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*: 新羅王の人質の微叱旱岐(みしこち)が一時帰国したいというので、神功皇后は微叱旱岐に襲津彦をそえて新羅へと遣わしたが、対馬にて新羅王の使者に騙され微叱旱岐に逃げられてしまう。これに襲津彦は怒り、使者3人を焼き殺したうえで、蹈鞴津(たたらつ)に陣を敷いて草羅城(くさわらのさし)を落とし、捕虜を連れ帰った(桑原・佐糜・高宮・忍海の4邑の漢人らの始祖)。
* 神功皇后62年条<ref group="注釈">神功皇后62年は、書紀紀年で西暦262年、干支二運を繰り下げた訂正紀年で西暦382年にあたる(『新編日本古典文学全集 2 日本書紀 (1)』小学館、2002年(ジャパンナレッジ版))</ref>。
*: 新羅からの朝貢がなかったので、襲津彦が新羅討伐に派遣された。続いて『[[百済記]]』([[百済三書]]の1つ)を引用する(『百済記』に基づく一連の主文作成の際、襲津彦の不名誉のため作文を止めたものか新羅からの朝貢がなかったので、襲津彦が新羅討伐に派遣された。続いて『百済記』(百済三書の1つ)を引用する(『百済記』に基づく一連の主文作成の際、襲津彦の不名誉のため作文を止めたものか<ref>『新編日本古典文学全集 2 日本書紀 (1)』小学館、2002年(ジャパンナレッジ版)、p. 462。</ref>)。
*:; 『百済記』逸文
*:: 壬午年([[382年]]{{Sfn|壬午年(382年<ref>葛城襲津彦(国史)}}</ref>)に貴国(倭国)は'''沙至比跪'''(さちひこ)を遣わして新羅を討たせようとしたが、新羅は美女2人に迎えさせて沙至比跪を騙し、惑わされた沙至比跪はかえって[[伽耶|加羅]]を討ってしまった。[[百済]]に逃げた加羅王家は天皇に直訴し、怒った天皇は[[木羅斤資]](もくらこんし)を遣わして沙至比跪を攻めさせたという{{Sfn|(さちひこ)を遣わして新羅を討たせようとしたが、新羅は美女2人に迎えさせて沙至比跪を騙し、惑わされた沙至比跪はかえって加羅を討ってしまった。百済に逃げた加羅王家は天皇に直訴し、怒った天皇は木羅斤資(もくらこんし)を遣わして沙至比跪を攻めさせたという<ref>葛城襲津彦(国史)}}</ref>。*:: また「一云」として、沙至比跪は天皇の怒りを知り、密かに貴国に帰って身を隠した。沙至比跪の妹は皇居に仕えていたので、妹に使いを出して天皇の怒りが解けたか探らせたが、収まらないことを知ると石穴に入って自殺したという{{Sfn|<ref>葛城襲津彦(国史)}}</ref>。* [[応神天皇]]14年是歳条応神天皇14年是歳条*: 百済から[[弓月君]](ゆづきのきみ)が至り、天皇に対して奏上するには、百済の民人を連れて帰化したいけれども新羅が邪魔をして加羅から海を渡ってくることができないという。天皇は弓月の民を連れ帰るため襲津彦を加羅に遣わしたが、3年経っても襲津彦が帰ってくることはなかった。百済から弓月君(ゆづきのきみ)が至り、天皇に対して奏上するには、百済の民人を連れて帰化したいけれども新羅が邪魔をして加羅から海を渡ってくることができないという。天皇は弓月の民を連れ帰るため襲津彦を加羅に遣わしたが、3年経っても襲津彦が帰ってくることはなかった。
* 応神天皇16年8月条
*: 天皇は襲津彦が帰国しないのは新羅が妨げるせいだとし、[[平群木菟|平群木菟宿禰]](へぐりのつく)と[[的戸田宿禰]](いくはのとだ)に精兵を授けて加羅に派遣した。新羅王は愕然として罪に服し、弓月の民を率いて襲津彦と共に日本に来た。天皇は襲津彦が帰国しないのは新羅が妨げるせいだとし、平群木菟宿禰(へぐりのつく)と的戸田宿禰(いくはのとだ)に精兵を授けて加羅に派遣した。新羅王は愕然として罪に服し、弓月の民を率いて襲津彦と共に日本に来た。* [[仁徳天皇]]41年3月条仁徳天皇41年3月条*: 天皇は百済に[[紀角|紀角宿禰]](きのつの)を派遣したが、百済王族の[[酒君]]に無礼があったので紀角宿禰が叱責すると、百済王はかしこまり、鉄鎖で酒君を縛り襲津彦に従わせて日本に送ったという。天皇は百済に紀角宿禰(きのつの)を派遣したが、百済王族の酒君に無礼があったので紀角宿禰が叱責すると、百済王はかしこまり、鉄鎖で酒君を縛り襲津彦に従わせて日本に送ったという。
=== その他 ===
『[[古事記]]』では事績に関する記載はない。『古事記』では事績に関する記載はない。
『[[万葉集]]』では、襲津彦に関連する次の1首が見える(強弓の典型例として伝説的武将の襲津彦を引き合いに出した歌)『万葉集』では、襲津彦に関連する次の1首が見える('''強弓'''の典型例として伝説的武将の襲津彦を引き合いに出した歌)<ref>[http://infux03.inf.edu.yamaguchi-u.ac.jp/~manyou/ver2_2/manyou_kekka2.php?kekka=11/2639 11/2639](山口大学「万葉集検索システム」)。</ref><ref>『新編日本古典文学全集 8 萬葉集 (3)』小学館、2004年(ジャパンナレッジ版)、p. 236。</ref>。{{Cquote|<ref>'''葛城の 襲津彦'''真弓 荒木(新木)にも 頼めや君が 我が名告りけむ<br/>(かづらきの そつびこまゆみ あらきにも たのめやきみが わがなのりけむ)|20px||『[[万葉集]]』巻11 , 『万葉集』巻11 2639番(原文万葉仮名)}}</ref>内容は「葛城の襲津彦が使う新木の強弓のように、私を妻として頼りにしておいでなので、それで私の名を口に出されたのでしょう」という意味になり、恋人の名は2人の関係が公式に認められるまでは互いに口外しないという日本の古代社会の慣習の中で、男を確実に獲得した誇らしげな女の歌と解される<ref>{{Cite journal|和書|author=[[大久間喜一郎]] |title=, 仁徳天皇記の構想 |journal=, 明治大学教養論集 |, ISSN=:0389-6005 |publisher=, 明治大学教養論集刊行会 |year=, 2007 |month=mar |volume=, 418 |pages=83, p83-99 |, naid=:120001969947 |url=, https://hdl.handle.net/10291/8134}}</ref>。
また、「荒木」を[[奈良県]][[五條市]]の[[荒木神社]]のことであるとして、葛城襲津彦は荒木神社の付近を通って[[紀伊国]][[名草郡]]から朝鮮半島に渡っていたとする説も存在する{{要出典|date=2022年6月}}。
== 墓 ==
[[File:Muro Miya-yama Kofun zenkei-2.JPG|thumb|220px|right|{{center|[[室宮山古墳]]([[奈良県]][[御所市]])}}]]
墓の所在は不詳。奈良県南西部の葛城地方では、襲津彦と関連が推測される古墳として[[室宮山古墳]](室大墓、奈良県[[御所市]]室)がある。同古墳は、葛城地方最大(全国第18位<ref>[https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/dkofun/ranking/zenkoku.html 古墳大きさランキング(日本全国版)](堺市ホームページ、2018年5月13日更新版)。</ref>)規模の[[前方後円墳]]で、[[5世紀]]初頭頃の築造と推定される。出土品のうちでは、[[伽耶|加耶]](朝鮮半島南部)産の船形陶質土器が記紀の襲津彦伝承と対応するものとして注目される{{Sfn|平林章仁|2013年|pp=122-124}}。同古墳では[[武内宿禰]]の墓とする伝承も古くよりあったが、近年では築造時期から襲津彦の墓と推定する有力視されている<ref>「宮山古墳」『日本歴史地名体系 30 奈良県の地名』 [[平凡社]]、1981年。</ref>{{Sfn|平林章仁|2013年|pp=122-124}}。ただし、記紀における襲津彦の人物像のモデル人物は複数存在する可能性があるため、同古墳の被葬者と一対一に対応するものではない<ref>坂靖 「奈良盆地の遺跡が語る有力豪族の実像」『古代史研究の最前線 古代豪族』 洋泉社、2015年、p.206。</ref>。

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