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60 バイト除去 、 2024年12月31日 (火) 15:06
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江戸時代に園部藩藩主小出氏の崇敬を受けて復興し、元禄年中(17世紀末)には本殿の修理を始め覆屋や拝殿・楼門・石鳥居等の再建、造営といった社頭整備が藩費によって行われた。また、小出氏歴代の祈願所とされて藩主の直参や代参が行われ、胎金寺が別当寺と定められた(本寺は九品寺)。
宝暦11年(1762年)12月18日夕刻、近接していた胎金寺の庫裏からの失火が延焼し、社殿を含む境内一円がほぼ全焼、この時に古記録・宝物類も失われたという。社殿の再建は宝暦14年(1764年)から行われ、藩主小出英持の援助や氏子]の寄進により[[明和]]4年(1767年)7月に完成した(現本殿ほか)。の寄進により明和4年(1767年)7月に完成した(現本殿ほか)。
明治の神仏分離で別当胎金寺を廃し<ref>同寺の什物等は神社へ継承された。</ref>、同6年(1873年)に近代社格制度において郷社]に列した。その後、同43年(1910年)には神饌幣帛料供進社の指定を受け、大正5年(1916年)3月6日に府社に昇格した。
=== 神幸祭 ===
神幸祭は摩気郷十一ヶ村(11社)の祭りで、近世には例祭に併せて8月[[晦日]]から9月[[朔日]]にかけて行われていた。明治16年([[1883年]])以降は10月14・15の両日となったが、更に[[平成]]15年([[2003年]])からは神幸祭を10月の第3土・日曜日に行っている。かつては宮本のほか、9集落11社の氏子が参加したが、現在黒田、[[園部町横田|横田]]、大村、口八田の4集落は参加していない神幸祭は摩気郷十一ヶ村(11社)の祭りで、近世には例祭に併せて8月晦日から9月朔日にかけて行われていた。明治16年(1883年)以降は10月14・15の両日となったが、更に平成15年(2003年)からは神幸祭を10月の第3土・日曜日に行っている。かつては宮本のほか、9集落11社の氏子が参加したが、現在黒田、横田、大村、口八田の4集落は参加していない<ref>以下、本項に就いては特記するものを除き全て『図説・園部の歴史』第7章第3節第5項に依る。</ref>。
; 前日
; 1日目
当日早朝、宍人から正副2名の使が当神社へ差遣され、酒や[[枝豆]]を献供する祭典(宍人献饌の儀)が行われた後、改めて[[午前]]10時から祭典が斎行され、[[午後]]2時に[[神輿]]が船阪の[[御旅所]]へ進発して神幸祭が始まる。神輿は途中で仁江の[[稚児]]行列に迎えられて蛭子神社へと向かい、拝殿に安置されて宮主や仁江の宮衆(前節参照)による祭祀を受けた後に再び御旅所へ向かう。すると今度は船阪の稚児行列が途中でこれを迎える形で合流し、夕刻御旅所へ到着、神輿が御旅所に設けられた仮殿へ安置されて、仁江と船阪から新穀を収めた[[俵]]の奉納を受ける。なお稚児については、仁江は女形、船阪は男形とされ、それぞれ女性あるいは男性の装束を着する定めとなっている。当日早朝、宍人から正副2名の使が当神社へ差遣され、酒や枝豆を献供する祭典(宍人献饌の儀)が行われた後、改めて午前10時から祭典が斎行され、午後2時に神輿が船阪の御旅所へ進発して神幸祭が始まる。神輿は途中で仁江の'''稚児行列'''に迎えられて蛭子神社へと向かい、拝殿に安置されて宮主や仁江の宮衆(前節参照)による祭祀を受けた後に再び御旅所へ向かう。すると今度は船阪の稚児行列が途中でこれを迎える形で合流し、夕刻御旅所へ到着、神輿が御旅所に設けられた仮殿へ安置されて、仁江と船阪から新穀を収めた'''俵の奉納'''を受ける。なお稚児については、仁江は女形、船阪は男形とされ、それぞれ女性あるいは男性の装束を着する定めとなっている。
昭和7年([[1932年]])頃までは[[園部町横田|横田]]の若宮神社から同様の神輿渡御があり、船阪の者はこれを迎えて御旅所まで随行、御旅所では摩氣、若宮両神社の神輿が並べられて同宿したという。

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