伊福吉部臣徳足比売(いふくべ の おみ とこたりひめ)は、は文武天皇の時代の采女で、位階は従七位下で、和銅元年7月1日(708年7月22日))に病歿。その遺骨を収めた銅製の骨蔵器に刻まれた銘文・墓誌は、1774年(安永3年)、伊福部氏の根拠地と推定される現在の鳥取県岩美郡国府町で石櫃の中から発見されたもので、その蓋表面に放射状の16行の文字が刻まれており、奈良時代以前の金石文として現存する16個のうちの1つである。
このほかに、[[雄略天皇]]・[[安閑天皇]]の時の[[廬城部連枳莒喩]](いおべ このほかに、雄略天皇・安閑天皇の時の廬城部連枳莒喩(いおべ の むらじ きこゆ)がおり、[[459年]]に[[斎宮]]を犯したという息子に誤って手をかけたりきこゆ)がおり、459年に斎宮を犯したという息子に誤って手をかけたり<ref>『日本書紀』巻第十四、雄略天皇3年4月条</ref>、[[535年]]に娘が[[物部尾輿]]の[[瓔珞]](玉を重ねた首飾り)を盗んで、[[春日山田皇女|春日皇后]]に献上する'''535年に娘が物部尾輿の瓔珞(玉を重ねた首飾り)を盗んで、春日皇后に献上する'''<ref>『日本書紀』巻第十八、安閑天皇元年閏12月条</ref>といった不祥事を起こしている。
伊福部連一族は、伊福部連一族は、天武天皇の時、[[天武天皇]]の時、[[684年]]に[[八色の姓]]で、第3位の[[宿禰]][[カバネ|姓]]を授与されている84年に八色の姓で、第3位の宿禰姓を授与されている<ref>『日本書紀』巻第二十九、天武天皇13年12月2日条</ref>。宮城十二門の一つ殷富門(旧名伊福部門)は、大化以前から門衛に奉仕してきた伊福部氏が蘇我入鹿誅滅に参加した功を記念して名付けられたものである。
ほかの伊福部氏では、[[奈良時代]]の[[724年]]([[和銅]]7年)に、匠(たくみ=道路開発の技術者)である従六位上の伊福部君荒当(いほきべ の きみ あらまさ)が田を2町授与された、という記録も残されている。