これらを、船で運んだとあり、操船した者の名が記されている。
* 天津羽原(あまつはばら) 船長、[[跡部氏|跡部首]](あとべのおびと)らの祖 船長、跡部首(あとべのおびと)らの祖* 天麻良(あまつまら) 梶取、[[阿刀氏|阿刀造]](あとのみやつこ 梶取、阿刀造(あとのみやつこ)らの祖 * 天津真浦(あまつまうら) 船子、[[倭鍛師]](やまとのかぬち 船子、倭鍛師(やまとのかぬち)らの祖* 天津麻占(あまつまうら) 船子、[[笠縫]]らの祖 船子、笠縫らの祖 * 天津赤麻良(あまつあかまら) 船子、[[曽曽笠縫]](そそのかさぬい)らの祖 船子、曽曽笠縫(そそのかさぬい)らの祖* 天津赤星(あまつあかぼし) 船子、[[猪名部神社#猪名部氏について|為奈部]](いなべ)らの祖 船子、為奈部(いなべ)らの祖
== 神武天皇と饒速日命の関係 ==
『日本書紀』と『古事記』によると、神武天皇(イワレビコ)と饒速日命(ニギハヤヒ)の出会いのあらすじは次の通り。
:{{main|神武東征}}[[ファイル:磐船神社本殿.jpg|サムネイル| 磐船神社 本殿]]
[[神武天皇]](イワレビコ)は[[シオツチノオジ|塩土老翁]]から「東方に美しい土地があり、[[鳥之石楠船神|天磐船]]で先に降りたものがいる」と聞く。そして彼の地へ赴いて都を造ろうと、一族を引き連れ九州から[[瀬戸内海]]を経て東へ向かい、[[難波津|難波碕]](現代の大阪)へたどり着く。その後[[河内国]][[東大阪市|草香邑]]から[[生駒山]]を目指す。そこに土着の[[長髄彦]](ナガスネヒコ)が現れたため戦うが苦戦する。神武は「日(東)に向って敵を討つのは天の道に反す」として、[[熊野]]([[紀伊半島]]南端部)へ迂回して北上することにした。