春瑜筆『日本書紀私見聞』(1426年)<ref>https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/bunkazai/da/daItemDetail?mngnum=730956&pageCur=5, 日本書紀私見聞(道祥自筆本)・日本書紀私見聞(春瑜自筆本), 守ろう!活かそう!三重の文化財, 三重県教育委員会, 2019-01-31</ref>には、山王の三男である「[[建御名方神|諏防大明神]]」は日本国を我が物にしようとして軍を起こすも[[天照大御神|天照大神]]に打ち負かされ、降参後に信乃(信濃)国に鎮座することを約束するというバリエーションが録されている<ref>宮地直一『諏訪史 第2巻 後編』信濃教育会諏訪部会、1937年、47頁。</ref><ref>『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1142341/19 日本書紀私見聞 春瑜本]』貴重図書複製会、1938年。</ref>。
長野県内各地にはタケミナカタの逃亡・諏訪入りにまつわる伝承のある場所がいくつか存在する長野県内各地には建御名方神の逃亡・諏訪入りにまつわる伝承のある場所がいくつか存在する<ref>宮地直一『諏訪史 第2巻 前編』信濃教育会諏訪部会、1931年、117-122頁。</ref>。[[下伊那郡]][[豊丘村]]に伝わる伝承によれば、タケミカヅチがようやくタケミナカタに追いついたところ、タケミナカタが降参し、タケミカヅチと和睦を結んだ。同村にある御手形神社には、終戦の印として両者の[[手形]]を彫り残したといわれる石がある。その後、タケミナカタが豊丘村から隣の[[大鹿村]]に移って、しばらくそこに滞在したという。下伊那郡豊丘村に伝わる伝承によれば、建御雷神がようやく建御名方神に追いついたところ、建御名方神が降参し、建御雷神と和睦を結んだ。同村にある御手形神社には、終戦の印として両者の手形を彫り残したといわれる石がある。その後、建御名方神が豊丘村から隣の大鹿村に移って、しばらくそこに滞在したという<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ja-mis.iijan.or.jp/gotominami/hometown/2016/11/post_140.php |website=, JAみなみ信州 |title=, 国護りと天孫降臨の神話ー御手形石ー |accessdate=, 2018-12-01}}</ref><ref>『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765237/30 南信伊那史料 巻之下]』佐野重直編、1901年、55頁。</ref>。このことから、大鹿村鹿塩梨原にある葦原神社はかつて「{{読み仮名|本|もと}}諏訪社」と呼ばれていた。また、[[塩尻市]]の[[小野神社・矢彦神社|小野神社]]や。このことから、大鹿村鹿塩梨原にある'''葦原神社'''はかつて「本(もと)諏訪社」と呼ばれていた。また、塩尻市の小野神社や<ref>宮地直一『諏訪史 第2巻 前編』信濃教育会諏訪部会、1931年、119頁。</ref><ref> 赤羽篤「小野神社」『日本の神々―神社と聖地〈9〉美濃・飛騨・信濃』谷川健一編、白水社、1987年、379-380頁。</ref>、[[上田市]]の[[生島足島神社]]、上田市の生島足島神社<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ikushimatarushima.jp/jinja/|website=, 生島足島神社公式ホームページ|title=, 生島足島神社について|accessdate=, 2018-12-02}}</ref>にもタケミナカタが諏訪に入る前に一時滞留したという伝承が語られている。[[北安曇郡]][[小谷村]]にある[[大宮諏訪神社]]も、タケミナカタの信濃入りの際の神跡と伝えられるにもタケミナカタが諏訪に入る前に一時滞留したという伝承が語られている。北安曇郡小谷村にある大宮諏訪神社も、タケミナカタの信濃入りの際の神跡と伝えられる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nagano-jinjacho.jp/shibu/02cyusin/01taihoku/oomiyasuwa.html|website=, 長野県神社庁|title=, 大宮諏訪神社|accessdate=, 2018-12-02}}</ref>。
徳島県[[名西郡]][[石井町]]にある[[多祁御奈刀弥神社]]にも「元諏訪」伝承がある。社伝によると、『古事記』に書かれている「州羽」は当社の事を指し、長野県にある諏訪大社はこの神社から[[宝亀]]10年(779年)に移遷されたものであるという。