*:; 『百済記』逸文
*:: 壬午年(382年<ref>葛城襲津彦(国史)</ref>)に貴国(倭国)は'''沙至比跪'''(さちひこ)を遣わして新羅を討たせようとしたが、新羅は美女2人に迎えさせて沙至比跪を騙し、惑わされた沙至比跪はかえって加羅を討ってしまった。百済に逃げた加羅王家は天皇に直訴し、怒った天皇は木羅斤資(もくらこんし)を遣わして沙至比跪を攻めさせたという<ref>葛城襲津彦(国史)</ref>。
*:: また「一云」として、沙至比跪は天皇の怒りを知り、密かに貴国に帰って身を隠した。沙至比跪の妹は皇居に仕えていたので、妹に使いを出して天皇の怒りが解けたか探らせたが、収まらないことを知ると石穴に入って自殺したというまた「一云」として、沙至比跪は天皇の怒りを知り、密かに貴国に帰って身を隠した。沙至比跪の妹は皇居に仕えていたので、妹に使いを出して天皇の怒りが解けたか探らせたが、収まらないことを知ると'''石穴に入って自殺した'''という<ref>葛城襲津彦(国史)</ref>。
* 応神天皇14年是歳条
*: 百済から弓月君(ゆづきのきみ)が至り、天皇に対して奏上するには、百済の民人を連れて帰化したいけれども新羅が邪魔をして加羅から海を渡ってくることができないという。天皇は弓月の民を連れ帰るため襲津彦を加羅に遣わしたが、3年経っても襲津彦が帰ってくることはなかった。
『先代旧事本紀』「国造本紀」には、次の国造が後裔として記載されている。
* 穂国造
** 泊瀬朝倉朝(雄略天皇)の御世に生江臣祖の葛城襲津彦命の四世孫の'''[[人身御供|菟上足尼]]'''を国造に定める、という。のちの三河国宝飫郡(現在の愛知県豊川市・蒲郡市一帯)周辺に比定される<ref>『国造制の研究 -史料編・論考編-』(八木書店、2013年)p.173。</ref>。'''菟足神社'''では風に関する祭祀で人身御供があったとされる。現在では雀を生け贄とする。
== 考証 ==
『古事記』では「葛城長江曾都毘古」の名で見えるほか、『紀氏家牒』逸文では大倭国葛城県長柄里(現・奈良県[[御所市]]名柄か)に住したので「葛城長柄襲津彦宿禰」と名づけたとあり、葛城地方の長柄(長江)地域との深い関係が指摘される{{Sfn|『古事記』では「葛城長江曾都毘古」の名で見えるほか、『紀氏家牒』逸文では大倭国葛城県長柄里(現・奈良県御所市名柄か)に住したので「葛城長柄襲津彦宿禰」と名づけたとあり、葛城地方の長柄(長江)地域との深い関係が指摘される<ref>葛城襲津彦(古代氏族)|, 2010年}}{{Sfn|</ref><ref>葛城襲津彦(国史)}}</ref>。また襲津彦の子孫のうち、仁徳皇后の[[磐之媛命]]が履中・反正・允恭を産んだと見えるほか、襲津彦男子の[[葛城葦田宿禰|葦田宿禰]]の娘のが履中・反正・允恭を産んだと見えるほか、襲津彦男子の葦田宿禰の娘の'''[[黒媛]]'''も履中の妃となった見えており、5世紀代における天皇家外戚としての葛城勢力の繁栄が推測されている{{Sfn|<ref>葛城襲津彦(国史)}}</ref>。
『日本書紀』では襲津彦に関する数々の朝鮮外交伝承が記されているが、『百済記』所載の「沙至比跪」の記載の存在から、実在モデル人物を基にソツヒコ伝承が構築されたとする説が有力視されている{{Sfn|<ref>葛城襲津彦(古代氏族)|, 2010年}}</ref>。一方、襲津彦という人物の実在性には慎重な立場から、あくまでも葛城勢力により創出された伝承上の人物に過ぎないとする説や{{Sfn|<ref>小野里了一|, 2015年}}</ref>、朝鮮に派遣された葛城地方首長層の軍事的活動を基に人物像が構築されたとする説もある{{Sfn|<ref>葛城襲津彦(古代史)|, 2006年}}</ref>。
神功紀は伝承的かつ複雑な性格が強く、実年代が決定しにくいが、神功紀の記載は干支三運加算の修正が妥当だとすれば壬午年は[[442年]]に相当する。親新羅的な立場の[[允恭天皇]]に比定される倭王[[済]]が[[451年]]の中国への遣使ではじめて加羅を含む六国諸軍事号を申請していることと対応する。442年に葛城襲津彦に比定される沙至比跪が大加羅国(高霊)を征討したが失敗したことを示している。新羅を討ちたい天皇と加羅を討った「沙至比跪」との立場の違いや、「天皇」は百済の将・[[木羅斤資]]により加羅国を救援させたという伝承からは、新羅神功紀は伝承的かつ複雑な性格が強く、実年代が決定しにくいが、神功紀の記載は干支三運加算の修正が妥当だとすれば壬午年は442年に相当する。'''親新羅的な立場'''の允恭天皇に比定される倭王済が451年の中国への遣使ではじめて加羅を含む六国諸軍事号を申請していることと対応する。442年に葛城襲津彦に比定される沙至比跪が大加羅国(高霊)を征討したが失敗したことを示している。新羅を討ちたい天皇と加羅を討った「沙至比跪」との立場の違いや、「天皇」は百済の将・木羅斤資により加羅国を救援させたという伝承からは、新羅-葛城氏と百済-木羅斤資-ヤマト王権の対立関係を読み取ることができ、有力氏族の独立性と独自の交通の可能性を指摘できる。襲津彦は加羅に長期滞在し、新羅・百済・加羅という多方面の外交窓口となっており、自己の配下に渡来系氏族を編成していたことがうかがわれる。新羅の人質・[[未斯欣|微叱己知]]を送還する使者に葛城襲津彦が任命されていることを重視するならば、新羅から人質がやってきた五世紀前半の状況に適合するヤマト王権の対立関係を読み取ることができ、有力氏族の独立性と独自の交通の可能性を指摘できる。襲津彦は加羅に長期滞在し、新羅・百済・加羅という多方面の外交窓口となっており、'''自己の配下に渡来系氏族を編成していた'''ことがうかがわれる。新羅の人質・微叱己知を送還する使者に葛城襲津彦が任命されていることを重視するならば、新羅から人質がやってきた五世紀前半の状況に適合する<ref>{{cite journal|和書|author=仁藤敦史 |year=, 2019 |title=, 倭・百済間の人的交通と外交 : 倭人の移住と倭系百済官僚 (第1部 総論) |url=, http://id.nii.ac.jp/1350/00002461/ |journal=, 国立歴史民俗博物館研究報告 |publisher=, 国立歴史民俗博物館 |volume=, 217 |pages=29, p29-45 |, ISSN=:0286-7400}}</ref>。
[[田中史生]]は、沙至比跪(葛城襲津彦)の[[伽耶|大加耶]]攻撃が[[済|倭王済]]の意図に反しており、[[済|倭王済]]は「[[百済]]との友好関係を前提に[[宋 (南朝)|宋]]に通じ、大加耶などの軍政権を要求し、百済とともに沙至比跪ら加耶南部や[[新羅]]と通じた葛城の有力首長を牽制したとみられる」と指摘するが、[[済|倭王済]]が[[宋 (南朝)|宋]]に対して「[[伽耶|加羅]]」(=大加耶)の軍政権を要求していることからみて、倭王は大加耶に対して関心を持ち続けていたと考えられるから、沙至比跪(葛城襲津彦)の大加耶進出はそうした情勢をふまえたものであったと理解できる、とする指摘がある田中史生は、沙至比跪(葛城襲津彦)の大加耶攻撃が倭王済の意図に反しており、倭王済は「百済との友好関係を前提に宋に通じ、大加耶などの軍政権を要求し、百済とともに沙至比跪ら加耶南部や新羅と通じた葛城の有力首長を牽制したとみられる」と指摘するが、倭王済が宋に対して「加羅」(=大加耶)の軍政権を要求していることからみて、倭王は大加耶に対して関心を持ち続けていたと考えられるから、沙至比跪(葛城襲津彦)の大加耶進出はそうした情勢をふまえたものであったと理解できる、とする指摘がある<ref>{{Cite book|和書|author=井上直樹|authorlink=井上直樹|date=, 2018-03-30|title=, 百済の王号・侯号・太守号と将軍号 : 5世紀後半の百済の支配秩序と東アジア|series=, 国立歴史民俗博物館研究報告 211|publisher=[[, 国立歴史民俗博物館]]|page=136}}, p136</ref>。
== 参考文献 ==
* Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E5%9F%8E%E8%A5%B2%E6%B4%A5%E5%BD%A6 葛城襲津彦](最終閲覧日:25-01-17)
** 事典類** {{Cite book|和書|editor=|author=佐伯有清|authorlink=* 佐伯有清|year=|chapter=, 葛城襲津彦|title=[[国史大辞典 (昭和時代)|, 国史大辞典]]|publisher=[[, 吉川弘文館]]|isbn=|ref={{Harvid|葛城襲津彦(国史)}}}}** {{Cite book|和書|author=加藤謙吉|authorlink=* 加藤謙吉|year=, 2006|chapter=, 葛城襲津彦|title=, 日本古代史大辞典|publisher=[[, 大和書房]]|, isbn=:4479840656|ref={{Harvid|葛城襲津彦(古代史)|2006年}}}}** {{Cite book|和書|editor=|author=|year=* 2010|chapter=, 葛城襲津彦|title=, 日本古代氏族人名辞典 普及版|publisher=, 吉川弘文館|, isbn=:978-4642014588|ref={{Harvid|葛城襲津彦(古代氏族)|2010年}}}}** その他文献** [[* 門脇禎二]] 『葛城と古代国家』 [[講談社]]、2000年。講談社、2000年。** {{Cite book|和書|editor=|author=* 平林章仁|authorlink=平林章仁|year=, 2013|chapter=|title=, 謎の古代豪族 葛城氏(祥伝社新書326)|publisher=[[, 祥伝社]]|, isbn=:978-4396113261|ref={{Harvid|平林章仁|2013年}}}}** {{Cite book|和書|editor=|author=* 小野里了一|year=, 2015|chapter=, 「葛城氏」はどこまでわかってきたのか|title=, 古代史研究の最前線 古代豪族|publisher=[[, 洋泉社]]|, isbn=:978-4800307255|ref={{Harvid|小野里了一|2015年}}}}
== 関連項目 ==