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お田植祭は当神社祭神の性格を表す竹井集落の[[五穀]]の豊穣を予祝する神事で<ref name="図説7-2-1" />、近世には5月5日(端午の節句)に行われたが、改暦によって6月5日となり、現在は6月5日に近い日曜日に行われている。
先ず[[神饌]]とともに[[粽]]を供えて[[祝詞]]を奏上し、その後拝殿に据えられた[[太鼓]]を取り囲む形で[[藍染め]]の[[木綿]]の[[絣]]を着した[[早乙女]]が輪になり、太鼓の拍子と歌に合わせて「お田植え踊り」を踊る。先ず神饌とともに粽を供えて祝詞を奏上し、その後拝殿に据えられた太鼓を取り囲む形で藍染めの木綿の絣を着した早乙女が輪になり、太鼓の拍子と歌に合わせて「お田植え踊り」を踊る。
次いで宮主(前節参照)が、先端に家形の板を付けてそれに[[鳴子 (楽器)|鳴子]]を吊した[[竹竿]]を[[鍬]]に見立てて手に執り、本殿の階段(5段)を田に見立てて[[代掻き]]の所作を行う。その後、2名の早乙女が神供の粽を宮司から25本宛手渡され、各々が田に見立てた階段1段毎に5本宛植える所作をする(粽は苗に見立てられている)。次いで宮主(前節参照)が、先端に家形の板を付けてそれに鳴子を吊した竹竿を鍬に見立てて手に執り、本殿の階段(5段)を田に見立てて代掻きの所作を行う。その後、'''2名の早乙女'''が神供の粽を宮司から25本宛手渡され、各々が田に見立てた階段1段毎に5本宛植える所作をする(粽は苗に見立てられている)。
次に「お田植え踊り」が繰り返され、終わると早乙女は植えた粽を集めて再度宮司へ渡し、参拝者が[[玉串]]を奉奠して神事を終える。次に「お田植え踊り」が繰り返され、終わると'''早乙女は植えた粽を集めて再度宮司へ渡し'''、参拝者が玉串を奉奠して神事を終える。
古くは[[巫女]]による[[神楽]]が奉奏されていたとも伝えるが不詳。現在の「お田植え踊り」は[[昭和]]9年([[1934年]])に当時の宮司が創出したもので古くは巫女による神楽が奉奏されていたとも伝えるが不詳。現在の「お田植え踊り」は昭和9年(1934年)に当時の宮司が創出したもので<ref>[http://www.bunkashisan.ne.jp/search/ViewContent.php?from=14&ContentID=135 地域文化資産ポータル、「摩気神社のお田植祭」](平成22年10月26日閲覧)。なお、「お田植え踊り」は昭和3年の[[昭和天皇]]の[[大嘗祭]]に際し、[[滋賀県]]の[[(平成22年10月26日閲覧)。なお、「お田植え踊り」は昭和3年の昭和天皇の大嘗祭に際し、滋賀県の'''御上神社]]'''近辺が悠紀田と定められた際に行われたお田植え式を参考にして唄を作詞し、それに振り付けを施したものという。</ref>、新規に属するが、その他はよく古態を残している。なお、「お田植え踊り」には氏子中の婦人が組織だって多数参加したものであったが、その組織も[[戦後]]に解散され、昭和50年([[1975年]])頃からは婦人の参加自体が減少したため、昭和58年8月に伝統を維持継承するための敬神婦人会を結成、それ以後同会を中心に10名から15名が「お田植え踊り」に参加している、新規に属するが、その他はよく古態を残している。なお、「お田植え踊り」には氏子中の婦人が組織だって多数参加したものであったが、その組織も戦後に解散され、昭和50年(1975年)頃からは婦人の参加自体が減少したため、昭和58年8月に伝統を維持継承するための敬神婦人会を結成、それ以後同会を中心に10名から15名が「お田植え踊り」に参加している<ref name="図説7-2-1" />。
=== 神幸祭 ===

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