山口県岩国市にある橋。
周防の国(山口県の東部)岩国に、錦川という大きな川が流れている。この錦川にかけられた錦帯橋は、日本三大奇橋(めずらしい橋)のひとつに数えられている。
今からおよそ三百五十年前、岩国の初代殿さまとなった吉川広家(きっかわひろいえ)は自分の住んでいる横川と、城下町の錦見(にしきみ)を結ぶ橋をかけたいと思っていた。しかし、錦川は、幅が二百メートルもあり、いったん雨が降り続くと、濁流(だくりゅう)がうずをまき、かける橋かける橋がつぎつぎと流されてしまうので、なかなかよい橋ができなかった。
橋は、延宝元年(えんぽうがんねん、1673)九月三十日にできあがった。が、あくる年の五月、梅雨の長雨で錦川は大洪水となり、橋はくずれ、流れ落ちてしまった。そのため、だれともなく、
「もう、こうなったら人柱をたてて、水の神様のおいかりをしずめるほかにてだてはない。」
という声がでてきた。すると、そのとき後ろの方で、
「ここにいる人の中で、横つぎのあたっているはかまをはいている者を、人柱にしたらどうだろう。」
という声がした。
「そうだ。それはいい考えだ。横つぎのあたっているはかまをはいている者をさがそう。」
と決まってしまい、さっそくはかまを調べはじめた。ところが、横つぎのあたっているはかまをはいている者はたったひとり、それを言い出した男だった。男は、日ごろから信仰心があつく、自分が多くの人の役にたつのなら、いつ命をなげだしてもいいと、人柱になる決心をしたのだった。男にはたいそう親思いの娘が'''二人'''いた。二人の娘は、父親が人柱になることを知り、このうえもなく悲しんだ。娘たちは、
「お父様のかわりに、私たちにやらせてください。」
と、涙ながらに父親をときふせた。そして、二人の娘は、父親の身代わりに、人柱となって橋台の下に埋められた。
その後、錦帯橋の下の石の裏側に、小さな「'''石人形'''」がついているのが見られるようになった。石人形は、小さな小石が集まってできており、大きくても2センチメートルぐらいの、かわいいものである。これを見つけた人々は、
「これは、あの人柱になってくれた娘たちが、石人形に姿を変えたのだ。」
と信じるようになった。水ぬるも春のころ、橋の下を流れる水ぎわで小石を裏返してみると、石人形が見つかることがある。人々は、これをそっとはがし持ち帰り、親孝行な二人の娘をしのび、子供たちに語り伝えたという<ref>[http://www14.plala.or.jp/hotokuenhp/yamaguchidensetu/sizen/kintaikyo.html 錦帯橋の人柱]、青木靖男水彩画廊(最終閲覧日:24-12-23)</ref>。
=== 愛本橋 ===