料では、安房郡司や安房神社神職など在地関連人物で忌部氏の存在は知られず、むしろ安房地域に勢力を持ったのは膳大伴部(かしわでのおおともべ、単に大伴部とも)であった<ref>千葉県の歴史 通史編 古代2|, 2001年|pp=604, p604-612}}{{Sfn|</ref><ref>千葉県の歴史(山川)|, 2012年|pp=33, p33-35}}。なお、この膳大伴部は、『[[高橋氏文]]』逸文</ref>。なお、この膳大伴部は、『高橋氏文』逸文<ref group="原">『本朝月令』6月朔日内膳司供忌火御飯事所引『高橋氏文』逸文({{Harvnb|安房坐神社(神道・神社史料集成)}}参照、『本朝月令』6月朔日内膳司供忌火御飯事所引『高橋氏文』逸文(安房坐神社(神道・神社史料集成)参照、[{{NDLDC|:1879469/56}} 『群書類従 第五輯』]<国立国会図書館デジタルコレクション>56-57コマ参照)。</ref>によれば膳氏(かしわでうじ、のち高橋氏)に統括されて天皇の食膳調達にあたったという部民氏族で、その人物名は国史<ref group="注">『日本文徳天皇実録』嘉祥3年(850年)6月己酉(3日)条に安房国国造の「伴直千福麻呂」、『続日本後紀』承和3年(836年)12月辛丑(7日)条に安房郡人の「伴直家主」が見える {{Harv|千葉県の歴史 『日本文徳天皇実録』嘉祥3年(850年)6月己酉(3日)条に安房国国造の「伴直千福麻呂」、『続日本後紀』承和3年(836年)12月辛丑(7日)条に安房郡人の「伴直家主」が見える(千葉県の歴史 通史編 古代2|, 2001年|p=606}}。, p606)。</ref>・『先代旧事本紀』<ref group="原">『先代旧事本紀』「[[国造本紀]]」阿波国造条。『先代旧事本紀』「国造本紀」阿波国造条。</ref>・平城京出土木簡に散見される{{Sfn|<ref>千葉県の歴史 通史編 古代2|, 2001年|pp=604, p604-612}}。また[[阿波国造]](安房国造)も同氏族の大伴直氏(伴直氏)であったことから、安房神社の祭祀および安房郡司はこの一族が務めた可能性が高いと考える説がある{{Sfn|</ref>。また阿波国造(安房国造)も同氏族の大伴直氏(伴直氏)であったことから、安房神社の祭祀および安房郡司はこの一族が務めた可能性が高いと考える説がある<ref>安房斎部(千葉大百科)|, 1982年}}</ref><ref name="安房国">「安房国」『日本歴史地名大系 12 千葉県の地名』 平凡社、1996年。</ref>{{Sfn|<ref>千葉県の歴史 通史編 古代2|, 2001年|pp=604, p604-612}}</ref>
『古語拾遺』自体が中臣氏との勢力争いの中で正統性と格差是正の目的で編纂されたものであるため{{Sfn|千葉県の歴史 通史編 古代2|2001年|pp=959-964}}、一説として安房への東遷説話の造作には東国(特に常総地方)の中臣氏勢力と対抗する目的があったと指摘される{{Sfn|忌部(国史)}}。また、数少ない安房関係人物として[[天平]]2年([[730年]])の「[[安房国義倉帳]]」に安房国司の目と見える忌部宿禰登理万里(忌部鳥麻呂か。中央から赴任した可能性が高い<ref name="安房国"/>{{Sfn|千葉県の歴史 通史編 古代2|2001年|pp=604-612}})の存在から関連づけたと推測する説や{{Sfn|千葉県の歴史 通史編 古代2|2001年|pp=604-612}}、安房神社の祭祀・神戸に忌部氏の関与を仮定すればこれに阿波忌部が結びつけられたと推測する説{{Sfn|安房斎部(千葉大百科)|1982年}}{{Sfn|千葉県の歴史(山川)|2012年|pp=33-35}}、そのほか古くから黒潮を通じて人々の交流があったことが説話成立の背景にあると見る説などがある<ref>「総論」『日本歴史地名大系 12 千葉県の地名』 平凡社、1996年。</ref><ref name="ふさの国"/>。

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